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「自己決定」と「自己責任」。

ーーどう生きるのか?

親世代のように、いい学校にいって、いい会社に入って、家庭をもって、老後は年金をもらって...という安定したライフコースを辿るのが難しくなり、運良くそうできたとしても、それが本当に幸せなのかもわからない。そんな時代を生きる若者にとって、常に突きつけられるこの問いに、私たち大人はどのように応えていくことができるのか。

そのヒントを探るため、デンマークの進路選択を例に考えてみたい。

デンマークでは幼い頃から「あなたはどうしたいのか?」と常に問われ、自分で考えて自分で決定する「自己決定」が重視されている。「自分で決めること(Selvbestemmelse)」は義務教育における指針の1つにもなっている。

進路選択においても同様で、親や先生ではなく、自分で決める。

デンマークでは小中学校を卒業すると、高校や職業学校に進み、大学に進学したり、働くのが一般的であるが、その折々に休んで考えるための「余白」をとることができる。

例えば、高校に進学する前に1年間「一度勉強から離れて、自分の好きなことに打ち込みたい」「もう少し将来何を学びたいのか考えたい」という若者のために『エフタスコーレ(efterskole)』という学校があり、該当年齢の約30%が入学している。他にも、高校を卒業後に『サバトオー(sabbatår)』をとる若者は80%にのぼる。1〜2年間働いたり、旅をして、様々な経験を積んだ上で、大学に進学するというケースが多い。

つまり、休みながら、様々な経験の中で自己理解を深め、自分のペースで「自己決定」することが容認されているのだ。

あるエフタスコーレの先生はこのように話した。

(エフタスコーレの経験を通して)「自分が何者であるか」を知ることが、1番大切なことだと思います。そのためには信頼できる大人の存在が必要です。(...)私は自分の経験を話すことができますが「彼ら彼女らが何者であるか」を伝えることはできません。それは自分たちで見つけなければなりません。自分たちで道を歩んでいかなければなりません。

「自己決定」を大切にしながらも、それを見出すための「余白」やサポートする「大人の存在」がそこにはある。

日本ではどうだろうか。2018年に行われた「若者未来サミット」における、日本の若者の以下のような発言には、共感するところが多い。

私たちの過ごす小中学校時代というのは、友達同士で言われることも多分そうだし、先生からの指導もなのですけれども、何だか、すごく、周りと「同じであること」を、ずっと小さい頃から求められてきたような気がしていて。自分の選択ではなくて、ずっと、皆と同じであることを求められてきたのに、高3になって、「はい、選んでください」のようなものが、何か、こう、いきなり来るようなイメージが、とてもあって。同じであることを求められるのも辛かったし、それなのに、高3で突然、「選べ」「はい、自己責任だよ」ということが、何か、「えっ」という感じがして。

日本弁護士連合会, 2018,「若者未来サミットin青森」p.15

デンマークと日本。同じ「自己決定」でもその意味合いが大きく違う。サポートありきの「自己決定」なのか、それともサポートのない「自己責任」を伴う「自己決定」なのか。

本サミットの最後には、日本の若者が「やり直しができる、試行錯誤ができる、そのような仕組みや保証が必要」であると訴えた。

ーーどう生きるのか?

若者からこう問いかけられたとき、私たちはどのように応えるべきか。おそらく大人でさえもその答えはわかっていない。そんな私たち大人が若者にできることは「余白」を認め、一人ひとりが自分の納得する道を「自己決定」できるようサポートすることではないだろうか。


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