見出し画像

『太宰治は、二度死んだ』――あとがき:フィクションと事実の狭間で(三)

前話:(二) / 次話:(四)

 本編『太宰治は、二度死んだ』(全30話+エピローグ)の「あとがき」エッセイ(三)です。

 前回はS文庫版〈太宰治略年譜〉の〈嘘〉について書きました。ただ、問題な部分は〈略年譜〉だけでなく、〈表紙見返しの著者紹介〉にもあったのです。
 
 では早速、S文庫旧版の〈著者紹介〉の内容を見ていきましょう。前回も申し上げましたが、この内容は昭和二十年代から、少なくとも平成十三年頃まで使用されていたもので、例の〈江の島袖ヶ浦に投身〉という〈嘘〉が〈略年譜〉に記載されている版です。

青森県金木村生れ。本名は津島修治。東大仏文科中退。在学中、非合法運動に関係するが、脱落。バーの女と江ノ島で心中をはかり、自分だけ助かる

 ――バーの女

 田辺あつみさんを指しています。
 
 バーの女。すごい言い方ですよね? この表現的問題は後から述べるとして、先ずS文庫における記述的な矛盾点を指摘します。
 
 旧版新版を問わず、〈略年譜〉において、田辺あつみの職業は〈銀座裏のカフェの女給〉となっています。ところが、旧版の〈表紙見返し〉では、〈バーの女〉となっているのです。

 私の本編の中でも書いたように、当時の〈バー〉と〈カフェー〉の区別は必ずしもはっきりしないのですが、それにしても、同じ本の中で、〈バー〉と書いたり、〈カフェ(ー)〉と書いたりするのも変な話で、「どちらかに統一したら?」と言いたくなります。

 統一されていないと言えば、〈略年譜〉では〈江島〉なのに、表紙見返しでは〈江島〉となっています。些細なことと言えばそうなのですが、私としてはちょっと気になるところです。
 
 参考までに紹介すると、相馬正一は『新潮日本文学アルバム19 太宰治』の〈評伝〉の中で〈銀座のバー・ホリウッド〉と書いています。
 これに対し、『別冊国文学 太宰治必携』の〈太宰治略年譜〉や、長篠康一郎の『太宰治七里ヶ浜心中』では〈カフェー〉と記されており、私の本編でも〈カフェー〉を採用することにしました。
 
 面白いのは、前回もご登場いただいている奥野健男の『太宰治論』です。この書は一九五六年に近代生活社より出版され、その十年後、一九六六年に、奥野が五六年以後書いた太宰関係の論文を全て集めた増補改訂版『太宰治論』として、春秋社から出版されています。
 そして更に一九七三年には、再編集した完全版『太宰治』として文藝春秋から出版され、一九九八年に至って文春文庫に入りました。これだけ何度も版を変えて出版されるんですから、さすが古典的名著と言われるだけのことはあると感心してしまいます。
 
 今私の手元にあるのは文春文庫版なのですが、この『太宰治』の巻末にも〈略年譜〉が付いています。さすがに一九九八年の版だけあって、〈鎌倉心中〉の地点と方法は、

鎌倉郡腰越町小動崎海岸でカルモチンを服用し心中を図る。

 となっています。

 ところが、本文の〈Ⅱ その生涯〉の中の記述は、次のようになっているのです。

自己のすべてに絶望した彼は、運動の肉体的精神的疲労の限界に達したとき、一緒に死んでくれるという女とともに、鎌倉の海で入水自殺を図りました

 上記引用の〈Ⅱ その生涯〉の一節は、一九五六年の『太宰治論』から変わっていないために、こうした矛盾が生じたのでしょうが、読んでいる方としては、同じ本の中で〈海で入水〉と言ったかと思うと、〈海岸でカルモチンを服用〉と言っているのですから、もうわけがわかりません。
 
 ここで、またS文庫版〈略年譜〉の話に戻りましょう。前回既に紹介したように、現行のS文庫の〈略年譜〉では、〈鎌倉郡腰越町小動崎〉に修正されているわけですが、注目していただきたいのは、この〈鎌倉郡腰越町小動崎〉という書き方が、前述した奥野健男の『太宰治』(一九九八年版)の〈略年譜〉の記載と同じである点です。S文庫版太宰治作品集が、奥野健男と切っても切れない関係にあること――その傍証の一つと言ってもいいかと思います。
 
 一九八一年に、長篠康一郎が心中事件の地点を〈小動崎畳岩〉だと特定したにも拘らず、どうして〈畳岩〉と書かないのでしょうか。私にはその点が不思議です。まさか面子メンツに関わると思っているわけではありませんよね? まさか、ね。はは……
 
 でも例えば、太宰治の故郷の〈太宰ミュージアム〉の〈太宰治の生涯 ~略年譜~〉は以下のようになっています。

二十八日、義絶の真因がシンパ活動にあることを知った太宰は、二十八日夜半頃、銀座のバー・ホリウッドの女給田部シメ子(通称田辺あつみ)と、鎌倉七里ヶ浜小動崎畳岩にてカルモチン自殺を図る。

 自殺の直接的原因が〈義絶〉、つまり〈分家除籍〉にあったこと、心中事件の地点が〈畳岩〉だと明記していること。太宰治研究の流れを過不足なくまとめた、良心的な記述になっていると言えます。
 
 では、〈略年譜〉の問題はこのぐらいにして、S文庫版〈表紙見返し〉の話に戻りましょう。
 前述した通り、旧版の記述は〈バーの女と江ノ島で心中をはかり、自分だけ助かる〉となっていました。最近ようやく文庫版〈略年譜〉が、曲がりなりにも〈腰越町小動崎〉に修正されたのですから、当然見返しの〈著者紹介〉にも変更が加えられている筈です。

 では、新版の〈表紙見返し〉は具体的にどう変わったのでしょうか?
 
 それを見て、文字通り私はひっくり返りました! なんと、こう書かかれてあるのです!

在学中、非合法運動に関係するが、脱落。酒場の女と小動崎で心中をはかり、自分だけ助かる。

 ――さ、酒場の女?!
 
〈酒場の女〉って、いったいどんな女なんですか?
 
 旧版の〈バーの女〉もそうですが、こうした職業に就いていらっしゃる方に対する根深い差別意識も感じますし、そもそもなぜ、名前が既に明らかであるにもかかわらず、通称の〈田辺あつみ〉、あるいは本名〈田部シメ子〉と書かないのでしょうか。
 
ニュースなどで、差別をした当の加害者が、まるで被害者に配慮したかのような詭弁きべんを弄するのを目にすることがありますが、この〈著者紹介〉の最後の部分は次のようになっています。

戦後、『斜陽』などで流行作家となるが、『人間失格』を残し山崎富栄と玉川上水で入水自殺。

 山崎富栄さんの方はちゃんと名前が書いてあるのですから、田辺あつみさんの名を書かないのが何らかの配慮だなどとヘタな言い訳はさせません。
 
 バーの女。
 酒場の女。
 
 太宰は『虚構の彷徨』「(2)狂言の神」で、心中した女性の年齢を〈十九歳〉と書いていますが、これは数え年で、長篠康一郎が『太宰治七里ヶ浜心中』の中で明らかにした通り、田辺あつみは大正元年(一九一二年)十二月二日の生まれです。
 彼女が亡くなったのは昭和五年(一九三〇年)十一月二十八日ですから、満十八歳の誕生日を迎える直前の十七歳でした。
 
 田辺あつみさんの写真は、拙作『太宰治は、二度死んだ』第二章・広島篇(第17話)でもご紹介しました。
 
 あの写真の女性は、果たして〈バーの女〉、〈酒場の女〉という職業差別的イメージで呼ばれるべきなのでしょうか?
 
 繰り返しますが、田辺あつみさんの年齢及びそのあどけなさの残る風貌は、一九八一年の時点で既に明らかになっているのです。
 
 S文庫における〈田辺あつみさん〉の扱いはどう見ても異常で、太宰研究の成果からも、彼女の実像からも、あまりにかけ離れています。
 
 私が『太宰治は、二度死んだ』を書こうと思い立った動機は、ちょっと大袈裟な言い方を許していただけば、田辺あつみさんに対するこの不当な仕打ちに義憤を感じたからに他なりません。
 
 私が戦いを挑んだ――なあんて言うと、何を一人でいきがってるんだと笑われるでしょうが(いいんです、笑って下さい)、槍を持って風車に突っ込むドン・キホーテのような滑稽な蛮勇をもって、身の程知らずにも戦いを挑んだ相手は、所謂〈太宰治伝説〉、〈太宰治神話〉だったのです。
 
 人間は伝説や神話が大好きな生き物です。こうした伝説や神話は、確としたエビデンスがないために、かえって広く流布し、信じられてしまいます。
 
 S文庫における田辺あつみの扱いは正にその典型だと言えます。〈略年譜〉の〈嘘〉も、〈著者紹介〉における実像とかけ離れた語句も、全ては〈太宰治伝説〉、あるいは〈太宰治神話〉に基づくイメージなのです。
 こうした伝説・神話は、太宰文学――そのテクストを通して、テクストの受け手である読者の中に醸成されていくものです。
 
 私たち読者は、太宰が残したテクストをいったいどのように捉え、受け取ってきたのでしょうか。次回はその問題について、お話ししたいと思います。

前話:(二) / 次話:(四)