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家族3.0:卒業旅行 その13

家族3.0

書籍化構想の中でも、重要な位置付けになるキーワード。今、電源のあるスタバで書いてるので、関連書籍(家族崩壊とか)から引用できず、脳内にあることだけの構想なので、初稿も初稿だし、本来は、ご紹介いただいた京大の家族論の専門の教授とかにもご執筆いただきたいテーマなので、あくまでもアイデアを著者にみてもらうためのメモだと思ってる。まずは言語化をしてみよう。どこまでできるかわからない。数行で終わるかもしれないし、単語の羅列で終わるかもしれない。

 家族ってなんだろう

そもそも家族ってなんだろう。恋愛、結婚、出産の先にあるもの?いや子供のいない夫婦だって家族だろうし、事実婚だって、ステップファミリーだって、同性カップルの子供だって家族だ。それは家族としての信頼関係のようなものがあればよく、法律による規定は不要だ。とはいえ、法律による家族でないと、医療情報にアクセスできないとかいう、ふざけた制度は現実にある。

いろんな家族が考えられる。古典的には家父長制度がそうだっただろうし、日本では会社は拡大家族だった。だから運動会があり、親戚の葬式の時は、社員そうででお手伝いする。まさにうちの父がいた会社がそうだった。また、家族とは「家」族だという建築論に紐づけた考え方もある。

疑似家族の拡大と、無責任さとのバランス

ここで、考えてみた家族像を定義してみよう

  • 家族1.0:血縁により成立した、ともに暮らす「家」族

  • 家族2.0:学校や会社といった、ある目的のために集まった族

  • 家族3.0:SNSでの界隈や、メタバースのお砂糖のような実は一番本音が言える関係としての族

あなたは、どの家族が大切だろう?

家族1.0は、えてして家父長的な構造を持ち、ある種の圧力を感じることがありうる。それが誇張すると、機能不全家族となってしまうことが多い。そしてその原因が、近親者からの性暴力だったりするから最悪だ。

昔の暮らしでは、長屋暮らしや、醤油の貸し借りといった、家族1.5といった関係が、そういった機能不全家族ができることを防いでいたと思う。家族だけで問題を抱え込まず、コミュニティ全体でそれを解決しようとする。そのことで解決していただろう。

しかし、田舎社会における、夏祭りと性暴力の関係とか、家族1.5にも闇がある。そう言うガス抜きで、表向きは性暴力が可視化されない村社会が成立していても、誰かがその被害者にならなければならない。それでは意味がない。

家族1.5 的な暮らし方は、シェアハウスや、コレクティブハウスといった暮らし方でも模索されているし、高齢者住宅のそれも、ほぼ家族1.5だ。

家族1.0、1.5、 2.0、3.0の違いは、距離感と責任のバランスだ。距離感が遠くなればなるほど、鬱陶しさも無くなる反面、何かあった時の責任感もない。

例えば、家族3.0で恋愛してるお砂糖カップルの、片方のリアルが生死を彷徨う状態になった時に、もう一方のパートナーが、リアルでかけつけるだろうか? それが北海道と、九州の関係だったら? 家族3.0からリアルの結婚をしたカップルを知ってる(弟だ)し、わたしもそうだったもしれないから言わせると、かけるけるやつは、かけるけるし、かけつけないやつは駆けつけない。もうほんと、そこまでだとしかいえない。

それが家族1.0ならば、一応かけつけることになってるし、そうでなくても法的責任は発生する。死んだら遺灰の引き取りはしないとダメだからだ(それすら逃げる家族もいるのは現実だけど)

わたしはなぜかメンタルや、セクマイや、その他いろんな悩みの相談をなぜか聞くことが多い。(こっちも聞いて欲しいのに!)最近、それらの悩みの根底に家族問題があることに気がついた。大体いつからこの家族なるものができたのだ。鳥や、哺乳類だって家族を作るわけだから、どうも人間へ進化する前からあったのかもしれない。でもそれは、女系家族で雄は別行動だったり、いろんな家族が存在する。人間だって、一夫多妻や、多夫一妻もあるわけだし、日本だって、ついこないだまで妾制度が法的にあったのだ。

現代社会における、テンプレート的な家族像は、公団によって規定された、公営住宅51C型にあると、上野千鶴子さんは述べている。家族の苦しみから逃れるためには、それを解体して再構成するためには、家族は全員ワンルームで暮らし、ご飯はコモンルームで食べるべきといった、まるでコレクティブハウスでの暮らしのようなことを提案している。夫婦の営みは、望む側が、相手の方に訪問して入れてもらうことから始まるらしい。

一度、令和4年にもなるのだから、家族のそもそも論を考えてみても良いのじゃないのか。本当にそれは必要なものなのか。「家」族ではなく、東京とニューヨークとデリーあたりにいても、LINEグループで連絡を取り合ってる家族があってもいいのではないか? 必ずしも全ての責任を負い、ヤングケアラーや介護離職とかで人生摘むような物が家族や親子なのだろうか?

それが、これから紡ぐ本のアイデアなのです。

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