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事実をただの事実としておくこと


もともと傾向の強い繊細、責任感がある、完璧主義、などの性質がかなり邪魔だな~と思って、どうやって折り合いを付けようか、と模索した結果

事実をただの事実としておく

が楽とたどり着いたので、その周辺にあることを今日は書きます。


考えすぎは疲れるだけだった

片頭痛の患者には「繊細」「責任感がある」「完璧主義」などの傾向が多くみられるといい、今までを振り返ってみると私も相対的にそういう位置づけにあったと思う。

特にネガティブ、怖がり、泣き虫、怒られるのを極端に嫌うというのが顕著で、常に誰かに嫌われている感覚で学校は基本的に苦手、ディズニー映画どころか教育テレビの5分アニメも怖い、宿題は絶対提出、時間厳守、モノを無くせば泣くという、聞き分けはいいが友達にするには結構めんどうくさい子だった。

そしてそれらをかなりうっとおしい性質だと自分で思っていて、高校くらいのよく保健室のお世話になっていたときには、先生が私を救おうとしてそういう特性があるのよ、と言ってくれても「だから何」と一瞬で頭にきてしまうような繊細さだった。言われるままである。


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しかしあらゆる事象、人の反応、うまくいかないことに、いちいち腹を立てるのも悲しむのも悩むのも、実はかなり体力を消耗する。そしてどうやら自分は「考えすぎている」らしいと実感したのは大学生くらいの時。

考えすぎ、というのはよく言われてきたことだ。でも一度知覚したものを無かったことにするのは非常に難しく、考えすぎるという作業を物心つく前からしてきた自分にとっては五感の1つ、くらいの感覚。どこまでがただの考えで、どこからが考えすぎなのかがまるで分からなかったし、考えることに疲れているという感覚もなかった。


気付くきっかけになったのは大学生の時ひどくなった片頭痛。自分の人生のほとんどは片頭痛による影響を受けているのだけど、こればかりはいい気付きだった。

2~3年生の頃は登校のたびに不調をきたして、どう生計をたてられるのか、好きなことを諦めて生活するのか、とんと見当がつかなくなって、痛みと嘔吐のたびに一人大号泣、誰かに何かを説かれれば逆ギレという悲劇のヒロインのような生活を送っていたのだけど、ふと冷静になって

頭痛そのものより感情的になることに疲れている気がする

とみなみこ少年は思った。
そこから過去を思い起こせば、自分はあらゆることを受け流さず正面から受け止めてきたけど、その多くは自分の手に負えることでも、自分のせいじゃないこともたくさんあったんじゃない、もしかしたら。

こどもの時したあのけんかもトラブルも
中学生の時あの子たちに無視されたことも
高校の部活でうまくいかなかったあの時期も

そして今の治らない体調不良も…?

いや確かに自分はそれなりに何とかしようとしてきたなーー!
それでもなんともならんことは自分のせいにしなくていいな!
そこに感情を使いすぎるから消耗するんだなーーーーーーー!

エウレカ エウレカ!

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考えすぎない=自分の外に手を出さない

そんな発見を得た少年だったけど、「考えすぎない」ということと「考えるべきことを考える」という線引きは全然できなかった。

だって依然として体調は良くならず、この体を持ったまま自分のしたいことをする方法は分からなかった。
ちなみにこの時は林業や造園の現場職、もしくは自然体験学習系のスタッフ、レンジャー、そのような毎日森の中にいて植物や動物や子どもとかかわる仕事がしたいな~と考えていたが、実習に参加すれば毎回寝込むのでこれでは自分の身も自分で守れないし人の命を危険にさらすし、あーあ無理無理!と思っていた。

とにかく、「頭痛になるから○○できない」という式が自分の中で根強く、こんなことがしたいという気持ちがあっても「できないし」という諦めと「できないの嫌だ!」という怒りが常にガチンコにぶつかり合って気絶する勢いだった。


そんな中、誰だったかももう忘れてしまったが、友人に勧められた本が今の自分の考え方のコンパスになる。

嫌われる勇気

出典:ダイヤモンド社『嫌われる勇気』

日本ではベストセラーになり有名な書籍ではあるが、私が手に取ったのはBOOK OFFの100円コーナー。自己啓発系の本を読むのは初めてだったしこれ以来読んでいない。

この本には超簡単に言うと「人の機嫌をうかがって生きるくらいなら嫌われても自由に生きようよ」ということが書いてあり、今までの自分なら「それができないから困っているんじゃ」となってしまうところだったが、自分がくるっとひっくり返されたのは

他者の課題を切り捨てる

という点だった。

自分の行動によって他者が何を考えようと、それは自分の手出しする領域ではなく他者がどうするか決めるべき課題である
他者の課題には踏み込まない
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考える

責任感があり完璧主義だった私は、人のことを何とかして自分の思う「良い」状態にしたいだけではなかったか。

他者がどうすべきか決めることを勝手に自分ごとにしょい込んで、全く必要のない悩みを抱いていなかったか。


そこでようやく、今まで悩んでいたことのほとんどは自分が考えても仕方がない「他者の課題」であると、ようやく理解した。

私における「考えすぎ」とは、他者の課題に踏み込んだ状態のことだ。


怒れることを探して怒っている

『嫌われる勇気』はもう一つ私にエウレカを与えてくれた。それは

目的を達成するための手段として感情を作り出している

という目的論。これは「過去の感情が現在に影響を及ぼす」という原因論に対する概念だが、私はどちらが正しいというより自分の感情を楽に捉えるための技術だと思っている。

いかなる経験もそれ自体は成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック ー いわゆるトラウマ ー に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す
自分の言うことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造した

アドラー心理学的には「自分は何か目的があって片頭痛になっている」ということになる。それは違うなと思ったが、片頭痛という経験があるからこの道に進めない、という思考ではいつまで経っても何も変わらないことはよくわかった。これは原因論だから。

また私が常に怒りを感じていたのも、八つ当たりだったのだということに気が付いた。片頭痛により進む道が狭まるのは事実。しかし感情をあらわにしても物事を解決する役には立たない。ようやく自分に怒ることが無意味だと悟った。

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自分を憐れむのは簡単である

その後どうやって今の進路に決めたかは別の機会にとっておくとして、自分が楽に生きるために、できるだけ幸せな方向に進むために大事にしようと思ったのが、冒頭で言った

事実をただの事実としておく

ということだ。

雨が降ったら「雨だ」
連絡が取れなかったら「できることはない」
行きたくなければ「行かない」
断られたら「予定は変わらない」
寒ければ「服を着る」
頭が痛ければ「寝る」
約束を果たせなければ「ごめんなさい」

単なる物事に、余計な憎悪や自分を分かってくれないという苛立ち、相手の真意やジンクスや不運や見栄を自分で付け加えない。自分がどう感じてもいいが、相手に押し付けない、正そうとしない。勝手にトラウマにしない。

もともとこのくらいの捉え方ができる人からしたら、何を当たり前のことをと思うかもしれない。でも考えすぎな性質を持つ人は、これらの1個1個にいちいち理由があると考えてしまうのだ。

負の感情を持ち続けて自分を卑下して憐れむことは、体力はいるけど自分を変える必要はないのでとても楽なまま不幸でいられる。
でも不幸のままでいると、優しい誰かは寄り添ってくれるかもしれないけど、いつまでも寄り添ってくれるとは限らないその人に好かれようと生きるしかなくなってしまう。


他者の課題から手を放して、自分を少し突き放して、私は結構自由になったと思う。

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