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赤坂上之山神社  ~興禅寺と表裏一体のように隣接する神社~

 先日、河内長野美加の台にある興禅寺を紹介しました。そしてこの寺と表裏一体のように隣接する神社があります。本日はその神社、赤坂上之山神社を紹介しましょう。

 赤坂上之山神社は、奈良時代の神護景雲元年(767年)に行基により興禅寺(当時は古稱陀洛山・神宮寺 )の鎮守として創建されました。そして河内国錦部郡の総社としての役目を担います。

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 実は赤坂上之山神社に入るための前提として、興禅寺の敷地内を通らないといけません。これは江戸時代までは興禅寺との神仏習合として一体化していたからです。しかし明治の神仏分離令によって興禅寺と分離させられ、それから今の神社名として独立しました。創建当時の正式名称は正八幡宮で、地元の人には代々上宮と呼ばれています。

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 階段の上に立派な社殿が見えてきました。現在ではこの特殊な入口が神仏混淆の遺構とのこと。それが完全な形で残されているとされました。従って全国的に貴重な神社となっています。

 ちなみに下記のリンク先は、大阪府の宗教施設の名簿でネット上で公開されているもの。それを見ると現在同じ敷地内にありながら寺と神社では管理者が違うようです。(烏帽子形八幡神社と共同の管理者)

神社本庁 赤坂上之山神社 北〇 秀▲
神社本庁 烏帽子形八幡神社 北〇 秀▲
曹洞宗 興禅寺 武〇 興▲

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 こちらは境内の摂社(末社)です。天王稲荷大明神とありました。調べるとこの天王とは、牛頭天王(祇園天神)の可能性がありそうです。東京にある須賀神社は江戸時代に牛頭天王と稲荷が合祀されたとありました。何らかの関係がありそうですね。

 さて、拝殿の方に行きましょう。

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 こちらは割拝殿の形式になっていました。つまり拝殿の前ではなく拝殿を通り抜け、奥から本殿が見える位置まで来て参拝するようになっています。この形式は、以前烏帽子形八幡神社でも見かけました。

 個人的に河内長野に引っ越しする前までは特に意識していなかっただけかもしれませんが、割拝殿の神社はほとんど見ていません。
 ところが河内長野にはこのように複数あります。ただ奇しくも上の宗教の管理者は同じ人物。関連性はわかりませんが興味深いですね。

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 そして拝殿から本殿を見ます。八幡系の神社と問うことで祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の3柱。

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 上の画像はややブレがあってわかりにくいですが、改めて撮影しなおします。少し角度を変えるとはっきり本殿が見えました。

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 拝殿内部を見ると歴史を感じるものがそろっています。ただいつ頃建てられたものかは不詳。文化財に指定されているわけでもなさそうなので、意外に新しいのかもしれません。

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 それでもいろいろなものを見ていると、奈良時代創建らしい歴史ある神社と言った面持ちです。

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 さて、拝殿の所に神社由来の説明文を発見しました。

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 こちらを引用しましょう。

赤坂上之山神社
赤坂上之山神社は、河内国錦部郡の総社として奈良時代に行基菩薩の発願により、今から1250年前の神護景雲元年(西暦767年)8月19日に創建されたと伝えられています。
正八幡宮の社名のもと、人々には上宮(かみのみや)と呼ばれ産土神として崇敬されてきており、本殿は江戸時代の文化年間に建てられたもので、応神天皇の御遺髪が埋められているとの言い伝えがあります。尚、隣接する興禅寺と共に神仏混淆の遺構が現在も完全な形で残されており、全国でも数少ない貴重な神社です。神社境内にはさざれ石(虫喰石)に囲まれ八幡宮と刻された大きな石や、特異な形をした百度石等々が存在し、神域の息吹が漂っています。

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 ということで、赤坂上之山神社を紹介しました。興禅寺の重々しい門のある南方向とは別の北方向から出ました。ここは整備された美加の台の第3公園です。ここには両方の宗教施設への行き先が書いてありました。

赤坂上之山神社
〒586-0044 大阪府河内長野市美加の台1丁目25−2

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