哺乳動物の身体と星の知性

心と身体は別のもの。



さしあたって
心とは
思考=mindと
感情=heartのことだと
仮定して。


『思考と感情は身体とは別のもの』
『思考と感情を身体から独立させよう』
という考え方および修行法は
古来より存在する。



では、
それを本当にやり切った場合は、
どうなるのか??



ふつうの人間は

身体こそが自分自身である

と信じていて、だから

守護天使が見守っている、

などというときも、

自分の肉体の至近距離に

擬人化された守護天使が存在している様を

思い描いていたりする。



それに対して、
まぁわたしは人生の最初から、自分の肉体を自分自身であるとは思えず、トラウマ由来の、かなり強烈な離人症感覚を抱えていて、自分の肉体を操って自分の人生を生きるのは、かなり苦痛で屈辱的なことであった。

そんなわたしが昨年の夏、

ついに『肉体に宿ることができた』!!

という体験談は、

いまもわたしのnoteの

トップ記事になっているが、

じゃあ、

肉体を自分自身だとは思えないでいるわたしは、

『何を』自分自身だと感じているのかといえば、

それは思考と感情だ。



自分の肉体を

自分自身であるとは

思っていない。

その時点で人としてかなりレアだと思うが、さらにそのうえ、固有名詞を剥ぐ修行、などというものにも長年取り組んできており。

それは何かというと、

たとえば、

『両親に虐待された』

のではなく

『地球にはよくある虐待という現象をわたしも体験した』

という見方をするということ。

自分の身の上に起きた出来事すべてにおいて、特定の個人の名前を冠さないこと。


そんなふうに、
もともと生まれつき特殊な状況にいたわたしは、さらにそれを加速させるような修行を行い、結果的にいまでは、
『思考と感情が身体から完全に分離』
した。



いまのわたしは、
身体とは完全に無関係に、
思考し感情する(感じる)ことができる。



思考では
現実世界での出来事とは
まったく関係のないことを考えているのがふつうだし、
感情は身体を巻き込まない。
たとえばの話、
怒りで手が(腕が)震える、
という現象はわたしの身体には発生せず、怒りは周辺の空間(すこし上空)に雲のように立ち込める。カンタンにいえばこれは、わたし(の身体)がいる空間がわたしの怒り一色で染まる、ということだから、わたしが怒ってると、かなり怖いよ!?



思考についても付記すると、
わたしの現実世界でのお仕事は工事現場での警備員ですけど、これは工事現場の周辺にただひたすら立っているだけ、という単調なもので、ふつうは退屈してしまうものだろうが、わたしには物理的現実とは全く別のことを思考するのはカンタンだから、少しも退屈などしない。松村先生の言う、達磨大師の面壁九年は少しも退屈ではなかった、というヤツだね。むしろ他人があれこれ話しかけてきて自分の思考に没頭できないときがいちばん困る。





でね。
ここからが本題。
思考と感情を
完全に
『身体から独立させる』
ことができると、
単体で放置??された身体は、
どうなるのでしょうか??!?



以下はわたしの実体験です。



身体は
哺乳動物なんですよ。
性別もあって、メス。


理性、に相当するものが無いわけではないが、わたしの場合は、理性自身の方針により、哺乳動物としての身体に『一切の介入をしない』ことにしている。


他人と出くわす空間(※外出先)では、
最低限、狂人には見えない程度の『まともさ』を保持しなくてはならないため、その程度には『理性』を稼働させているが、それだって、具体的には、いきなり叫び出さない、人を殴らない、暴れない。そんなレベル。
ほんとうに『可能なかぎり最大限』理性による身体への介入なしに、哺乳動物それ自身が自力で活動できるようにしています。




すこし補足説明。
たとえばの話、人前で放屁してはならない、というルールがあったとする。
その場合、理性の力で哺乳動物としての身体を『拘束している』ことになるわけです。
哺乳動物の本能に基づく身体の管理からすれば、放屁などは出せる時に出してしまうのがいちばん健康。糞尿も本来はそう。
でも、人間として暮らしていると、
いつでもどこでも、というわけには、いかないでしょう??




これを
『理性によって哺乳動物の身体を拘束している』
というふうに表現することにする。




でね、
こういう場合、
多くの(というかほぼすべての)人間にとって、これは、放屁を規制する程度じゃ、済まないでしょ??


他人に好かれるための演技もすべて

『理性で哺乳動物を拘束』

ですからね??!?


言ってみれば、
この世の人間関係ぜんぶが、
お互いに『理性で哺乳動物を完全拘束』したうえでの、
哺乳動物らしさのまったくない、
『理性同士の関係性』だ。

そうして、

その『理性』というのは、

社会常識による拘束を受けている。




つまり、
社会常識→理性→哺乳動物
という順序で、
哺乳動物としての身体の本性を
完全に封じたうえでの社会生活を
この世にいるほぼ全員が送っている、
というのが実情ではないか??



だからね、
人間とはなにか、
というとき、
それは、


社会常識によって規制された理性、

によって規制された身体、

を自分自身だと思い込んでいる存在。


という答えになるわけですよ。
そんなの、、、
どれだけ不自由な存在なのか、
すこしは想像してみてくれませんかね???


わたしに言わせれば、
身体というのは哺乳動物なので。
自分自身に不必要な拘束を幾重にも施して生きることは、不必要な苦痛と屈辱を与え、なおかつ健康を害し、生きる意味をも完全に消失させる愚行である。というようにしか、言いようがない。


でも、この世の大半は、
そんなふうに生きているのが
実情でしょう??




で、それに対して、
わたしは『わたし(の身体)という哺乳動物』の拘束を解いて、完全に自由の身にしてあげた。そしたら、いったい何が起こったか。
という話です。
言い換えれば、
たいていの人が
『理性による拘束を増やす』努力を
重ねているあいだに、
わたしは全力で、全身全霊あげて、
『理性による拘束をほどく』努力をしてきた、という話です。




哺乳動物の身体は、
むちゃくちゃ賢いんですよ!?

この生き方を始めると決めたとき、
『身の危険がある時には理性が介入する』
と決意していましたが、
そんなことは起こらなかったですね。
むしろ、
ほんとうに危険なときは、
理性如きが慌てて介入したところで大した役には立てない。
むしろ、
哺乳動物の野生の勘のほうが、
よほど強力だ。



いわゆる、
大地震直前には野生動物が一斉に高台に逃げた、とかの野生動物の勘は、人間にだってあるはずなのです。
でも、それを稼働させるためには、拘束をほどいて野生に還してあげなくてはならない。

わたしはそこまでやり遂げた、
ということです。







キリスト教修道院や禅寺でよく知られている事実として、修行僧のだれかが半分悟りかけた状態になったら、ほかのだれかが巻き込まれると危険なので、(多くは独房のような場所に)隔離する。
そのまま悟りを成就する可能性もあるので、放逐ではなく僧院のなかに置いて経過観察。


この、
『悟りかけた状態』というのを
分かりやすい言葉に置き換えると、
『神との遭遇』です。
神を求めて修行している状態では、
片方では神の実在を信じているからこそ修行に取り組める。
しかし、同時に神の『不在に慣れている』からこそ修行を継続できている、という側面もあるわけです。

それなのに、

とつぜん神に出会ってしまうと、

人は、

狂う。

こんなとき、
いちばん分かりやすい説明は、
『神に出会った自分は特別だ』
という思い上がりでしょうけど。
そんな理屈よりも、
エネルギー的にオーバーフローになってしまって錯乱する、といったほうが分かりやすい。
人間ひとりが生きていくために必要なエネルギーが仮に100ポイントだとして、そこにいきなり1億ポイント相当のエネルギーがひとりの人間のなかに注ぎ込まれたら、その人は壊れてしまうことくらいは誰でも想像できます。
そのような現象は、
僧院ではわりとよく知られていて、
その現象に直面してしまった修行者は一旦、隔離。




ですから。
この説明を続けるとすると、
発狂することなく
『悟りを開く』というのは、
この説明でいえば、
1億ポイントのエネルギーが注ぎ込まれても平気な身体になる、ということです。



つまり、
『悟った人』というのは、
ある種、狂気を宿した、狂人のようなところがあります。
わたしのnoteのトップ記事にもあるように、わたしは『悟った人』ですから、わたしも狂人ですね笑



実際、
たとえば、
インドの聖者のひとりである、
ラーマクリシュナは、
ほとんど狂人のようだったと伝えられる。
彼自身は神を見て神と対話し、
神に酔っているので、
いつも自己陶酔のなかにいる。
でもそれって??


まわりから見るとただの狂人にしか見えない!!


すぐれた弟子のヴェヴェーカナンダがそばに居なかったら、彼の名前も教えも伝わっていないばかりか、そもそも聖者として認知されていなかっただろう、という話もあります。
(※オショーラジニーシの講話録より)




実際ね、
365日24時間、
『神の眼で見られている』
(=愛でられている)
とはっきり自覚させられている状態になったら、ふつうの人間なら錯乱すると思います。そうして、その状態でも正気を保てるのなら、それは悟りです。



ですので、
悟りを与える導師、
というポジションにいる人は、
この『エネルギー過多による錯乱』という現象をいかにして回避させるか、ないしは可能なかぎり緩和させるか、というのが常に課題になっていることでしょうね。




そして、
ここで最初の話に戻ります。
身体は哺乳動物なのですよ。
思考と感情を完全に分離できていて、
身体が完全に哺乳動物として存在している場合、
『神の眼を浴びる』のも
一匹の哺乳動物、
ということになり、

ようするにわたしは
その状態になったわけですが、

なって初めて
理解した事実として、
哺乳動物としてのこの身体は、
『錯乱していても平気』なのです。
というか、
それが『錯乱』になってしまうのは
『理性』がどうにかして
自分の理解可能な範囲にそれを収めようとするからで、そんなことは不可能なので錯乱します。




神の眼で見つめられる、
言い換えれば、
この世の裂け目ができて、
この次元の外側、上の次元が、
そのまま剥き出しになって、
上の次元が自分めがけてなだれ込んでくる。
その状態になってしまっていても、
哺乳動物としてのこの身体:このわたしは、そのことをそのまま体験するだけで。それを疑ったり怖がったりしないので錯乱しません。




哺乳動物or野生動物としての
この身体(ニンゲンのメス)は、
『神の眼で見つめられている』
状態にいる。




でもね、
わたしにとって、
身体(哺乳動物)は、
『わたしではない』わけでしょう??

じゃあ、
『わたし』は、
どこにいる???




野生動物の世界は弱肉強食。
─────通常、人間たちからは、野生動物の世界なんて、そんなふうにしか観測されていないけれど。
わたしはそれとはまったく別の実態を知った。



哺乳動物は
『神の眼で見つめられている』
『神の眼で愛でられている』
ことにエクスタシー/オーガズムを感じていて、
たいてい、ずっと、その状態にいる。



野生動物というのはとても綺麗な瞳をしているね。
あれは、
無条件に、
しあわせだからなんだ。

身体から

理性を取り外してしまったから。

この身体は一匹の哺乳動物でしかなく

哺乳動物としてのわたしは、

ほんとうに

常時『神の眼で見つめられて』いて

『神の眼で愛でられている』。

そのことがもたらす、

エクスタシー。

オーガズム─────。

そして、
おどろくべきことに、
この子(この身体)が感じている
『神の視線』。
その『神』というのは、、、、、。



わたしは
自分の身体を
自分自身であると感じたことはなく。
かといって
身体を粗末にしているわけでもなく。


身体とわたしは
『ペットと飼い主』
『ウマ(競走馬)と騎手』
のような関係。


それでね、
ついに、
この子、哺乳動物でありペットであり競走馬であるこの身体が、
『神の眼で愛でられている』と
感じるようになった。


では神とは???
そう。
それは、
この子をいつも、
片時も離れずに見つめている、
わたし自身のことなのだ。



わたしはわたしである。
(I am that I am.)
わたしは身体ではなく、
わたしは思考ではなく、
わたしは感情ではなく、
わたしはわたしである。

わたしは何者でもなく、
ただわたしなのだ。




この『わたし(I am)』のおもしろいところは、一方的に『見る』存在であって、『見られる』存在には決してなれない、ということ。


わたし(I am)は、
わたしの身体を見ている。
わたしの思考と感情を見ている。
わたしを取り巻く現実世界を見ている。

わたし(I am)が

自分自身の身体をも含む

この世の諸現象から独立できたことで

わたし(I am)は

ただすべてを『見ている』

だけの存在となった。

とすると、逆に言えば、
哺乳動物としてのわたしの身体は
ただ『見られている』状態に置かれることになり。



『見ている』のは、
飼い主であり乗り手であり
『神』なのだ。
雌であることも相まって、
『見られている』こと
それそのものが、
エクスタシー、
オーガズム。


そうして、
(身体ではない)わたし自身は、
この身体が
ただ『見られていることに歓んでいる』のを目の当たりにすることで、
わたしは、
『見ている』存在なのだと、
『見ている』ことじたいが、
特別な価値を持つ存在なのだと、
知った。


哺乳動物としてのこの子を
エクスタシー/オーガズムに導くことで
わたしはわたしの本性を知った。
わたしは『見ている』だけで、
決して『見られる』ことのない存在だったのだ。



エイブラハム、バシャール、神との対話の『神』。
地球を覗き込んでいるだけで
決して地球上には
降りてこようとはしない
高次元存在たちに、
わたしは怒りと嫉妬を抑えきれずにいたのだが。


なんのことはない。
ほかならぬわたし自身が、
それだった!



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