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『太宰治は、二度死んだ』――あとがき:フィクションと事実の狭間で(二)
本編『太宰治は、二度死んだ』(全30話+エピローグ)の「あとがき」エッセイ(二)として、今回はS文庫版〈太宰治略年譜〉の問題とは何だったのかというお話を書きたいと思います。
最初にお断りしておきますが、現在のS文庫では〈鎌倉郡腰越町小動崎でカルモチン嚥下〉となっております。でも、以前はそうではありませんでした。
太宰治作品が初めてS文庫に入ったのは昭和二十二年のこと、作品は『晩年』です。その次が『斜陽』で、こちらは昭和二十五年です。『斜陽』の巻末には〈略年譜〉が付されており、その〈昭和五年〉の記述はこうなっていました。以下、引用です。
十一月、銀座裏のカフェの女給で夫のある田部シメ子を知り、三日間共に過したのち、江の島袖ヶ浦に投身。女のみ死亡し、自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となる。
※筆者(南ノ)注:〈田部シメ子〉は戸籍名で、正確にはあつみの名字は〈田部〉ということになるのですが、あつみ本人は〈田部〉でなく〈田辺〉と名乗ることが多かったと言われています。その理由について、長篠康一郎氏は、〈田部〉だと〈タベ〉と誤読されることが多く、あつみ本人がそれを嫌ったためと指摘しています。
――はい、でました!〈江の島袖ヶ浦〉!
ここで、ちょっと前回の内容を思い出して下さい。『道化の華』では〈袂ヶ浦〉になっておりました。ところが、〈略年譜〉の方は〈袂ヶ浦〉が〈袖ヶ浦〉に変わっております。〈袂〉と〈袖〉は意味的に似ているので誤植ということも考えられますが、地元民からすれば、〈袂ヶ浦〉は〈腰越〉であって、〈江の島〉ではないのです(現在の行政区分でも腰越は鎌倉市、江の島は藤沢市に属します)。
この〈略年譜〉の記載を見た時のわたしの率直な感想はどうだったでしょうか?
――〈江の島袖ヶ浦〉ってどこ? 聞いたことない。
です。
ただ、私も江の島住民ではありません。私は中学校の学区が腰越中学校だったので、腰越は地元という認識なのですが、橋を渡っていかなければならない江の島はちょっと別で、「私が知らないだけでそういう場所もあるのかな?」とも思いました。
ただ、〈投身自殺〉に関しては、前回書いたような理由であり得ないと考えていましたので、「この略年譜、ちょっとおかしいんじゃない?」という疑問を持ったのです。
結論を先に言いますと、高校生の私の直感は間違っていなかったのです。
皆さん、驚かないで下さい。なんとなんと、江の島に〈袖ヶ浦〉などという地名は存在しないのです!
えーー!!
何それ。聞いたことがなかったのも当たり前。だって、そんな地名は元々〈ない〉のですから。
ところが、〈太宰治略年譜〉にはこの架空の地名が長い間、ずーっと載っていたのです。S文庫だけではありません。昭和二十年代の太宰治年譜は全てそうなっていたのです。
これが間違いだったとわかったのはいつだと思いますか。なんとなんとなんと、昭和四十年代になってやっとです。
つまり、二十年の長きに渡って、太宰治年譜は嘘を吐き続けていたことになるのです。
こうした虚構の伝記を〈太宰治伝説〉、あるいは〈太宰治神話〉と呼ぶなら、これを推進してしまった人として、真っ先に挙げなければならないのは奥野健男です。
先に申し上げておきますが、私は奥野健男は優れた評論家だと思っています。奥野の『太宰治論』が太宰研究上の古典的名著であるのは疑いのない事実ですし、他にも山本周五郎の価値を逸早く見出したり、北杜夫の文学史的な位置づけを確立したりと、その功績は非常に大きいものがあります。
ただ、奥野という人は、なんと言うか、「好きになったら骨がらみ」的なタイプの評論家で、太宰作品に書かれてある内容を、全部事実として信じているように思われるところがあります。
聖書に書かれている奇蹟を全部信じてしまう敬虔なキリスト教信徒、というのは言い過ぎとしても、それに近いものは確かにある気がします。
まあ、だからこそ、奥野の評論は読んでいて、ある意味感動的な気分にもなるのですが、太宰治のような、私小説の器に巧みにフィクションを盛るタイプの作家へのアプローチとしては、かなり危険な心的態度でもあると思われます。
例えば、田辺あつみとの〈鎌倉心中〉の理由として、奥野は〈共産党非合法運動の肉体的精神的疲労〉を重視しています。本編でも書きましたが、当時の太宰が工藤永蔵によって強引に共産党のシンパにされ、そのことが太宰を追い詰める要因の一つになったのは事実です。
ただ、〈共産党非合法運動の肉体的精神的疲労〉というのは、『虚構の彷徨』や『東京八景』の中で太宰自身が書いている理由なのです。これらは、あくまでフィクションとしての作品です。
しかし、奥野はフィクションである筈のテクストを非常に素直に読んで、それをそのまま、現実の太宰の自殺の動機だと考えているわけなのです。これは日本近代文学の〈私小説〉を論じる時に陥りがちな誤謬なのですが……(この辺はちょっとややこしくなるので省略させていただきます。もうそろそろ誰も読んでくれていないのでは……汗)
田辺あつみとの心中事件の場所も、『虚構の彷徨』「(2)狂言の神」の記述を信じれば、〈江の島〉ということになってしまいます。もっとも、太宰も「(2)狂言の神」の中で〈江の島〉と書きはしましたが、テクストの中に〈袖ヶ浦〉という地名は出てこないので、〈袖ヶ浦〉がどこから出てきたのかは謎です。
前述したように、『道化の華』では〈袂ヶ浦〉になっているのですが、地理的な事実として、〈袂ヶ浦〉は〈腰越〉に属するにも拘《かかわ》らず、『道化の華』というテクストにおいて、〈袂ヶ浦〉は〈江の島〉にあるように描かれています。
つまり、太宰のテクストにおいては、どうも腰越と江の島が混同されており、太宰が〈江の島〉と書いている地点は、正確には〈腰越〉なのだと考えた方がしっくりくるのです。
比喩を出します。もし皆さんの友達で、異性と付き合って、もうその相手が大好きで大好きで、その人が言った言葉なら何でもかんでも信じちゃうっていう人がいたら、心配になりませんか? ちょっとそれと似たところが奥野の『太宰治論』にはあると言えば、その問題点がなんとなくわかっていただけるでしょうか。テクストを鵜呑みにすることは、作家論においてはかなり危険な方法なのです。
奥野説に対する異論は昭和四十三年、相馬正一の『若き日の太宰治』によって提出されました。相馬は、①事件直前の〈分家除籍処分〉の衝撃が直接の原因であること、②〈投身〉ではなく、〈カルモチンを服用〉したものであることを指摘したのです。
これを踏まえ、昭和四十四年、長篠康一郎が『人間太宰治の研究Ⅱ』の中で、心中の地点は〈江の島〉ではなく、〈腰越津村小動神社裏海岸〉であることを明らかにしたのです。
どう考えても不自然な、〈海に跳び込んだけど、漁船に助けられちゃった〉が嘘っぱちだということが学問的に明らかにされるまでに、なんと二十年以上の時間がかかったのです。
こうした背景があったからこそ、昭和五十五年に出た學燈社の『別冊国文学 太宰治必携』の中で、東郷克美がわざわざ、「長い間、この事件は田部シメ子との〈江の島袖ヶ浦〉での〈投身自殺〉(未遂)とされてきた」(傍点部筆者)と述べているのです。
ですが、ちょっと待って下さい! 話はまだ終わっておりません。
〈腰越津村小動神社裏海岸〉も、実は完全に正しいとは言えなかったのです。
長篠康一郎は引き続き現地調査を続け、昭和五十六年に出版した『太宰治七里ヶ浜心中』(今回、私が大変お世話になった本です)の中で初めて、小動崎の外浦側にある〈畳岩〉こそ、心中事件の正確な地点であることを突き止めたのです。
『太宰治七里ヶ浜心中』の特筆すべき点は、心中事件の正確な地点を明らかにしただけではありません。田辺あつみの写真を初めて紹介してくれたのも、この本なのです。長篠康一郎氏の執念の研究がなければ、田辺あつみの麗姿は永遠に歴史の闇に埋もれたままだったかもしれません。
昭和五年十一月二十八日に田辺あつみさんが亡くなってから、なんと五十年以上の年月が過ぎていました。
ところがです!
学術的にこれだけ明らかになっていたというのに、S文庫の〈略年譜〉はずーーっと〈江の島袖ヶ浦に投身〉という記載を改めなかったのです。S文庫の〈略年譜〉の記述が現行のものに改められたのはいつなのか、わたしもちょっとはっきりしないのですが、手元にある本で確認すると、〈平成十三年・六十五刷〉の『走れメロス』の〈略年譜〉は、まだ修正されていませんでした。
つまり、二〇〇一年になっても猶、S文庫の〈略年譜〉は〈江の島袖ヶ浦〉というありもしない架空の地名を堂々と載せていたのです。
皆さん、信じられますか? もしこれが忘れられたマイナーな作家なら、あるいはそれも仕方ないかな、と言えるかもしれません。
しかし、相手は太宰治ですよ!
国語の教科書にも載っていて、知らない人はいない国民的文豪。
〈桜桃忌〉には未だに多くにファンが集まるという超ロングセラー作家。
そんな作家の、もっとも人口に膾炙していると言っていい文庫版作品集の〈略年譜〉の記述に〈虚構〉があったのです。
なぜ、こんなことが起こってしまったのでしょう?
それを知るには、この〈略年譜〉が誰によって書かれたのかを確認しなければなりません。
S文庫の〈太宰治略年譜〉の末尾に、こうあります。
(本年譜は、奥野健男氏編の年譜を参照して編集部で作成した)
やっぱりお前か、奥野健男!
お気づきの方も多いと思いますが、S文庫版太宰治作品の〈解説〉は、殆ど奥野健男が書いています。
これは何を意味するのでしょうか?
S文庫収録の太宰作品は、謂わば奥野健男個人編集による太宰治作品集なのです。
一般の読者の方はあまり注意しないことかもしれませんが、文豪の作品の〈解説〉を書くというのは、その分野の人にとってはすごいことで、水面下では当然……いろいろあるわけです(大人の事情的なものが)。最新の研究成果を踏まえて、適宜修正すればいいじゃんっていうほど、話は簡単ではないのです。
問題は〈奥野健男個人編集〉という、良くも悪くも奥野カラーの色濃い太宰治作品集が最も巷間に流布してしまったという事実です。
このため、太宰治と田辺あつみは江の島で投身自殺したという〈伝説〉、あるいは〈神話〉が独り歩きし始め、ついには殆ど既成事実化されてしまったわけです。
二〇一九年公開の小栗旬主演の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』を御覧になった方も多いのではないかと思うのですが、あの冒頭シーンを思い出して下さい。
小栗太宰は、どこから出てきましたか?
ここまででも十分アレですが、なーんとS文庫の問題はこの〈略年譜〉だけではないのです。
表紙見返しにある〈著者紹介〉にも、実は大いに問題があります。
それは次回、明らかにしたいと思います。