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『太宰治は、二度死んだ』――あとがき:フィクションと事実の狭間で(四)

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 本編『太宰治は、二度死んだ』(全30話+エピローグ)の「あとがき」エッセイ(四)です。

 ――太宰治は、私小説作家である。
 
 こう言うと、
 
「違うだろ! 太宰はあたかも自分の経験のようにして、巧みにフィクションを描いた作家なんだ」
 という声が上がると思います。
 
 まあまあ、落ち着いて下さい。その点は、私もわかっております。
 だって、私はそもそもはテクストに描かれた〈田辺あつみ〉の虚像についてお話しさせていただこうと思っているのですから。
 
〈日本近代文学における私小説とは何か〉という議論は、大正十四年の久米正雄の「『私』小説と『心境』小説」以来延々と続いており、驚くことに未だに〈これが私小説だ!〉という定説はありません。
 
 ちょっと話が硬くなってしまうかもしれないのですが、先ず〈私小説〉の定義についてのコンセンサスがないと議論がかみ合わなくなってしまいますので、暫く我慢してお付き合いいただければ幸いです。
 
 平成十二年、つまり二〇〇〇年ですが、鈴木登美が『語られた自己―日本近代の私小説言説』の中で、〈私小説とは結局、読みのモードだ!〉という意味のことを書いて、けっこう話題になりました。鈴木はこう述べています。

読者が当のテクストの作中人物と語り手と作者の同一性を期待し信じることが、そのテクストを究極的に私小説にする。

 要するにですね、テクストの内容がたとえ全てフィクション――平たく言えば嘘っぱちであったとしても、読者がそれを〈作者の実体験〉だと信じちゃえば、そのテクストは〈私小説〉になるってことなんです。
 
 現代日本文学の私小説作家であった、故西村賢太さんは、『随筆集 一私小説書きの独語』の中で、〈私小説の虚構性〉について非常に面白いことを書いていました。

私小説とはノンフィクションと同義語ではない。私小説と云えど、確と〝小説〟なる語が付くとおり、これはあくまでも小説(フィクション)である。当然、小説中の事実が、すべて現実の経験とイコールするものではない。著者インタビューなぞで、事実と虚構の割合をよく聞かれるが、その都度、私の答えはそれの比率が変わっている。九割が実で一割が虚或いはその全く逆を述べることもある。(中略)一つの作に盛り込む主観的事実には、実際のところ事実であっても割愛している部分も多い。一つの経験を盛り込むにしても、作者が取捨したパーツのみで語ってしまえばその経験は実際の経験とはまた異なるものになるであろう

 確かに、実体験を題材にしたとしても、それが書かれる過程で、作者による〈取捨選択〉が行われたとすれば、テクストは当然、作者の実体験とは〈異なるもの〉になるわけです。
 
 西村さんにとって、私小説の〈虚構〉とは、自己の経験の〈取捨選択〉を指すようですが、太宰の場合は、もっと大胆に〈虚構〉を盛り込みます。
 
 田辺あつみさんと〈小動崎畳岩〉で〈カルモチン〉を服用していたにも拘らず、〈江ノ島の海に入水した〉と書くわけですから、太宰のテクストを読む時には、たとえ主人公が〈私〉であっても、相当眉に唾を付けてかからなければならないのです。
 
 太宰のテクストに登場する〈私〉を、私たちはどのように捉えればいいのか、あるいは捉えてきたのでしょうか。この微妙な問題について、安藤宏が『「私」をつくる 近代小説の試み』の中で大変わかり易く説明してくれています。

作中の「私」は作者その人ではなく、あくまでも「作者」であることを演技している「私」である。仮に作者の実生活を描いた小説があった場合、「私」がいわばリングネームとしての「芥川龍之介」や「太宰治」を演じて見せているのだ、と考えてみてはどうだろう。「私」の演技によって読者の間に「芥川龍之介」や「太宰治」のイメージが次第に醸成されていき、その共通理解を元に、真の作者はさらにあらたな小説を書いていくことが可能になる。たとえば太宰治に関して言えば、自殺未遂をくりかえし、薬物中毒に苦しみながらも自身の弱さから目をそむけず、既成のあらゆる権威に戦いを挑み続けた無頼派作家、というイメージは、実は小説を書くために、あるいは小説を受取るために、作り手と受け手とが共につくり上げた伝承世界でもあったのではないだろうか。

 正に卓説だと思います。
 
 ――役者になりたい。
 
 太宰治の記念すべき第一作品集『晩年』の冒頭を飾る「葉」の中の一節です。私の本編の中でも、あつみの前で、修治にこの台詞を語ってもらいました。
 
 役者になりたい。太宰はこの願望を、ある意味完璧な形で実現したと言えます。
 太宰の死後七十年以上の時が過ぎてなお、私たちは彼の〈演技〉にどうしようもなく振り回されているのですから。
 
 私たちだけではありません。
 太宰に描かれた女性たちも、また。
 
 では、いよいよ次回から、田辺あつみが描かれたテクストの具体的な分析に入ります。

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