西代神社 ~秋に神楽が奉納される市内中心に鎮座する歴史ある神社~
河内長野市は長野町を中心に、周辺の村が合併してできました。その長野町はかつて錦部郡長野村と呼ばれ、1889(明治22)年に成立。その際に複数の村が合併しましたが、その中に西代村がありました。その場所(河内長野市西代町)に鎮座しているのが西代神社(にしんだいじんじゃ)です。
入り口は大阪府道20号線ですが、これは旧国道170号線に当たります。
明確な創建は不詳。ただし南北朝時代にはすでに南朝側の諸将から崇敬されていたという記録があり、中世以前に存在したことがわかります。
こちらが、7柱の祭神です。この中でも最初の国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話でも最初の天地開闢のときに登場しますが、最後までその姿を現しませんでした。
そのほかには、次の6柱。
素盞嗚尊
足仲彦命(仲哀天皇)
息長足比売姫命(神功皇后)
品陀別命(応神天皇)
武内宿禰命
菅原道真公
素盞嗚(すさのお)に、応神天皇とその御両親(仲哀・神功)。それから12代景行から16代仁徳まで5代の天皇に仕えたとされる武内宿禰(たけのうちのすくね)が祀られています。さらには天神の菅原道真も祀っており、そうそうたるメンバーがそろいました。
境内には小さな社が数多くあります。こちらは地主大神で、土地ごとに守護している神とのこと。
手水舎(ちょうずや)には、その意味と注意点を含めた説明がありました。
神馬像がありました。
記録によれば江戸時代の中期に一時的に存在した西代藩の2代目・本多忠統(ほんだ ただむね)が多くのものを寄進したそうです。
ちなみにこの忠統は江戸幕府の若年寄の地位にありました。そして8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与した人です。
境内には百度石がありました。その後ろ「百度石」の上に見える石碑に詩が書かれています。引用すると次の通り。
氏の子が、篤き心み新社 日々賑わう 西代の社
とあり、その下には平成4年に稲荷社社殿改築、平成5年に戎神社改築、 平成6年に大神宮社殿改築と書かれていました。
確かにいくつかの建物が新しく、平成の初期に氏子の協力により改築したことがわかります。
八王神とあります。これを調べると羽曳野市の樫山にある八王神神社との関係がありそうですが、はっきりは解りませんでした。
類似する八王子神社が仏教の守護神・牛頭天王にいた8人の子を祀っているという記録があり、関連しているのかもしれません。
(いつかわかればまた)
これが稲荷社の入り口。奥に社がありました。写真で押さえきれませんでしたが、稲荷社では通常神の使いとして存在する狐(きつね)ではなく狛犬が鎮座。それは全国の稲荷神社ではわずかに例があるようです。
西代神社は江戸時代の1715(正徳5)年には正一位が下賜され、西代大明神と呼ばれました。
こちらが拝殿です。明治時代から西代神社という名前になりました。また明治の末には近隣にあった神社の御霊を合祀したとあります。
こちらは境内にある摂社の戎宮。近畿地方を中心とした地域では1月10日とその前後に十日戎という祭りがあり、そのときはこの社がメインになるようです。
ただし、近くにある長野神社と千代田神社でも、十日戎の祭りを実施。
大神宮とあります。大神宮が何か調べると、どうやら伊勢神宮と関係があるようでした。
屋根付きの舞台があります。詳しくは後で書きますが、秋に行われる西代神楽。それがこの舞台から鳥居の間の空間を使って行われるそうです。
屋根付き舞台の前に、大きな絵馬がありました。
境内の裏手にも行って見ます。
平和慰霊塔がありました。これは昭和52年に建てられたとあります。
少し見えづらいですが、こちらが祭神が祀られている本殿。
さて、河内長野市無形民俗文化財にも指定されている西代神楽が、毎年秋に奉納されます。10月に行われる秋祭りの宵宮では地車と神輿が宮入りしますが、その後に行われるもの。
その歴史は1732(享保17)年。西代藩主・本多忠統が伊勢神戸藩に転封されます。そのときに徳を偲んで奉納したのが始まりとか。幕府の若年寄を担当しましたから、それだけ慕われた殿様ということなんですね。
また神楽は伊勢神楽系統の10の演目が行われるとか。ぜひ秋には実際に見たいと思います。
神社のすぐ隣にある西代会館。隣に紋がついた西代の文字がインパクトあります。中に神輿や地車が格納されているのでしょうか。
そして神社を取り囲むように存在する鎮守の森と言える存在。大木が何本もありました。長野神社のときもそうですが、河内長野は大木が本当に多いです。
西代神社
住所:大阪府河内長野市西代町16-5
電話番号:0721-53-1762
アクセス:河内長野駅から徒歩13分
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?