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時間というthird variable, exploratory artとしての研究, 学ぶhabitus

昨日深夜に2本のproposalを出し終えた。若干ほっとしているものの、proposalを出したということは道筋が見定まりTo Doが明確になったということでもある。別にゴールでは無いので、いわゆるプロジェクト最終報告的な打ち上がり感は無いのだが、それでも小さな山をまた一つ超えたというじんわりした達成感は大事にしたい。

世間では研究者というものはどういうイメージだろう。小さい頃「学者」という言葉で想像していたそれは、"本の山に埋もれ古い文書を漁っているヒゲの生えたおじさん"だった。(どこから私のこの「学者」イメージが来たか…というのはanother sociological inquiryたりえるだろう。)

そういえば私の幼稚園の頃の夢は"考古学者"だった (学者イメージはおじさんなのにこの夢は矛盾せず持てていたのはどういうことだろう、と書いていて思った)。テレビ番組「世界不思議発見」とヒエログリフの本 (点字もそうだったが新しい文字・表現体系を覚えるのはパズルのようで好きだった)、そしてエキゾチックな冒険の香りに魅せられたからという子どもらしい単純な理由だったはずだが、幼稚園の先生は若干ひいていたらしい。(ちなみに人類学・フィールドワークに憧憬の念を抱きがちなのは今もそうだ。)

まぁそのイメージの「本の山に埋もれている」部分は合っているけれど、実際のところの「研究者」は、 (少なくとも今の私は、) もうちょっとモダンだ。古い文書に埋もれる…こともあるけれど、モダンなPC画面で統計分析やプログラミングコードと向き合う時間が、思ったより長い。

Research proposalドラフトへのフィードバックで、あなたの構想には時間という"third variable"があるねと言われてハッとした。自分が生きる世界についてついvaccumのような静止的な認識を持ってしまうけれど、新しい世代は日々育つし気づかない間に自分は30になり10年前とは見えるものも考えることも変化している。目に見えないから忘れがちな「時間」という第三の軸の存在には、研究をする上では足を掬われそうになることもあるけれど、人生を生きる上では救われることもあるように思う。ゆく河の流れは絶えずして、とはよく言ったものだ。

まぁそういう訳で、私の小さい頃の「学者」イメージが生きていた世界と私が「研究者」(の卵) をやっている今の世界は、異なるplaneにあるということなんだろう。そして"点Pは動く"。
今私がやっていることは、ある側面においては意外と、コンサル会社の頃と共通する部分があるように思う。分野の知識を整理し、時代の変化にセンシティブに、流れを読みながらリサーチを紡いでいく。(或いは5年いたことで私のデフォルト思考がそうプログラムされてしまったのかもしれない。)

怒涛の2月を超えて思ったこととしては、 脳筋みたいなことを言うが、「とりあえず座って机に向かう時間を確保する」ことの大切さである。
天才じゃないので発想なんて突然降りてくる訳がない。だから方向性が見えなくても日々あくせく読む。コンサルは仮設思考が、とかWBSが、とか言いがちだ。でも研究はもうちょっと、アートというか、ざっくりぶち込んで煮込んでみてどうなるか、というexploratoryな知的作業な気がする。もちろん方向性の仮説を立てて先行研究を探しそれでいいのかダメなのかをテストする、という読み方もするはするのだけど、同時に"何か気になったもの"は端から読んだ方がいい、という勘も、大事にしたいと思うようになった。

で、私がこんなことをわざわざ言語化して書きたいと思うのはなんでなんだろう?ともふと思った。
「学ぶ」は「まねぶ」だったとか、守破離とか言ったりする。齢(almost)30にして実に正しいなとひしひし思う。
学校で教室で先生から伝達してもらうコンテントを吸収することだけが「学ぶ」ことでは無いのだけど、「あなたはこのハビトゥスが、文化的資本が足りない」なんて誰も言ってくれない。コンテントを理解するという表面上のことより大事な深層部分のハビトゥスは、今自分に何が足りないか、何が必要かを判断して必要な行動を実行できることだと思う。
個であることと孤独との微妙な差異だけれど、そういう性質の"ナレッジ"についてのヒントは、他人との交わりから得られることが確かにあって、でもそれは聞いたらすぐ答えが返ってくるものでもないから最終的には自分で読み取って解釈を作るしかない。
学ぶということには忍耐が必要なのだ。
そういうことを、明確に言語化されなくても文化資本として持っている人たちが、沢山周りにはいた、と思う。そういう人たちからすると、私は言語化"しすぎ"らしい。しすぎ、って?誰にとってのどういう基準を、なぜ超えたと感じるの?なぜそれは、"行き過ぎ"なの?

言語化できたから私は今ここにいるし、言語化することが仕事だと思っている。
このブログはそんなことを、小難しい論文ではないやり方で表現してみたいと思い書き綴っている場所だ。私も、誰ともしれぬ方のブログ記事を見ながら「ハァ〜そういうことか」と理解が深まったりすることがある。
このブログだって、会ったこともない会うこともない誰かの何かの気づきに資するかもしれない。

まぁそうやって世界は回っていく。

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