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『太宰治は、二度死んだ』――あとがき:フィクションと事実の狭間で(一)

次話:(二)

 本編『太宰治は、二度死んだ』は、昨日(2024年5月23日)更新分で無事完結致しました(全30話+エピローグ)。

 多くの方に読んでいただき、心から感謝申し上げます。
 
 本編は史実を基にしたフィクションです。よって、あくまで物語としてお楽しみいただいて全く問題はありません。
 ありませんが……

「じゃあ、史実の方はどうなってるの?」
「テクストにおけるフィクションと事実の関係は?」

 といった問題が気になる方も、もしかしたらいらっしゃるのではないでしょうか。
 
「いや、別に」
 
 ――と言われれば、それまでなのですが(汗)、ここは話の展開上、
「まあ、言いたいことがあるなら言ってみれば。聞くだけ聞いてやるから」
 というお言葉を頂戴ちょうだいしたと仮定して、話を進めさせていただきたいと思います。
 
 太宰治(津島修治)と田辺あつみの心中事件――〈鎌倉心中〉、〈七里ヶ浜心中〉等と称される――は、昭和五年十一月二十八日夜に起こりました。

 太宰の心中事件はこれを含め、全部で三件あります。二回目は昭和十二年、第一夫人小山初代との群馬県水上温泉での心中未遂、そして三回目にあたるのが昭和二十三年、山崎富栄との玉川上水での心中事件。この三回目の心中によって、太宰はかえらぬ人となりました。
 
 玉川上水に入水したのは六月十三日ですが、遺体が発見されたのはしくも六月十九日、太宰治三十九歳(満年齢)の誕生日でした。最後までドラマチックな一生だったと言えますが、それにしても、四十歳に至らぬ若さで、文豪はその生涯を終えてしまったのですね。
 
 この三つの心中事件の中で、最も謎に包まれているのが、田辺あつみとの〈鎌倉心中〉だと言えます。しかも、太宰文学の中に描かれた回数の最も多いのも、この事件なのです(まあ、三回目の心中事件では太宰自身が亡くなっているため、書きようがないのですが)。
 
 では、〈鎌倉心中〉が描かれたのは、どういった作品なのでしょうか。例えば――
 
①  『晩年』のうち、「葉」
②  『道化の華』
『虚構の彷徨』のうち、「(2)狂言の神」
『東京八景』
『人間失格』
 
 以上は、心中事件が直接的に描かれた作品です。
 他に、直接的に描かれているわけではないものの、この事件からインスピレーションを得たと指摘されている作品もあります。中でも特に有名なのが――
 
『魚服記』
 
 です。
 
 いずれも太宰文学における著名作ですが、特に①~③の初期作品が集中的にこの事件を扱っていることがわかります。
 
 つまり、どういうことが言えるのでしょうか?
 
 ――もし田辺あつみが帝大生津島修治の前に現れなかったら、小説家太宰治は誕生していなかったかもしれない。
 
 それだけこの〈鎌倉心中〉は、太宰治の文学生涯を決定づける大きな意味を持っていたと考えられるのです。
 
 ところが、この事件は長い間、非常に歪曲された形で伝えらえてきました。
 その中でも最大の虚構フィクションは、心中の地点と方法が、〈江の島そでうらにて投身自殺〉となっていたことです。

 海への〈投身自殺〉というのは、太宰が作品の中でそう書いているのですが、作品が小説である以上、事実そのままである必要はありません。
 
 問題は、S文庫〈太宰治略年譜〉に、太宰の小説内における記述――〈虚構〉が、〈事実〉として記載されてしまったことにあるのです。
 
 読者としては、〈略年譜〉に書かれてある内容を〈事実〉だと捉えるのが普通です。それを疑うのは、わたしのように心の捻《ね》じくれた人間だけです。
 
 このようにして、多くの心の美しい人々に、この〈虚構うそ〉の年譜はそのままの形で受け入れられ、結果として〈太宰伝説〉、あるいは〈太宰神話〉と呼ぶべきものが形成されていったのです。
 
 しかし――
 実はわたしは、高校生の時既に、この〈略年譜〉が嘘っぱちだと気づいておりました。――なあんて言うと、名探偵を気取っているようですが、気づくには気づくだけの理由があったのです。
 それをこれから書こうと思います。
 
 私事で恐縮ですが、話は私の高校時代に遡ります。

 わたしが太宰文学にはまったのは、高校生の時です。『道化の華』も、もちろんその時に読みました。

「ここを過ぎて悲しみのまち。」

 冒頭の一行にまず痺れました。まあ、当時の私は多分に感傷的――太宰作品的表現で言うところの〈おセンチ〉で、文学作品に「悲しい」とか「寂しい」とかいう語が出てくると、それだけで陶酔してしまうところがあったのですが(は、恥ずかしい)、それでもこのカッコよさは別格な感じがしました。
 
 それで貪るように読んでいったわけですが、そのうち、「きゃー!」となるような箇所にぶつかったのです。それはこんな一節です。

その前夜、袂ヶ浦・・・で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ・・・・・・・・・・・・、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであつた。(傍点部筆者)


  ――え? これってうちの近所じゃん!
 本編『太宰治は、二度死んだ』でも出てきますが、小動崎の七里ヶ浜側の海岸を〈袂ヶ浦〉と言います。
 私の実家は七里ヶ浜にあり、この現場までは、歩いてせいぜい20分くらいの距離です。
 
 ――太宰って、うちの近所で心中してたの?
 
 高校生にとって、これはかなりの衝撃です。
 憧れのアイドルが実は近所のマンションに住んでいた、みたいな衝撃です。
 
 結果、文学作品を鑑賞するというより、俄然週刊誌のゴシップ記事を見るような興味で読み進めていくと、どうにも首を傾げざるを得ない場面が出てきました。こんな一節です。

葉蔵は園の死んだのを知つてゐた。漁船でゆらゆら運ばれてゐたとき、すでに知つたのである。星空のしたでわれにかへり、女は死にましたか、とまづ尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら・・・・・・・・・・、と答へた。(傍点部筆者)

〈心配しねえがええずら〉。わたしが引っ掛かったのは、この言い回しです。地元民として確信をもって言わせていただきますが、七里ヶ浜、腰越、江ノ島地区に、こんな方言はないのです。
 語尾に〈~ずら〉をつける言い方は、静岡方言にはあるそうです。太宰は職業作家となってから、熱海の旅館に泊まり込んで執筆することがありましたが、熱海では耳にするかもしれません。でも、鎌倉周辺でこの言い回しを聞く可能性は〈ない〉と断言していいと思います。
 
『道化の華』の記述に従えば、主人公大庭葉蔵と園(モデルは田辺あつみ)は、小動崎の袂ヶ浦から海に跳び込み、運よく港へ〈歸帆の漁船〉に助けられたことになります。この辺で漁船と言えば、腰越漁港から出ることになりますが、腰越漁港と袂ヶ浦は地理的に少し離れていて、二人が飛び込んだ位置が、腰越漁港に帰る漁船の通り路にあたっていたというのが、ちょっとあり得ない状況に思われたのです。
 
 それに皆さん、ちょっと冷静に考えてみて下さい。
 
 海に投身自殺しようとする人は、他人に発見されないような場所を選んで跳び込むものでしょう?
 そこにちょうど漁船が通りかかり、その漁師に助けられるなんて話が、現実にあると思いますか?
 
 しかも、時間は〈夜〉ですよ。
 
 あり得ないでしょう? いくらなんでも。
 
 繰り返しますが、『道化の華』はあくまで小説です。小説である以上、〈事実〉そのままでなければならぬというきまりはありません。
 
 ただ、この作品が太宰の実体験と深い関わりを持っていることもまた事実です。そこで興味をそそられた私は、現実の太宰はどうしたのかを知りたくなりました。
 
 では、どうやって調べるか。
 一番手っ取り早い方法は、巻末の〈著者略年譜〉を見ることです。
 
 お小遣いで本を買う高校生に、函入りの全集など買えませんから、もちろん文庫本で読んでいるわけです。太宰作品の文庫本として一番ポピュラーなのは、なんと言ってもS文庫でしょう。
 わたしも御多分にもれず、初読はS文庫版でした(今回、本編及びこの「あとがき」で引用しているテクストは筑摩書房版全集です)。
 
 ところが、このS文庫版の〈略年譜〉が曲者だったのです。
 
 ――では、いったいS文庫版〈太宰治略年譜〉とはどんな内容だったのか?
 
 それを、次回で明らかにしたいと思います。

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