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原爆の日に、ゴジラファンの自分が思うこと

多くの人にとって「ゴジラは原爆・核兵器反対のメッセージ」を含む作品というイメージがあるかと思いますが、それを始めとした様々な社会的なメッセージや問いかけが含まれているのもゴジラ作品の大きな魅力です。

自分は、1992年末の「ゴジラvsモスラ」を5歳の時に映画館で観て衝撃を受けて以来、33歳の今日に至るまでゴジラの大ファンである。(めちゃくちゃコアな方々に比べるとザコですが。。)

そして翌年の「ゴジラvsメカゴジラ」でメカゴジラ=ロボットに強く惹かれることがなければ、今の仕事であるLOVOT開発には携わっていなかっただろうし、更に言うと「デザイン」という道にも進んでいなかったのかもしれない。

いい歳こいて、と思われるかもしれませんが、自分にとっては幼少期から人生に大きな影響を与えた作品群であるのは真実なのです。
この歳になってもゴジラを好きでいられるのは、単に怪獣の魅力だけでなく、原爆・核兵器をはじめとして併せて語られるメッセージ性があることが大きな理由の一つだと感じています。

最近の原爆と話題と言えば、TOKYO 2020 オリンピックイヤーである今年2021年、IOCのバッハ会長がコロナ禍にも関わらず被爆地広島を訪問する一方、オリンピック大会での原爆の日の黙祷は不実施というニュースを通じて、開催期間は休戦を求めるなど平和の祭典で有ることを強調しているのに、IOC(国際社会)は原爆のことをその程度にしか捉えていないのかな?と疑問に思いました。

自分も毎年原爆の日に黙祷しているわけではありませんが、やはり8/6、8/9と聞けばハッとしますし、その日は子供の頃に学んだ原爆の悲劇の記憶が自ずと蘇ってくる、特別な日という感覚があります。

そのような原爆・核兵器に対する感覚の違いは「日本のゴジラ」と「ハリウッドのゴジラ」との比較でも似たような構図があり、日本が発信してきた原爆反対のメッセージは世界に十分届いていないのではないか、と危機感を覚えました。

その危機感を書き残しておくためにも、広島原爆の日の今日は、ゴジラ作品の中でどのように原爆・核兵器が描かれ、我々に問いかけてきたのかについてお話したいと思います。

※以下、劇場公開済みの作品についてはネタバレ内容を含みますのでご注意願います。

平成vsゴジラシリーズ世代のゴジラ観

自分がリアルタイムで観ていたゴジラ平成vsシリーズは、毎年300〜400万人もの観客動員数を記録しており、また3DCGも未発達だったため成熟したピュアな特撮技術で作られていた、「特撮映画黄金期」と言っても過言ではない頃でした。(ちなみに大ヒットと話題になったシン・ゴジラは569万人。)(ちなみにちなみに、TVでは仮面ライダーやウルトラマンは休止していて戦隊モノと単発ヒーローしかなかった「特撮TV氷河期」でもあります。)

幼稚園〜小学校に至るまでゴジラに魅了されていたのは、単純な怪獣としての格好良さや迫力の怪獣バトルだけでなく、どこか大人のメッセージを感じるところにもあったと思います。
今見たらストーリーとしてはどこかで観たようなヒット映画(インディージョーンズとか、ターミネーターとか…)を強く意識したようなちょっと稚拙な感じもするけど、
・ゴジラは単純な善とか悪とか、そういうものではない
・毎年異なる視点から人類の業に対する何かしらの警鐘を描いている

という2点は一貫しており、子供心ながらにも社会に目を向けさせられる、ちょっと大人な作品でもありました。84ゴジラでは冷戦、vsビオランテではバイオ技術や利権構造、vsキングギドラではバブル期の日本の増長、vsモスラでは環境破壊、vsメカゴジラ、デストロイアでは生命観・科学倫理など。(スペースゴジラはそう思うとメッセージ弱めかな…?)

きっと、制作した人たちも子どもたちにそうしたメッセージを届けたいと、真剣に作っていたんじゃないかなぁ、と思います。そしてそんな子供だましではない映画作りが、観客動員数という結果につながっていた。
(逆に言うと、1999年からリブートしたミレニアムシリーズは若干子供だまし感が強かったので観客動員数が伸び悩んだのでは…と感じます。)

そのようなシリーズを観て育った身としては、ゴジラが単純に怪獣とバトルしたり暴れまわったりするだけでは満足できず、なにか大きな社会問題のメタファーとしてのゴジラに惹かれるようになりました。

そして、そのようなメッセージ性のルーツであり、全作品の中でも傑出しているのが第一作の「ゴジラ(1954)」なのです。

大人になって気づいた第一作のゴジラ(1954)の凄み

大人になってから改めて第一作・1954年の「ゴジラ」を観て、ハッとさせられたことがあります。それは、戦後9年しか経っていないのにゴジラによって東京が再び焼き尽くされるというストーリーです。
しかも、そのゴジラは米国の水爆実験によって棲みかを追われたもので、その矛先が米国ではなく唯一の被爆国である日本を放射能の炎で襲い、再び戦争のような悪夢を追体験するのです。

ゴジラから逃げ遅れた母子が「もうすぐ、もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ!」と子供を抱きしめたり、ゴジラが去った後の野戦病院など、かなり生々しく戦争を想起させるシーンが描かれています。

戦争で家族や友人を多くの人が失った悲しみが癒えないあの時代に、映画でそのような描写をするというのは並々ならぬ覚悟があったのではないかと想像します。

その覚悟とは、現実にあった戦争の悲劇をメタファーとして映画作品に投影・記録することで、国内外に軍属民間人問わず多くの犠牲者を出した自らの戦争への反省と、ジェノサイドであることは明白な広島・長崎への原爆投下や都市への絨毯爆撃を受けた立場から核などの無差別大量殺戮兵器開発・使用に対する精一杯の日本としての抗議の声ではないでしょうか。

その象徴が、劇中の物理学者・芹沢博士が生み出した、ゴジラを葬ることのできる「オキシジェン・デストロイヤー」という超兵器をめぐる葛藤です。原水爆以上の兵器として使われることを心の底から恐れて最後まで悩み抜き、ゴジラに対して使用する際に自らの命を断つことで永久に葬るという極めてシリアスな描写でゴジラ(1954)は終劇を迎えます。

他にも戦後日本の防衛問題や、当時の政治への不満、芹沢博士を含む2人の科学者を通した科学倫理など、多岐に渡る問題提起がなされており、「ゴジラ」という架空の存在を通して現実にある問題を見事にあぶり出しています。

このような真摯な想いに、特撮映画としての斬新さ・高い完成度が相まって日本人の心に深く突き刺さり、途中で色々と形は変えながらも最初の作品から70年近くも愛される作品となったのではないでしょうか。

ちなみに、このゴジラは「怪獣王ゴジラ」として米国でも上映されて大ヒットとなったそうですが、自分も観たことはないのですが大幅に編集が加えられていて戦争や核へのメッセージはほとんどカットされているそうです。
近年になって完全なオリジナルが米国でも上映されたと聞いていますが、その間に肝心のメッセージは抜け落ち、「はじめて着ぐるみを使って撮影された画期的な生き生きしたモンスター映画」として伝来され、悲しくも日本からのささやかな抗議の声は届かなかったのではないでしょうか。

シン・ゴジラで描かれた核兵器に対する日本と世界の感覚の乖離

小中学生のころから、現代を舞台に第一作のゴジラや1984年のゴジラのように、対戦怪獣が登場しない、ひたすら人がゴジラに向かう「ピュアなゴジラ作品」が観たいと思ってきましたが、その願いが20年越しに想像を大幅に上回る形で実現されたのが「シン・ゴジラ(2016)」でした。(庵野監督には感謝しかない、自分にとってはゴジラの最高傑作です。)

オリジナルのゴジラ(1954)が戦争のメタファーであるのに対し、悲しいけれど2011年の東日本大震災と原発事故という日本にとっての国難があったからこそ生まれた作品です。

この作品の中では、直接的に人が亡くなるような生々しい描写は極力避けられているものの、津波や原発事故を思い起こさせるような表現が数多く盛り込まれる中で、日本社会や国際社会での立ち位置、核についても考えさせられるものとなっています。

その中でも今回は核兵器についてのメッセージにフォーカスすると、歴代のゴジラ作品の中でも最も直接的に、主要な登場人物たちの口から感情的に語られるのが印象的です。
ゴジラへの国連軍による熱核兵器の使用が決定されたときの台詞には下記のようなものがあります。

片山 修一(嶋田久作):「それにしても、この内容は酷すぎます!」(泣き叫びながら机を叩く)
安田 龍彥(高橋一生):「そりゃ選択肢としてはアリだけど…だからって選ぶなよ…」
赤坂 秀樹(竹野内豊):「ここがニューヨークでも、彼らは同じことをするそうだ」
カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ):「祖母を不幸にした原爆を、この国に3度も落とす行為は、私の祖国にさせたくないから」(日系アメリカ人で、日本人の祖母が被爆した設定となっている)

シン・ゴジラの劇中の中でも、立川到着時の矢口蘭堂(長谷川博己)のご乱心シーン以外で、最も登場人物たちが感情を爆発させた場面となっており、作品としての強いメッセージ性を感じさせられ、共感した方も多いのではないでしょうか。

さらにハッとさせられるのが、日本が抱く核兵器への想いと、国際的な核への感覚とが乖離していることが浮き彫りになっている構図です。世界は合理的な理由があれば核兵器の使用は良しとするのに対し、いかなる理由があっても人が住んでいた街で使用するべきではないと感じる日本。

実際には日本国内でも世界でも様々な考えの人がいるとは思いますが、第二次世界大戦以降、幸いにして実戦で核兵器は使用されていないものの、本当に最後の歯止めとなることができるのは世界で唯一の被爆国でありその記憶を受け継いでいる日本である、そういうメッセージだと自分は感じました。

ハリウッド版ゴジラに感じた、被爆国なら怒った方がいいこと

オリジナルのゴジラ(1954)から60年が経ち、シン・ゴジラ(2016)が公開される2年前、ハリウッドによるゴジラ(2014)シリーズの公開が始まりました。2005年以来の9年ぶりとなるゴジラ新作、しかも世界レベルの作品が観られるとあって当初の期待値は非常に高かったのですが、まさに核に対する日本と世界の感覚の乖離を、皮肉にも日米のゴジラ作品の対比を通じて痛感するものであり、メッセージ性の観点では非常に落胆するものでした。

「GODZILLA(2014)」では冒頭1分で「おぃおぃおぃおぃ!!!」となりました。その理由は「極秘だったけど、水爆実験は実はゴジラを退治するためにやってました〜」というオープニング。これはあまりにもひどい。
オリジナルのゴジラでは、水爆は1954年のビキニ環礁実験のせいで呼び覚ましてしまった「人類の不利益」であるのに対し、核兵器を「人類の利益」のために使ったとすり替える、あまりにもひどいコンセプト転換でした。劇中でも躊躇なく核兵器を使おうとして、主人公が危ない目にあったりもしますね。
さらには、冒頭で富士山を背景に登場する日本の原子力発電所は、日本で見かけないアメリカ型っぽいやつで、しかもその後に破壊され、東京が住めない街になるという、核・原子力に対するあまりにも無神経すぎる扱いの数々。。(ちなみに、福島第一原発の事故からたった3年後に公開された映画である。)

「GODZILLA:King of Monsters(2019)」では 渡辺謙演じる芹沢猪四郎博士(オリジナルのゴジラ(1954)の芹沢博士のオマージュ)が、広島の原爆で父を亡くした設定とされ、人間による環境破壊によりゴジラが目覚めたと語ることで、若干の原典への意識は感じられるものの、全体的にはマイケル・ドハティ監督のねじ曲がった(と個人的には捉えている)リスペクトにより、別の意味でおかしな描写がなされます。
それは、唐突に登場した「オキシジェン・デストロイヤー」ミサイルでゴジラを瀕死にした後、芹沢博士がゴジラが眠る高い放射線レベルの空間で核弾頭を手で運んで自らを犠牲にしてゴジラを蘇らせる、というシーンです。
監督によれば、オリジナルのゴジラ(1954)では核で目覚めたゴジラが芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーで葬られるのに対し、今作ではオキシジェン・デストロイヤーで傷つき、芹沢博士の手により核で回復するという、ゴジラへの贖罪的な行為であるとどこかのインタビューで述べていました。
ただ、オリジナルのゴジラでは芹沢博士は自らの命と引き換えにオキシジェン・デストロイヤーを使い、核のみならず倫理なき科学技術の使用に対する警鐘を鳴らしているのに対し、ハリウッド版ゴジラでの躊躇ない大量破壊兵器の使用は論点のすり替えであり贖罪とは真逆の行為だと考えています。さらに当事者ではない制作者が原爆被害者の子孫が原爆に対して"許す"ことを勝手に描いている、とすら言えます。(上映当時にすでに多くの日本のファンから相当なブーイングがありましたが…)

さらに、最新作の「GODZILLA vs KONG(2021)」では、小栗旬演じる芹沢レンが先述の芹沢猪四郎博士の息子役として登場し、メカゴジラを操縦するものの暴走、香港の街をゴジラ以上の勢いで破壊しますが、扱いとしては「一部の考えのおかしな悪い人達」が勝手に作った「誤った存在であるメカゴジラ」を、正義側の登場人物たちが協力して止めようとするという、単純な勧善懲悪ものになってしまっており、悪い人達とメカゴジラは何の後味もなく排除されて終わります。
(ゴジラvsメカゴジラ(1993)では、メカゴジラが敗れた後にパイロットたちが生命観を語ったり、ゴジラxメカゴジラ(2002)やゴジラxモスラxメカゴジラ 東京SOS(2003)でもメカゴジラを使用することについての葛藤があります。)

エンターテイメントとして世界中の国や地域、バックグラウンドの人に楽しんでもらうために、あえて小難しいメッセージや捉え方の分かれる思想を排除しているのかもしれませんが、やはりゴジラが怪獣王である所以は単純な強さではなく、核や科学技術を誤って使う人類の愚かさに立ちふさがった超越的な存在であることにあります。それが十分踏襲されていない本シリーズは、ビジネスとしていくら成功していても、作品としては一番大事なピースが欠けたものと言わざるを得ません。
特に核兵器に対しての都合の良すぎる設定や躊躇のない使用シーンに対して、日本人はもっと被爆国として抗議するべきでしょう。ヒロシマ被爆者の息子が自ら核爆弾を起動して死ぬなど、言語道断な描写がなぜ問題にならないのか、不思議なくらいです。

ひょっとしたら海外や「核保有国」の立場から見れば核の是非など論じるまでもない問題だったり、タブーだったりするのかもしれません。でも、だからこそ、ゴジラが海を渡る時にその観点が抜け落ちてしまったことは非常に悲しいですし、ゴジラが生まれた背景に対してのもっと深い理解とリスペクトのある設定・描写を少しでもいいので入れてほしいなぁ…と思うのです。

と、非常に批判的にハリウッド版ゴジラにおける核・人間の業についての扱われ方を述べましたが、日本ではかけられない圧倒的な予算と最新の撮影・CG技術をつぎ込んで制作されており、エンターテイメント映画としては一級品であることは間違いないでしょう。(GODZILLA:King of Monsters(2019の制作費は約2億ドルとも。)
興行収入も、シン・ゴジラが82.5億円に対してGODZILLA(2014)は全世界5.3億ドル(国内は32億円)と、桁違いの成功を収めています。

ストーリーを犠牲にしている&莫大な予算の分、怪獣の登場シーンはふんだんで、自分が思う良い怪獣映画構成の鉄則(序盤・中盤・クライマックスにバランス良く怪獣が出てくる)もしっかりと踏襲されています。
ストーリーのことは一旦置いといて、アトラクション感覚で純粋に大迫力の怪獣プロレスを楽しむつもりで観るのであれば最高の「カイジュウ」映画であることは間違いありません。

個人的にはクリーチャー感が強すぎるし、動きが俊敏すぎるゴジラは好みではありませんが、それでもやっぱり敵わない映像力だなぁと圧倒されますし、複雑な気持ちではあるものの今の技術で作られたゴジラを観られるのはやっぱり嬉しいものです。(ゴジラvsデストロイア(1995)で一度はもう二度と新しいゴジラは観られないと覚悟した世代なので。)

まとめ〜被爆国で育つという世界的に稀有な感覚〜

改めて文章にしてみると、ハリウッド版ゴジラでの核兵器の扱いは目に余るものがあり、怒りすら覚えるところもあります。

しかし、そういう感覚になるのは、日本で生まれ育ったというバックグラウンドならではなのではないか、とも思います。
小学校では原爆を題材にした映画を観たり、千羽鶴を作って修学旅行で広島を訪れ、平和記念資料館でトラウマになるような生々しい展示を目の当たりにし、あるいは語り部の方の話を聴きました。原爆の日は毎年テレビで平和記念式典が映るし、時たまドキュメンタリー番組も放送される。
日本人だから / 外国人だから、という構図で語るのはあまり好きではありませんが、日本で育った多くの人がこうした環境を共有しているのであり、原爆に対して実感があるというのは世界的にも貴重な感覚であることだと、改めて気付かされました。

日本で生きる人として、このような感覚を持ち続けて次の世代にバトンを渡していくことと、その感覚を内輪に留めず、折に触れて世界の人たちと共有していくことが大切なのではないでしょうか。難しいことでなくても、例えばゴジラ好きの海外の友人と語る時に、今日ご紹介したお話を教えるとかでも。

ゴジラに話を戻すと、原爆の日や終戦記念日などの特別な日に、「火垂るの墓」や「この世界の片隅に」をはじめとした戦争の記憶を現世に伝えてくれる作品の一つとして、ぜひゴジラ(1954)を鑑賞してみるのはいかがでしょうか?

大傑作とは言え、70年近く古い映画ではあるので、現代的なエンターテイメント作品を見慣れてしまった人からすれば映像やテンポ感に古臭さを感じざるを得ないかもしれませんが、「戦後9年、おそらく制作者たちも被害にあい、多くの家族・友人を戦争で亡くしたであろう中で作られた作品」という見地で観てみると、まるで歴史ドキュメンタリーのようで、2021年の今観ても鬼気迫る作品として映るはずです。

最後に、76年前の原爆と戦争で亡くなられた全ての方々の安らかなる眠りを、心よりお祈りいたします。

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