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『夏の終わりに思い出すのは君のこと。』(6)
間近でみる、初めての蝉を描き漏らすまいと、
色鉛筆を手早く持ち替えては、スケッチブックにその形を写していく。
隣にいる彼は、蝉の乗った枝を動かさないように、しっかりと手に握っていた。
もしかしたら、スケッチブックにのめり込む私を、もの珍しく見ていたかもしれない。
いつもなら、見られていたら、恥ずかしくて絵を描いてなどいられないけれど、
森と蝉の声に囲まれた世界には、二人だけしかいなくて、私達は運命共同体な気がした。
蝉の声の中に、「カナ カナ カナ カナ‥」という声が混じって、夕方になったことを知らせる。
同時に、私の絵の中の蝉も、完成した。
絵の中心には、隆起したクヌギの木の表面を、しっかりと掴む蝉がいる。
ひんやりとした印象で描いたクヌギの木とは対象的に、蝉は温かな印象で描いた。
短い時を精一杯歌う、命を燃やすミンミン蝉を。
色鉛筆を置き、「できた‥。」と一息ついた私に、
彼は「綺麗だね。」と声をかけた。
その時、私は急激に現実に引き戻された。
絵の中の蝉を褒めていることは、分かっている。
それでも、同じ年頃の男の子が、そんな言葉を口にしているのを初めて聞いて、動揺せずにはいられなかった。
左耳のすぐ側で声が聴こえて、こんなにも近くにいたことに、改めて気が付く。
目を合わせられずに、下を向くと、
視界の中に、蝉の乗った枝を持つ、彼の腕が見えた。
区民プールへ行って、少しだけ日焼けした私の腕より、白い肌。
それでも、手は私より大きかった。
彼は、私の運命共同体なんかではなく、
「男の子」だった。
私が黙ってスケッチブックに目を落としていると、
彼は立ち上がり、蝉をもと居たクヌギの木に返した。
蝉は、黙ってゆっくりと木を登り始める。
私は、「ありがとう。」と、彼の背中に声をかけた。
少し距離を保てたことで、やっと声を出すことだ出来た。
「いい絵が描けて、よかったね。」
彼が振り返った時、前髪の間から覗く瞳がきらきらと光った。
何を話したら良いか分からず、ほんの少しの間、
木を登って行く蝉を眺めていた。
すると、
「もう帰らなきゃ。」と、彼が言った。
突然の彼の言葉に、思わず、
「名前は?」と聞いた。
「アキヒロ。」と、こちらを見て彼は答える。
「アキヒロ。」と、私は心の中で繰り返した。
「じゃあね。テラシマ アカリさん。危ないから、早く帰ってね。」
そう言って、彼は駆け出した。
遠ざかって行く背中に向かって、
「ありがとう、アキヒロくん!」
と、私は大きな声を出した。
アキヒロくんは振り返って、一度だけ腕を振ってくれた。
蝉の声に掻き消されるように、彼の姿は見えなくなった。
「カナ カナ カナ」と蝉が鳴く。
この声を聴くと、懐かしくなるのは何故だろう。
少しだけもの哀しくもなる。
切なくなるのは、何でだろう。
(つづく)
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