悲しみがないと文章が書けないのか

否か。

少なくとも私は悲しみを感情のままに、吐き出すために文章を作ることが多い。

嬉しいことを書き残すこともあるだろうが、それは義務でなく気まぐれな遊びにすぎない。

悲しみを文章に起こすことは、義務であり、自分の精神のためであり、果ては感情の整理をつけて周囲に害なす人間にならないための儀式でもある。

noteを書き始めたのも、自分がうつになったからだ。

2ヶ月で35本。病院に通い始めて今日でまる1ヶ月だ。1日1本以上の記事を書いたことになる。

それだけの熱量を文章を書くことに注ぐことができたのは、どうしても私が、悲しくて、苦しくて、だけど直接たいせつな、たいせつな友人や家族にぶつけるには忍びなくて、noteに書くと言う形で吐き出したかったからに他ならない。間接的に知って欲しい、助けて欲しいと言う邪な思いをだきながら。

そんな自分をずるいと思う。

自分を恥ずかしく思うし、それで現在も苦しんでいる。

だけどそれが私の精一杯の甘えなのだ。

読んでくださるあなたへ。心からのありがとうを。

知って欲しくて苦しくて悲しくて恥ずかしい私を、このnoteを読んでくれているあなたが一番知ってくれている。

それを情けなく思いながらとても嬉しくて仕方がないのだ。

ありがとう。

うつ病はだいぶよくなった。

1日1食は必ず摂るようになったし、多少長距離を歩いてもへばらない。

早歩きだってできるし、何より声をあげて笑うことができる。

まだ周囲の音には慣れなくて、耳を塞ぐ日々は続くけれどそれもいつかは慣れるだろう。

こうして落ち着いていく私の心から、書きたい文章が消えていく。

聞いて欲しい話が消えていく。熱量が。これが最後になるかもしれない。

幸せな私は文章をかけない。

悲しみがなければ、苦しみがなければ、私は文章がかけない。

うつは私を作家にしたけど、回復と同時にただの女に戻した。

安心する。私は今、どんどんふつうになっている。

ふつう

夢見るふつう


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