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写真展「border」徹底ガイドvol.9 border | energy 化石燃料と原子力

Wall_Cには3枚の写真が並んでいる。横長の大きな写真には燃え上がるクレーターが写っている。その右側には破壊された家屋のそばで桜が咲いている写真、さらに右には崩壊寸前の大きな部屋にピアノが置かれた光景が映し出されている。
Wall_Dを構成する際に掲げたテーマは「化石燃料と原子力」。
この3枚の写真は、文明を陰で支えているエネルギーを象徴するものとして掲げられている。
以下は、展示プランである。

Wall_D(修正版)

#21 Darvaza Gas Crater, Turkmenistan,2014

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ダルヴァザ ガスクレーターはトルクメニスタンのカラクム砂漠の中にある天然ガスのクレーターで、通称「地獄の門」と呼ばれている。直径69メートル、深さ30メートル。1971年、天然ガスの調査中に洞窟が陥没して巨大クレーターが出現。ガス漏れを防ぐために火が付けられた。「数週間で燃え尽きるだろう」と思われた炎は、40年以上過ぎても燃え続けている。それはつまり、この地に莫大な量の天然ガスが埋蔵されていることを意味している。

トルクメニスタンは長年、ニヤゾフ大統領によって率いられてきた。街の至る所に大統領の黄金の銅像が設置され、大統領の言葉は「ルフナマ」という聖典にまとめられて国民はこれを学習することを強いられてきた。その姿は時に「中央アジアの北朝鮮」と喩えられてきた。(ニヤゾフ大統領は2006年に死去)
しかしこの国を訪れた者は、国が豊かであることに驚くだろう。都市は整備され、奇妙なフォルムの建物(それは別の意味で北朝鮮に似ているかもしれない)が立ち並ぶ。それを可能にしているのは、この国には世界4位の埋蔵量を誇る天然ガスがあるからだ。
ダルヴァザのクレーターの前に立った時に感じるのは、熱である。寒い砂漠の真ん中で、そこだけが暖房を入れたように暖かい。それは太古の自然が生み出した化石燃料という巨大なエネルギーを可視化できる場所であった。

この画像を表示させているスマホやPCも、展示会場を照らす照明も、全ては電気によって作動している。現在、日本のエネルギーの4分の1は天然ガスで作られている。つまりはこの写真のような自然の力を転換することによってしか、私たちは文明を維持することができないのだ。

湯を沸かすための叡智

湯を沸かすための叡智
結局のところ、人類は湯を沸かさなくてはならないのだ。火力、地熱、太陽熱、そして原子力。あらゆるものを使って湯を沸かし、その水蒸気でタービンを回すこと。そうして得られる「電力」でしか、人類はその文明を維持することができない。
火力発電の燃料となっているのは、数十億年の生命の歴史の中で堆積された動植物の死骸、すなわち化石燃料である。僕は子どもの頃、「石油の埋蔵量には限りがあり、何十年後には枯渇してしまう」と学校で教わり、絶望的な気持ちになった。数十億年にわたって作られてきたものが、わずか100年余りで使い果たされようとしているという現実。子どもながらに、自分たちの世代の罪深さを感じた。

少年時代の僕が将来のエネルギー事情に絶望するずっと前から、世界はこの問題をどうにかしようと考えていた。化石燃料を燃やして湯を沸かすのではなく、核分裂によって生み出される巨大エネルギーで湯を沸かす、原子力発電である。1950年代に実用化されたこの技術は、60年代から日本をはじめ世界各国で導入される。

                       菱田雄介「時間の止まった街で」TRANSIT 48号(2020.6発売)より

#22 Iwaki, Fukushima 2011. Apr.

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#23 Chernobyl, Ukraine 2011.Jan.

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チェルノブイリ 永遠の4月26日

原発事故で放棄された都市・プリピャチは、1970年に原発作業員の生活空間として建設された。人口4万9460人。街の中心部には広場とホテルがあり、その近くには遊園地が開業する予定になっていた。事故が起きたのは1986年4月26日の深夜1時23分。3日後、街から完全に人が消えた。

僕がプリピャチを訪れたのは、事故から25年後の2011年1月4日のことだった。
音のない世界。中心部にあるホテル・ポリーシャの階段を上がり客室に入ると、扉や部屋のしつらえは思っていたよりも狭いように感じた。荒れ果ててはいるが、天井に施された装飾や窓から見える風景は事故前を思い起こさせるものがある。学校だった建物に入ると、教室には教科書やノートが散乱する一方、図書館のカードは整然と並んでいた。そしてあちこちで目にしたのは、何も書かれていない赤い布。
事故発生の前日は、ソ連国民にとって大切な祝祭である“メーデー”1週間前の金曜日だった。この街に暮らす人々は次の木曜日に向けて赤い布を用意し「白いペンキでスローガンを書き、仲間と共に掲げよう」と思いつつ平凡な金曜日を過ごし、騒がしい土曜日を迎え、日曜日には姿を消した。街に残された観覧車は、永遠にやって来ることのない5月1日木曜日を待ち続けている。
チェルノブイリは長い歴史を持つ街だ。その名が初めて文献に現れるのは1193年のことだという。その後の800年、この土地はポーランドやロシア、あるいはドイツの侵攻を受ける苦難の歴史を辿った。
原発1号機が建設されたのは1970年。それから4号機が事故を起こすまでは16年しか経っていない。地元の案内人によると、この街に再び人が住めるようになるのは、今から900年後のことだという。

      菱田雄介「時間の止まった街で」TRANSIT 48号(2020.6発売)より

福島 永遠の3月11日

チェルノブイリを訪れてわずか2ヶ月と8日後の2011年3月12日15時36分、福島第一原発1号機が水素爆発を起こした。あれほど遠くにあった「原発事故」というものが自分のすぐ近くで発生した。

福島第一原発の事故は、国際原子力事象評価尺度では最悪のレベル7(チェルノブイリ事故と同等)と評価されることとなった。
事故後の1年は半径20キロが「警戒区域」とされ、そのborderの内側に入ることはできなかった。しかし12年4月に南相馬市が、13年には浪江町、その後も楢葉町、富岡町、双葉町の一部が立ち入り制限を解除されていった。毎年少しずつ変わっていくborder。僕はそのたびに解除された地域を訪ねた。
南相馬市のコンビニエンスストア。近づいてみると雑誌コーナーの片隅にスポーツ新聞が並べられている。大見出しには「坂上二郎さん死去」の文字。確かにあの日の一番のニュースはこのコメディアンの逝去だった。並んだ雑誌やポスターに出ているタレント、交番に貼られた逃亡犯の写真。全てが3月11日の朝で止まっている世界。浪江町の新聞販売店では「東北で巨大地震」という大見出しの新聞が、山積みになったまま配られることなく放置されている。この町では3月12日の朝で時間が止まっていた。

福島第一原発を、僕は3回訪れたことがある。福島のグランドゼロともいうべきあの場所を訪れるたびに感じるのはその「小ささ」だ。事故で破損した1号機から4号機の中に入ることは出来ないが、事故を起こさなかった5、6号機は無傷で残っている。5号機の建屋に入ると、中心部に鎮座するのが原子炉格納容器。放射線への装備を厳重にしてさらに奧に入ると見えてくるのが原子炉だ。直径5.5メートルの円筒状の空間。ここに並んでいた燃料棒によって膨大なエネルギーが生み出され、また壊滅的な被害ももたらされたのだ。その損害の大きさに比べて、原発の心臓部はあまりにも小さい。

      菱田雄介「時間の止まった街で」TRANSIT 48号(2020.6発売)より

文明の残滓

誰もが危機感を抱きつつも、答えを出せないでいる。僕が子どもの頃に抱いた不安の答えはまだ出ていない。シェールガスの発見や技術革新によって「デッドライン」は後ろ倒しになっているが、それでも2016年末における石油の可採年数は50.6年、天然ガスは52.5年である。2060年代半ばには化石燃料の全てを使い果たしてしまうのだ。
あのダルヴァザ クレーターの火も、やがてそうして消えていくのだろう。

使用済み核燃料の最終処分法も見つけられていない。フィンランドでことし操業が始まる「オンカロ」は地下450メートルの岩盤に放射性廃棄物を埋設するという最終処分施設だ。結局のところ人類は「10万年間埋める」という方法でしか、原子力発電を完結させることができないのだ。
現在、世界で稼働する原発は31カ国に約450基。私たちの文明の残滓は、地中深くに眠ることになるのだろうか。

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