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最後まで人とコミュニケーションをとりたいという願い

今日はちょっと重めなことを書きたいと思う。
先日、職場の利用者様相手に演説のような言葉をかましてしまった。

介護職としてどうなのか? とも思うが、私自身は利用者様と職員としてではなく、人と人としての向き合い方をしたい方だ。職場での話を書くというのはプライバシーや個人情報の話にもつながってくるので書くことは躊躇もする。ただ、その方が特定できない書き方で今回のことを書きたいと思った。この話はとても大事なことなように感じてるから。これは私だけでなく、私の同世代で親の介護問題に差し掛かっている人には割とリアルな話だと思うから。

私は今、入居型の老人介護施設で働いている。正職員としてガッツリは働いていないが、その職場ではもう3年目になり、だいぶ仕事にも慣れてきた。3年経つと利用者様の健康状態は変わってくる。認知度、筋力、体力、病状の進行等、色んな変化が起こる。子どもが成長するにつれ、出来なかったことが出来るようになるのは喜びであるが、高齢者の方々が出来ていたことが出来なくなるのはご本人にとってとても辛いこと。理解できていたことが理解できなくなる。動けていた身体が動けなくなる。それを実感するほど自分はどうなっていくのかという不安で鬱症状になる方もいる。

私の持ち場には難病を患っている方もいる。難病というだけで辛いと思うし、病状が進行していくことで自分がどうなっていくのか?という不安は大きいと思う。その不安に押しつぶされそうになることは人間として当然だと思う。入居型の施設はその方の生活の場なので、ご自身が見せたくない姿や、見せたくない感情さえ表に出てしまうこともある。不安やとりとめない想いを誰かに聞いてほしくても遠慮はあるだろうし、職員も仕事に追われ、ゆっくりお話しを聞けないことも多い。

そんな中で時に感情が爆発する場面がある。その時、職員はどう応対するのが適切なのだろう? あまり踏み込んではいけない部分もあるし、踏み込むことでトラブルになったり人間不信になることもあるだろうし、この人はわかってくれると依存や執着に発展させてしまうこともある。だからといってご本人にとって真剣な場面にはぐらかしたり、誤魔化したり、空かすようなことは人間同士の向き合い方としてどうなのだろうかと私は考えるのだ。

で、先に書いた利用者様相手に演説をかましてしまった件である。

その方は難病をお持ちで、最近病状が進んできていることを実感して情緒が不安定になっているようだった。難病を持つ自分と周りの人との隔たりを感じて、周りの人が自分の悪口を言っているように聞こえるらしい。その方が以前通われていたデイサービスに同じ難病の方がいたそうで、自分と同じ病気の病状が進行した姿を目の当たりにしていたことから不安でたまらないようだった。

不安や恐れから悲観的になり、被害者意識が強くなる。被害妄想が始まる。自分が正しいと思ったことに固執する。自分の思った通りに人を動かしたくなったり、人を変えたくなったりする。自分のこだわりが強くなり、思い込みが強くなっていたその利用者様が、なかなかの勢いで現実とは違う思い込みを信じて食ってかかってきた。その時に私はこんな風に話した。

「○○さんが先ほどからおっしゃてることは現実ではありませんよ。この中には自治体もないし役員もいません。○○さんがあると思っている自治体はここにないんです。

先ほどおっしゃっていた妄想の世界にいるとご家族にご指摘されたことは、○○さんが信じていることが事実と違うのに現実だと思い込んでいると伝えたかったのではないでしょうか。

とはいえ、誰でもその人の思い込みが現実だと感じてるとは思います。私も私が感じているもの、私に見えているものが自分の世界の現実なのですから。でも、だからといって、自分が感じている思い込んだ現実を他者も同じように感じている訳ではないんです。

○○さんが思っているより人や現実は優しいと思いますよ。

優しさにも色々あるし、自分が思っている優しさと違うから相手が冷たいという訳ではないし、いい人なんて自分にとって都合が良い人を人はいい人だと思うんだと思います。自分が思った通り、願った通りと違うからと言って、優しくないとか冷たいとかひどい世界ではないと思うんですよ。」

話しながら私は悲観的だった頃の自分にも言っている気がした。自分が嫌いだった時、自分がみじめに思えていた時、生きにくくて仕方なかった時、私自身も人や世界や現実が怖かったし、人が自分をどう思うのか、人が自分を悪く思っているようにしか思えない時があった。苦しい時は、人はみんなそうなってしまうのかもしれない。

その方と話している中で、たくさんの不安や嫌悪の言葉の中からその人が望む願いというのがわかった。

「最後まで人とつながり、コミュニケーションをとりたい」

ご自身で意識しているかどうかはわからない。会話の中で私が発見した願いだった。でも、これはきっと、人間という生き物すべてが望む根底的な願いだと思う。高齢者だけでなく、どの世代の人も、大きな願いはきっとこれだと思うんだ。

どんなに華やかで楽しそうにしている人にも、人それぞれの悲しさや想いがあると思う。でもそれを人がどうしてあげることもできない。

私は人の話を聞くのが苦手なこともあり、人の悩みとか、話を聞いてほしいという度合いや要望が強くなり過ぎると「これ以上はお金とるで?」と言ったりする。ひどいなとも思う。でも自分ができる許容範囲の中でなら大丈夫だけど、それを超えてくると最終的に関係が悪くなった経験から自分の為にも相手の為にも線は引く。

「最後まで人とつながり、コミュニケーションをとりたい」という願いのもっと奥には、どんな自分になっても尊重されたいという想いもあると思う。

人って面倒くさい。私自身も面倒くさい人間だ。でも、この面倒くさい自分を本当に面倒見られるのは自分しかいないと思う。どんな自分になっても尊重されたいという願いには、まず自分が自分自身のことを尊重できなければ。最後まで人とつながり、コミュニケーションをとるには、自分とつながって、自分とコミュニケーションをとらないとできない。

この話は高齢者と関わる現場の話の中で感じたことだけど、でも、どの世代にも、どんな人にも言えること。自殺が増えているのも、最終的には、こういう悩みが根源だと思うんだ。私は人を救えないとは思う。だけど、どっかで私が書いた文章に綺麗な夕焼けを見たような気持ちになってくれたらなという願いもあるよ。

ちょっと重めな話でしたが、けっこう大事なことだと思っています。どっかの誰かに届いたらいいな。

利用者さんと話した後の休憩時間に空を見てた
分厚い雲から光が差してきた


青空が見えてきて
光が広がって
太陽が現れた


そんな空を屋上のベンチで寝転びながら見てました


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