子供への愛

書きたい題材が色々あります。しかしなかなか以前のように毎日書けていないなぁ…(ルーティンがちょっと変わってしまったので)

noteのことはいつも忘れていないです。note愛。

さて、今日は「子供への愛」をテーマに書きたいと思います。

常日頃、子供を愛し続けて、お腹の中にいた時も含めると15年以上経ちます。

子供への愛について改めて考えたきっかけは、最近、知人の育児方法に少しだけ疑問を感じたからです。他の家庭の子育て方法については、多種多様。とやかく口出しするのは間違ってるし、自分が何をしてあげられるわけでもないので、基本的には気にしない。

だけど、その子と私が関わった時に、やはり他人だからと割り切ることができなくなる。大人同士なら割り切れる。自分の責任だから。でも子供って未熟で親の影響がとても大きいから、親に対して疑問を感じた時にその子がとても心配になるしモヤモヤしてしまう。

と、まぁそれがきっかけで、具体的なモヤモヤはここには書かないけれど、子供への愛、子供への関わり方、いつの時代もどんな人でも完璧な人なんていないし正解が何なのかも難しいことだと改めて思ったので、自分のことを少し書こうと思いました。

またまた自分の親のことを書く。私は、8年前に亡くなった母のことは大好きだったし、まだ存命の父に対しても、縁を切りたいくらい嫌いだった時期もあったけれど今は穏やかな感情で付き合えている。

要するに「自分が親になってみて親の苦労がわかった」ことは間違いない。親になってみないとわかってあげられなかったことはたくさんあった。そしてまだわかってないこともあるんだと思う。だから素直に多大な感謝をしている。母に関しては60代であの世に逝ってしまった為に存在が美化してしまい、「優しくて愛情たっぷりに育ててくれた神のようなお母さん」と、私の中の宗教の教祖に成り上がった感もある(笑)

しかしまぁ、こんな言い方をするのも、そんな自分を客観視している自分がいるからだ。お母さんは確かに偉大で素晴らしかったし私の人生において1番感謝していて大好きなのは変わらないが、私が思春期の頃は反発心もあったし、否定的なことも思ったし、そしてそれは実は今も、その考え(母への否定的な部分)は間違っていないと思うことが多々ある。

母だけでなく父もそうなのだが、うちの両親は「世間知らず」「箱入り」の傾向があった。というか父に関しては、世間知らずでも箱入りでもなかったのだが色々あって「お上品な家庭」への憧れが強く、それを私に強いてきた傾向はあり、母に関しては完全に「世間知らずの娘さん」のまま結婚して仕事も1年で辞めているので、世の中のダークな部分を知らずに完全に他人事と捉えて世間というものの本質を知らないような人だったなぁと思う。(って私も本質なんて分かってないけど…)

今でも度々私の中で思い出される、私の両親の間違った育児法は、

「子供はそんなこと知らなくていい」

ということ。自分が今、息子を育てていて、自分が親に度々そう言われたりされたりしたことを思い出す。

性教育なんてもちろんで、恋愛でも生理のことでもそこらへんのことは「腫れ物にさわる」ような対応。子供は知っちゃいけない、という感じ。世間では色々あったとしても「うちの子には関係ない」とでも言わんばかりの対応。さすがに生理は教えてくれたけど友達のママに聞いたからって母に問いただしたら教えてくれたっていう経緯だし、性教育に関しては何にも知りたいことの書いてない役に立たない本を1冊渡されただけ。

あと、小5の終わりに有無を言わさず引っ越すぞって急に転校した時や(転勤とかではなく、親から後から聞いたのは子供のために部屋を広くしたかった、中学が良くなかった、からだそう。私は小学校の友達と同じ中学に行きたかったし今でも納得いってない)、高校や大学の進路を決める時も、進路に関しては基本は子供が自分で決める体裁は取っていたけれど、親からの無言の圧力があり、このレベル以上の学校に行かないとかありえないみたいな雰囲気があった。

昭和後期〜平成初期、そんな家庭はたくさんあったと思うし仕方ない、親も良かれと思ってのこと、とは理解している。

しかし私は自分が子育てをしてみた結果、私はもし息子が転校するような状況になる時は息子に相談するし(小学生だとしても)、学歴だけが人生じゃないという価値観で進路を決めてもらって構わないし、とにかく「子供は知らなくていい」ことなんて無いと思っている。

情報弱者は、その人の人生の足を引っ張る要素だと思っている。私の思春期までがそうだった。インターネットもない時代、部活で忙しかった中学時代は本屋にも行けないし、私は世間知らずから自力では抜けられず、色々な出来事に混乱した。自分が周りより世間知らずに育てられていることを中学生の頃には自覚していた。家庭からは大した情報は得られないので、少し擦れた友達とか世間を知っている友達の話はすごく興味深かった。

だから高校を選ぶ時に、偏差値の高い学校に行ったら世間を知っている面白い友達があんまり居ないんじゃないの?と思った。世間を知っている面白い友達はだいたい学校の成績はそんなに良い子ではなかったから。でも母が「そんなことないわよ、色んなところから来るから色んな人がいるわよ」と言った。

母も私の通う高校の学区と同じ地域の出身なので、同じところに通っていた母が言うのだからそうなんだなと、中学生の私は信じてしまった。

今思えば違ったんだ。母の言うことなすことだいたいは、世間知らずから来ていた。

人間の悪い部分、汚れた部分に触れずに生きてる人にとって、娘はこれから社会の荒波に揉まれるんだという発想がなかった、それを想像するほどの知識と経験が母にはなかった。

だから、私が高校が合わなくて鬱っぽくなったり、彼氏ができて好き勝手やったり、大学を辞めて専門学校へ行きたいと言ったり、海外に1ヶ月行っちゃったりすることについて、いちいちうろたえて、母にしてみたら生きた心地がしないことが度々あったと思う。

私にしてみたらそんなに珍しい生き方じゃないし、もっと早くに世間知らずから抜け出せたらもっと素晴らしい人生が待っていたかもしれないと悔やむ時もあり、まぁたらればなので、母が私を世間の荒波が全く来ないような安全地帯に、世間の汚いことも何も知らせずに綺麗なままぬくぬく置いておきたかったということも、これまた深い愛だったのだと心底思うし、それに守られて幸せだったという見方もあり、人生なんだかわからない(笑)

ただ、私の性格上、私は世間知らずでぬくぬくは性に合わなかったのだ。そして母はそれを見抜けず、あまりにも私が母の枠から飛び出しまくるので私が大人になるにつれ少しは理解してきたという見解。

私は親に反発してどんどん世間を知ろうとしたけど、今は自分の子供のために自分が世間をもっと広く知りたいと思う。子供がどんな選択をしても理解してあげたいと思うから。そして子供にもたくさん情報を得て欲しいとも思う。(実際、スマホ世代だから、私の知らないこと息子が色々知ってたりするよね…)

そして息子とお互いの知識をすり合わせて、何かを決める時は相談したい。子供だから知らなくていいとか、子供には決定権がない、という風にはしたくない。

私が子供より持っているものは経験値。でも子供はすでに私よりも思考力、記憶力、順応力などずいぶん優れていて(私は年齢とともに低下ぎみ)、身体能力ももちろん私より優れているので、経験値による知恵くらいしか私は教えてあげられない。

そういえば昨日、息子が、授業のノートを教科担任に提出しなければならず(おそらく成績にも影響する)、しかしノートがどこにも無いと困っていた。家にもない。探したので家の中には無いのだ。考えられることは、学校でみんなが「適当に色々置く棚」があるとのことで、そこで取り違えられた可能性も高い。

せっかく授業中にコツコツ頑張って書いたノートだと思うので、息子は放心状態で困り果てていた。私にはどうすることもできないが、息子が珍しく「困っている」を全開で私にアピールしてきたので、しばらく家の中を一緒に探したけど出てこないし、私にできることは特にないと思った。でもできることはないから関係ないと放置するくらいなら、私の経験と知識による知恵でアドバイスすることくらいはできるなぁと思って、それで、

「ノートのある可能性」「出てこない可能性」「ありかの可能性比率」「対処法」などを私なりの考えを話してみた。息子へのヒアリングではやはり「取り違え率」が高めなので、息子自身の管理の甘さの非をもちろん認めつつも、クラスでみんなに聞いてみるとか、先生に相談してみるなどの策を提案してみた。

実際のクラスや先生の様子は息子しかわからないから、私の言ってることはお門違いかもしれないことも想定内。

息子は、一応、私の話を聞いて、「うん…」とだけ(いつものこと)

あとは自分で色々考えてた。

どう考えたかは言ってこないから知らないし、

その結果どうなったかも、言ってこない可能性も高いが、それでいい。

自分のトラブル対処法スキルをそうやって上げていって欲しいと願う母の愛。正直、日々悩むよ、思春期以降の子供に対する愛情のかけ方はね。

子供が小さい頃なら、あれこれお世話して可愛がる愛の比率が多いけど。

自立させる愛。でも放置せず見守る愛。自分とは違う個性を尊重する愛。でも他人ではなくて、かけがえのない愛…。

もし、娘がいたら、同性だから自分と重ねてしまってもっと難しいのかな?

息子に対しては生まれた瞬間から「私と違う生き物が出てきた!」という印象だったので、自分と切り離して考えることはわりと容易い。そして男の子を理解するのは面白い。全部は理解できないんだろうけど。

そんなこんなで、親の愛というのは様々であり、どんな親でも多かれ少なかれ子への愛はあれど、愛のかけ方が間違っている人もいるだろうし、試行錯誤しながら、子供は親を選べなくて、親の影響は大きくて、親は自分の人生も大事にしたい気持ちや事情はわかるけど、子供は子供のうちはまだできることが限られてしまうから、親の身勝手なエゴで子供の人生に制約をかけないで欲しいし、何か身勝手なのか、親の権利と身勝手の境界も難しいけれど、いちいち「子供にとってこれは良いのか悪いのか」は親は立ち止まって問うべきだと私は思っていて、全部を良くすることは物理的に難しいけれど、なるべく良くしていく努力をするのが親の愛だと思うんだよなぁ…

考えることをやめたらいかんのです。何事も。

お読みいただき、ありがとうございます。


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