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現実主義的理想主義と実証主義への適応

3月中旬に一週間あった春休みは(北の)お隣ミネソタ州のミネアポリスにでかけてみたり (車で片道4時間ほど)、先週はフルブライトのエンリッチメントセミナーで南部ジョージア州のアトランタ (飛行機で2時間ほど)に後半ずっといたりしたので、中々バタバタしていて落ち着いて思考を言葉にする時間が取れなかった。
3月があっという間過ぎて気付けばもう4月、というか一年目の終わりが見えかけている事実に ("end of year deparment lunch"というインビテーションが飛んで来た際は思わず"ウソでしょ…"とこぼしてしまった) ホッとするような焦りを感じるような今日この頃だ。

ちなみにフルブライトエンリッチメントセミナーは、想像を超えた得難い経験になった。まぁ奨学金に応募する時には多分そんなことまでは考えない気もするので、この話が誰得なのかいまいちわからないが、個人的には数あるフルブライト奨学金の素敵な面の一つとしてもっと強調されてもいいんじゃないかなと思ったりした。フルブライトというと「米国政府奨学金」なので二国間のイメージが強いのかなと勝手に思ったりするのだが、実際には米国には世界中からのフルブライターが集まるわけで、今回のセミナーは昔参加した国連会議をどこか思い出させた。90カ国以上からの参加者の出身都市を示した世界地図が投影された時には唸ってしまった。セッション・アクティビティ毎に「ハロー」と周りの席の人と話し始めるのだが、毎回見事なまでに違う国の人と出会う。これだけ異なる場所に生きてきた人たちが一堂に会する場を作り出せるフルブライトというシステム (とこれを可能にした政策判断) に感嘆してしまった。

国の狭間に生まれたからなのか、小さい頃から国際舞台というものへの憧憬があった私にとって国連は一種の夢だった。もちろん大人になるにつれ、インターン・市民団体の一員として実際その場をのぞくにつれ、国連がリアルな国際政治の最前線であること、理想主義だけで存在できる場所ではないことを知るのだけれど、それでも今なお国民国家システムの中にぽっかり空いた空洞のような”国際社会”という場所は、私にとって夢のある場所だと思う(ハマーショルドはそれを現実主義的理想主義と呼んだと思う)。
だから、社会学者という昔持っていた夢とはちょっと違う道を歩き出した今、また馴染み深い空間に戻ってこれたことがなんだかとても嬉しかった。

その他最近考えていることとしては、前のポストでもエッセンスは香っていたかもしれないけれど、実証主義の色が強いアメリカ社会学への適応に、もがいているように思う。

物事を捉えるレンズを得ていくことが学ぶことだと思ってきたけれど、概念を得る / 洗練させていくというのは結構哲学的な作業なんだろうなぁと最近思う。もちろん実証研究がこの作業抜きにできるという訳ではなくて、ゼロイチというよりどっちに力点があるかというニュアンスの話だと思うのだけれど、でもやっぱり「What」の注意深い洗練よりも「Why」の説明を実証的に詰めていくことにこの地では力点が置かれているんだろうなと思う。

まぁ、ただ私の学部・修士は"Whatの洗練"型だったとはいえ、会社を経験したことで私の中に否定できない実証主義フェイボリティズムの芽が芽生えた自覚はある (し、だからアメリカPh.D.を選べたのだと思う)。し、実務の世界でChangeを起こすには実証の力が必要ということは身に染みて感じてきた。そう、これも最近のふとした会話で気付いたことだけど、私の根っこはやっぱり観察者というよりは(十分に観察した上で)どう変化をもたらすか、という実務者的らしい (マルクスはそれを、哲学者は世界を解釈してきたけど、ポイントは世界を変えることにある、と言ったと思う)。

まぁだから、なんとも中途半端なスタンスだなと言われそうだが、葛藤しながら選択を作っていくことが大事なんじゃないかなぁと思いながら時にストレスで爆食いし、時に(とりわけ天気が良い日に) ご機嫌に机に向かう毎日を続けている。

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