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『太宰治は、二度死んだ』――あとがき:フィクションと事実の狭間で(七)

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 本編『太宰治は、二度死んだ』(全30話+エピローグ)の「あとがき」エッセイ(七)です。

 今回は、〈作家の時代〉と〈ファンである読者〉というお話です。
 
 私小説というのは大正時代に全盛期を迎えるのですが、私小説の全盛期は〈作家の時代〉でもありました。昭和前期の作家太宰治は、ある意味その〈作家の時代〉の最後の世代に属していたと言っても過言ではないのです。
 
 三島由紀夫が太宰治に会いに行って、「あなたが嫌い」だと言ったという有名なエピソードは、ある意味、新旧作家交替を象徴する事件でした。

 大宅壮一の『文壇ギルドの解体期』は、短いですが、非常に有名な論文です。先ず大宅は、文壇は〈ギルド〉だと喝破かっぱします。

芝居を作ったり小説を書いたりすることは、多年その道の修行を経たものでなければ、「素人」ではちょっと手がつけられぬことであり、その結果彼らの集団、即ち組合はある程度まで市場を独占する力を具えているからである。従って今日多くの文学志望者は実は文学志望者ではなくて大抵文壇志望者であるということは当然の現象である。(『文壇ギルドの解体期』)

 簡単に言うと、当時の所謂いわゆる〈文学志望者〉は、〈文学をやりたい〉というよりは、実は〈文壇に入りたい〉人たちだったというわけです。
 
 でも、〈文壇に入る〉のは、もちろんそんなに簡単なことではありません。
 当時、所謂文芸誌としては『中央公論』と『改造』が一流で(だから芥川とかは、「自分は『中央公論』と『改造』にしか書かない」と言ってたのですが)、次は『新潮』とかですね、とにかく発表媒体が少ないし、定期購読の読者の数だって多くはないんです。だからどうなるかと言うと、

文壇のマスタア連は、彼ら相互の間ではどんなにいがみ合っていても、「素人」に向った時には、見事に一致団結する。かくて「素人」の作品は大部分黙殺される。中には「素人」の作品でも異常な社会的センセーションを捲き起した結果やむを得ず問題にしなければならなくなった場合でも、何処かにあらを見つけ出して難癖をつける。(それは一面彼らの自己安慰である。)反対に彼らの仲間の作ったものは、それが第三者の眼から見てどんなにつまらないものであっても、そこに何らかの「うま味」を発見することを決して忘れない。(『文壇ギルドの解体期』)

 面白過ぎないですか、この評論! 
 わたしなんて声を上げて笑っちゃったんですけど。

 つまり、これが所謂〈内輪褒め〉ってやつで、〈内輪褒め〉は同時に、外部からの侵入者に対する〈一致団結〉の敵意でもあるんです。彼らはそうやって、自分たちの〈ギルド〉を守ろうとするわけです。
 
 ただ、外部からの侵入者を全部拒否していたら、お客さんもいなくなってしまいますから、〈ギルド〉を経営していけなくなってしまいます。
 そこで作家たちは、自分の読者――つまり、自分のファンを作ろうとします。再び『文壇ギルドの解体期』からの引用です。

活動ファンや野球ファンと等しく、莫大なる文学ファンが発生する。ヴァレンチノの署名付肖像に随喜する活動ファンや、ただ単に寄席に出るベーブ・ルースの顔が見たいために高い入場料を払う野球ファンがあるのと同時に、流行作家の書いたものでありさえすれば、どんなに馬鹿馬鹿しいものであっても、無名作家の心血を注いだ傑作よりも、比べものにならないほど高い市場価値《マーケット・プライス》が発生する。(『文壇ギルドの解体期』)

 こうした大正期の流行作家の代表が、葛西善蔵です。こう言うと、「あれ?」と言う人も多いかもしれません。葛西善蔵と言えば、「貧乏と病気に苦しんだ作家」というイメージだからです。でも、実は葛西善蔵は出版社が争って原稿を取ろうとする人気作家でした。貧乏だったのは、一日に二三行しか書けないという極端な遅筆だったからです。一日に二三行しか書けないくせに曲りなりにも職業作家であり得たのは、葛西善蔵が人気作家だったという証明です。

 葛西善蔵と共に同人誌『奇蹟』を創刊した谷崎精二(谷崎潤一郎の弟。作家・早稲田大学教授)は、『葛西善蔵評伝』の中で次のように書いています。

一体大正時代は不思議な時代であった。いわゆる流行作家の断簡だんかん零墨れいぼくといえども珍重され、僅か五枚か十枚の原稿を書かせるために、雑誌記者は泊りがけで作家の処へ詰めかけ、原稿料よりも記者の出張費のほうがずっと高くなるという現象を呈した。そして葛西はこの「書けない作家」のゆうなる者であり、常に雑誌記者を手古摺てこずらせた。(『葛西善蔵評伝』)

 わたしが冒頭で書いた〈作家の時代〉という言葉は、こういう状況を指しています。

 大正時代は〈作家の時代〉だったので、作家たちは、自分の固定ファンのために作品を書いていれば、それでけっこう食えていたのです。

 内容も、読者は作家本人に興味があるので、〈身辺雑記〉的なものが一番喜ばれることになります。その代わり、その作家のファン以外には、ちっとも面白くなかったりします(笑)。

 また、作家が書いた文字や絵に、それが上手いかどうかは別として、商品価値が出ます。谷崎精二は〈断簡零墨〉と言っていますが、作家が色紙に俳句を書いたり、〈生れてすみません〉と書いたり、武者小路実篤みたいに、下手ウマの絵をおもむろに描いて、〈仲良き事は美しき哉〉とか書いていれば、ファンはけっこう〈珍重〉してくれたわけですね。

 ついでの話ですけど、〈仲良き事は美しき哉〉の台詞は、森見登美彦が作品内でよくギャグとして使ってますけど、あれは元々武者小路実篤の言葉ですからね。森見登美彦はパロディーとして書いているだけですから。
 
 太宰治はこうした〈作家の時代〉の最後の作家でした。だからこそ、自分と読者――つまり、自分のファンとの間に緊密な関係を築いていく必要がありました。そうしなければ、読者が自分から離れていってしまうからです。太宰が流行作家――つまり〈売れる作家〉になったのは『斜陽』を発表してからで、その文学生涯の最後の最後です。それまでは、とても流行作家と言える存在ではありませんでした。
 
 太宰のおそらく〈自作年譜〉である初期の〈略年譜〉が事実と異なる点について、長篠康一郎は〈太宰伝説〉を信じている人への一種の「サーヴィス」だと考えているようですが、私は、少し意地悪な見方かもしれませんが、〈作家の時代〉の職業作家であった太宰にとって、「サーヴィス」というような気楽なものではなく、もっと切実な必要に迫られた結果ではなかったのかと思っています。
 
 前のところで、三島由紀夫が太宰に会いに行った話は新旧作家交替の象徴だと書きましたが、三島は、太宰のように自分とファンとの間に緊密な関係を築く代わりに、もっと広範な〈大衆〉を相手にして、〈時代の寵児〉となります。

 ボディビルで鍛えた身体をマスコミのカメラの前に晒し、更に〈空っ風野郎〉という映画に主演し、自ら作詞した主題歌まで歌います。この〈空っ風野郎〉の主題歌はyoutubeで聴けますので、興味がある方はぜひ聴いてみて下さい。お経のような歌声がなかなか印象的です。
 
 さて、次回こそ本当に、この長~い「あとがき」も最終回、私が資料をどのように取捨選択したか、あるいはフィクションを加えたかを簡単にまとめておきたいと思います。

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