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あなたの文章は気持ち悪くて、と言われて

気持ち悪いのであれば、読まなければいい話なのでは?という話を、
noteというプラットフォームでは話すことが可能な気がする。

Twitterと違ってタイムラインに流れてきたとしても、チラっとも見ない....という選択ができるし。
インスタと違って1つの投稿がとるスペースなんて少ないし、画面いっぱいにならないし。

そんなちょっとした言い訳をしながら考えていた。

わたしの文章は、"気持ち悪い"という表現が本当に正しいのだろうか?
、と。

本当は気持ち悪いでも不気味でもキモイでもしょうもないでもあたりまえポエムでもなく、
"恥ずかしい"のではないだろうか。



「共感性羞恥」という言葉がこの世にはある。
私は頻繁にこれを誰かに対して感じているけれど、
もしかしたらその"誰か"は、私に対して共感性羞恥を抱いているのかもしれない。

抱いてしまったものの、上手く表現出来ずに"気持ち悪い"というありきたりな言葉になっているのかもしれない。
そして、その独特な気持ち悪さと恥ずかしさと違和感が合わさったものを、
こんなものを書いている(している)相手こそが100%悪いのだ、と決めつけて
自分の知らなかった感情から目を背けているのかもしれない。


私の文章を読んで"共感性羞恥"を感じる人は、新たな自分の感情に目を向ける良いきっかけなのかもしれないよ。
自分の中にある目を背けてきた感情に目を向けることで、また自分を客観視することを加速させられるかもしれない。


私は私の文章に対して、書いている時こそ無心でキーボードをカタカタ叩いているけれど、
読み返して"恥ずかしい"と思ったことは何度もある。
特に受験生時代のブログを●年越しに覗いてみたりすると、自分のキラキラ綺麗事ばかりを並べた気取っている(悪口w)文章に対して、辟易する。
自分の文章に対して恥ずかしさを感じるし、若気の至りなんていうワードを使いたくなるし、もう削除してしまおうかな…と思う時もある。


自分のことに対して共感性羞恥を感じる、というのはおかしな日本語なのかもしれないけれど、
noteを書いているときの自分はある意味"幽体離脱"しているので、
いつもとは違った自分、(もう1人の)普段は目を背けているような自分を直視してしまう瞬間は苦になる・恥ずかしくなる…..ということはありがちである。

幽体離脱しているときの自分は、そうでないときの自分にとって、
どこかで恥ずかしい存在なのだ。





さて、私の文章は私からみても恥ずかしいものである。
だから他の誰かから見たときに"恥ずかしさ"を感じられるのは、当たり前のことである。

そんな極論を最後に振りかざしながら、今日は終わっておきたい。