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『夏の終わりに思い出すのは君のこと。』(5)

彼は、ベンチに座る私から少し距離を取り、
蝉の背を私に見えるように右手に持ちながら、立っていてくれた。

半泣きで、スケッチブックに絵を描き込む私を、彼は少し呆れた顔で見ている。

「虫苦手なのに、描こうとしてたの?」
と聞く声にも、それは滲んでいた。


「だって‥‥。
高所恐怖症だって、そこに橋があれば渡りたくなるかもしれないし、
お腹いっぱいでも、デザートは別腹とかいうし‥。」

私は、画用紙に描いたクヌギの木の上に、せっせと蝉を描き込みながら、
わけの分からない言い訳をした。

「ふーん。」
彼は、一言だけそう返した。


暫くして、
「この距離じゃ見えにくいでしょ。もっと近くで見たら?」
と、彼が提案した。

私が、まだまだ絵に苦戦していた事を見抜いたのだろうか。
確かに、蝉が木の上にいる時よりは、大分近くで見られるようになったが、羽などの細かい部分はよく見えていなかった。


「蝉は噛んだり刺したりしないし、危なくないよ。」

彼の言葉に何故か説得力を感じたことと、蝉を持って立たせたままでいるのも悪い気がして、
少し考えた後、私は「うん。」と答えた。


彼は、私の隣に座ると、虫捕り網に使った細い枝に蝉を優しく乗せた。

「ほら、怖くないでしょ。大人しいんだよ。」と言う言葉に、私は頷く。

飛んで逃げてしまうのではないかと、一瞬たじろいだが、蝉は細い枝にしっかり掴まって、じっとしていた。

「これ、何て言う蝉だろう。」
私が言うと、彼は、ミンミン蝉だと教えてくれた。

蝉は、とても大きな虫だと思っていたが、
全長の3分の2を羽が占めていて、胴体は短く、コロンとしていた。

身体には、エメラルドグリーンと黒色でマーブル模様が描かれ、艶々としている。

濁りのない透明色の羽に、細い線が放射状に入っており、葉っぱを陽の光に照らした時に見える、葉脈のようだ。

蝉は、想像していたよりも、美しかった。


私が夢中で絵を描いている間、彼は静かに隣にいてくれた。

私が蝉を怖がらなかった理由。
それは、蝉が思っていたよりも大人しかっただけではない。

きっと、彼が隣にいてくれたから、心強かったのだ。

(つづく)

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