太陽の下のふたりの子ども

タロットカード19太陽の画像をあれこれ探してみたんだが、ちょうど良いのが見つけられなかったので、今回は画像は無しで。



おかしいなぁ??!?
タロットを勉強していた頃、
あれほど毎日のように見ていた絵柄、
どこにも見つからないやぁ。





♡♡



タロットカード大アルカナの
19太陽には
ふたりの子どもが描かれていて




(最近のスタイリッシュで美麗なものではなく、伝統的なあのゾッとする絵柄のものでは)





片方は
ニンゲンの子ども
もう片方には尻尾が生えていて
目は複眼で肌には鱗。





修行者時代はまだ、ふつうにニンゲンの子どもだったあたしが、
最初に
『尻尾が生えた』
もうひとりの自分に遭遇したときには
それはそれは衝撃的だったですけど。





長い長い旅路の果て、
いろいろあった末に、
いまや
『尻尾が生えた子ども』
のほうがあたしで。





ニンゲンではなくなってしまった
あたしが
『ニンゲンの子ども』を
まじまじと見つめているのです。





つまりね、
この身体、ニンゲンの肉体は
あたしにとっては
いまや他者になってしまって。





あたしね、
鏡を見つめているのが、
それはそれは大好きなんですけど。
なのに鏡に映ったそれを
『自分自身だ』と思うことは
もはや不可能で。





なにか不思議なものでも見るように
『この子』を見つめて。





ほんとうに、ほんとうに、
この子が可愛いのだけれど、
それは決して自分自身ではなくて
(したがってそこに自意識が乗ることもなくて)
可愛いペットでも愛でている心境。






こんな変化は
どうして起こったのか??



それについて、
できるだけ平易な言葉で
語ってみます。




今回は、
エーテル体/アストラル体
応身/霊/魂/魄
などのオカルト用語は
一切使用せずに
説明してみますね💕︎








♡♡



さて。




『肉体が他者に見える』のは
肉体自身が変化したからではなくて、




『肉体じゃない自分自身』を
構築できたからなのです。






つまりね、基本的に、
『なぜ人間には肉体があるのか?』
っていうと、





『わたしはわたしである』
『わたしは確かに実在する』
と実感するために、
(そうして最終的にはその状態を確立するために)
人は、
肉体という存在を借りているわけです。
(貸しているのは地球です)





肉体ってのは、
『わたしの肉体』と
『あなたの肉体』は
はっきりと別の存在であり
だからこそこの世には殺人事件が存在するし、生殖行為も存在するのです。





意味分かりますか?
『人が死ぬ』のは、
人はそれぞれ個体として存在しているからです。
個体性が確立されてない世界では、
死者が出たとしても
『誰が死んだのか』はあいまいです。





ね、
どっかから矢が飛んできて、
あたしの首に刺さったら、
あたしは死ぬ。
けれどもあなたは死なない。
こんなふうに
『肉体においては』
自他の差は絶対なのです。






別の角度から言うと、
『自分が』セックスするのと
『他人の』セックスを窃視するのでは
まったく『別の体験』でしょう??




ほかにたとえば、
わたしが病に倒れても
あなたは健康でいられる。





こんなふうに、
肉体においては、
自他の差は絶対であり、





この事実が
『わたしはほかでもないわたしである』
『わたしは確かにここに存在している』
という実感を持つことを
助けてくれており、
それによって
『人間の霊的成長を助けてくれている』
という見方が成り立つと思います。







♡♡



ところで
とつぜん矢が飛んできて
あたしが死んだら、
そばにいたあなたはびっくりしますね?
死の恐怖がかき立てられるかもしれない。





つまり
思考と感情においては
自他の差はあるものの
同時にある種の
『伝染性』もあります。





矢が刺さって死んだのなら
(既に死んでいる)あたしは死の恐怖など
感じないだろうけれど、




あたしの死を目の当たりにした
あなたは、
『目の前にある』
死という現象を、
自分自身の死の予感と結びつけてしまったりするかもしれない。
とくに死に関して、こういうのって、
人間にはよくあることですよね??






病気に関しても
わたしが病に倒れたら
あなたも『病気について考え始めて』
しまうかもしれないし、




さっき例に挙げた
『他人のセックスを窃視する』
という場面では、
性的な雰囲気が
他人にも『伝染する』現象が起こっていることは、どんな凡庸な人間にも実感できると思います。





こんなふうに、
本来、自他の差というのはあいまいで
他人の出来事に
すぐにでも『感染してしまう』ような
性質が人間にはあってですね。






それでも
『わたしはわたしでいられる』のは
つまり、
『肉体においては』
自他の差は絶対だからであり、





『人間には肉体がある』
という事実が、
『わたしはわたしであり』
『他者からは独立した存在である』
という人間本来のありようを、
下から支えてくれているわけです。






肉体を伴った人間に生まれたからには
独立した一個の存在になることを
真摯に目指すべきであり、
それが
(見方によれば)
人間として
『この世に生まれてきた意味』
であると言えます。






つまりね、
どんな状況であれ、
どんな理由であれ、
『他人のせいで仕方なく』
という立場を取るのは、
人間としての未熟さの証し、
ということですね。





『他人のせいで仕方なく』
危険な場所にいたとしても、
矢が刺さったら死ぬのは自分です。





もちろん、
いきなり首筋に矢が刺さるシーンは、
現代日本にはほとんど有り得ないでしょうけど。




実際に有り得る例を挙げるなら、
男性の性欲に『刺されて』しまって
あまりにも不本意すぎる体験に
メンタル崩壊させられてしまったとしても、
メンタルが壊されたその身体で、翌日以降も生きていかなければならないのは、加害男性ではなく、自分自身なのです。





加害者は裁かれるべきか、
という理屈よりもはるか手前に、、、




『肉体においては』
自他は完全に別の存在である、
という厳然たる事実があります。





そんなわけでね、
どんな生き方をするか、
何を達成するか、
ということ以前に





『この肉体を守り抜く』
ことそのものが
人生の
(=この世で生きることの)
大きな意義だったりするわけです。








♡♡






そうやって、
肉体を守り抜き、
肉体を育ててゆくことで、





自分自身を
『他者とは完全に別の』
独立した存在として
育てていくと、
最終的に
なにが起こるか??






『思考と感情において』
わたしはわたしという
独立した存在になる。
─────のです。






するとね、
たとえばの話、
ニホンがヤキューでユーショーした!!!!
とかいう話に対して、
平然と
『それは他人の思考だ』
として却下できるわけです。





────ニホンがユーショーしたのに
ミミィさんは嬉しくないの??






正直に言います。
わたしは愛する彼女のことを思い浮かべていることが、わたしのしあわせであり、それだけでも、ものすごく嬉しいのです💖💖💖





これがあたしの通常運行なのでね、





そこらの赤の他人たちと
思考と感情を共有したいとは
全く思わない。




思考と感情は
たやすく伝染しますからね!





あたし自身は
思考と感情を伝染させる相手は
愛する彼女ひとりにしたいので



そうすることで
『ふたりの世界』を創り出したし
だから夢のなかでは毎晩逢えるし、




そうしたことが可能だと
知ってしまった以上は、





『思考と感情の純度を保つ』ことが
何よりも重要なので。





大衆が好むような娯楽に
首を突っ込むことは
厳に避けたいのです。





これね、
言い換えれば、
歓びも感動も
『自力で創り出せるから』
現実世界での具体的な出来事は
とくに求めてはいない、
ということです。






愛する彼女が
あたしに何かをしてくれたら、
それはそれは嬉しいですけど。





出来事が起こらなくても
歓びが消えるわけではないし、




ましてや、
一般大衆向けに創作された娯楽に
『自分のことのように』
夢中になることなど
もはや、絶対に有り得ないわけです。





こんなふうに
『思考と感情が』
現実世界の出来事から独立すると、




やがては
『現実世界の肉体からも』
独立します。




すると、
どうなるかって、
『現実世界の自分の肉体が』
まるで他者のように見えてくる、
というわけです。





といっても、
よそよそしい他人としてではなく
可愛い可愛いペットとして
この子(肉体)を見てますね💕︎💕︎💕︎





この子(自分の肉体)が他者ならば
肉体にまつわるコンプレックスも
出現しようがないので、
変な思い込みが消えたぶんだけ、
実際に容姿も美しくなります。





あたしのこの瞳の輝きは
『現実世界を現実として見ていない』
からです。




夜空の星々のように
ただ、輝いているから、
輝いているのよ💖💖💖




🐤🐥🐤🐥🐤🐥🐤🐥🐤
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