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河内長野木戸町探訪3 ~大阪南医療センターから灰原池にかけてのあたり~

 シリーズで行っている河内長野木戸町探訪。破片のように散らばっている木戸町をめぐる第三弾です。前回の第二弾はこちらをご覧ください。

 今回はちょうど大阪南医療センターから、灰原池に挟まれた位置に残っている部分です。

木戸町z2

 ⑥の部分が該当します。④は前回紹介しました。この地図も小さいので、大きな地図を用意しました。

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 このようになっています。この木戸町の周辺は北側が木戸東町、で西側が木戸(ややこしいですが木戸町とは別に木戸1~3丁目と言う場所がある)。そして南側は千代田南町、さらに南海電車の千代田駅から南西の方角に木戸西町があります。
 この辺りが元々木戸町だったのに別の名前になった模様。ところで、真ん中に穴が開いていますが、ここは飛び地で別の町。調べると東側に広がる市町でした。やはり不思議ですね。この飛び地関係。

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 さて、実際に歩いてみました。ちょうど大阪南医療センターの正門から続く、千代田あいあい通りから東側に広がっているのが、木戸町エリア。

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 こんなふうに町が続いていました。ここでちょっと寄り道。

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 本来は木戸町ではなく、木戸東町ですが、この大阪南医療センターの敷地内に確認したいものがあったので立ち寄りました。

 南側の正門に入って右側すぐのところに石碑があります。

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 これがこちらです。これは大阪陸軍幼年学校。この学校については、いつもと違った紹介方法で記事にしています。

 幼年学校の跡地が、大阪南医療センターに変わったという歴史は確認しましたが、その証と言える碑の存在を知りました。そこでこのタイミングで実際に確認。

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 せっかくなので引用します。

太平洋戦争の頃
この地を千代田台と呼び
俊英の少年達が
全国から競い集った
彼らは15歳という
若き日に家郷を離れ
青春のすべてを投じて
きびしい学問と訓練に
身を委ねたのである
彼らはここで
国家への忠誠を学んだ
四十三期生から
四十九期生まで
総数約千二百名の若人が
このところを母校として
巣立って行ったのである

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 さて、木戸町探訪に戻りましょう。

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 ここは千代田あいあい通り。ちょうど左側は木戸町になります。

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 古い建物も中には含まれていました。そして千代田小学校があるのですが、これは木戸町の町内にあります。

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 そしてこの小学校の道路を挟んだ隣に広がるのが灰原池で、木戸町はここで終わりです。

 ということで、木戸町探訪の3回目はこれで終わりです。実はあと一か所、大きく離れた寺が池公園の一部が木戸町という扱い。その記事を後日紹介してこのシリーズは終了します。

木戸町z

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