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偏差値38の女子高生が北海道大学に合格するまでの話。

季節は雪解けの寒々しい4月だった。
東京では3月頃から徐々に咲き始める桜は、札幌ではGW前後に咲く。
桜舞い散る卒業なんてあり得なくて、せめて心の中には桜が咲けば良いと思っていたのに。

行きたかった第一志望の公立高校に落ちたわたしは、全く行きたいと思っていなかった滑り止めの私立高校の門をくぐっていた。
ダサいジャージのサイズを合わせたり、支払うお金を輪ゴムでまとめて段ボールにぼんぼん入れていく事務員を横目に、「これはもう終わった…」と思って絶望の淵に追いやられていた。

地方では私立高校は滑り止めとして受けることが多く、地方都市のひとつである札幌も例外じゃない。東西南北のどれかを受けるときは、滑り止めで私立を受けることがほとんどだった。

そして、世の中に生まれて15年しか経っていないわたしは、「第一志望に落ちるなんて、人生終わった…」と思った。

無能感がハンパない、初めての大きな挫折だった。

一緒に受験して受かった女の子は、塾でも仲良くしてくれていると思っていたのに、「そこの高校だったら、もはや大学なんて行けなそうだよね…w」と言われて、いろんな意味でがっかりした。
というか、がっかりどころの話ではなかった。友達じゃなかったんだと思った。

入学してからクラスが一緒になった子たちはみんな、「〇〇高校落ちた」組で、言い換えれば「負け組」の集まりみたいな気持ちにさせられた。

そして、そもそも子供のころから教師という存在にあまり意味を見いだせていなかったわたしは、入学式で出てきた先生たちの表情や目つきを見た時、「ああやっぱりヤバい…」と思ってしまったのだった。

いろんな意味でショックしかなかった春の始まり。
高校生活は、思い描いていたものとはかけ離れていた。
わたしは完全にやる気がなくなって、毎日授業中は寝て過ごすようになった。体育も苦手で嫌いだったので、勝手にサボって外に出て、木の下で本を読んだり、やっぱり寝ていた。

そして、たくさん寝て過ごしたせいで、脳みそはつるつるになった。

つるっつるだぜ!

脳みそつるつるでも面白かった英語と、女教師の嫌がらせ

わたしが英語に触れたのは小学生のときだった。
英語はメロディやリズムのまとまりでできていて、聞いたとおりに口で言うとスペルがなんとなくわかるから、頭に入りやすかったのかもしれない。

何よりも、ほかの国ではクリスマスやハロウィンがどんな日なのか知ることが楽しかったし、ちがう国の人と話すと自分の国の良いところも微妙なところもわかったりして、「違うことが当たり前だ」ってことがわかるのが楽しくてたまらなかった。

日本の学校では、人と同じようにふるまわないと先生にいじめられたり、同級生に変人扱いされて靴に画びょうを大量に入れられたり、机に変な絵をたくさん描かれたりするので、とても大変なところだと思っていた。

子供のころから好きな科目は、ある程度成長してもやっぱり好きで、脳みそがつるつるになってもある程度好きなままだった。

ただ、やっぱり寝ながらなんとなく授業を聞いていたので、
「あいつ頭薄くね?」と陰で他の生徒に言われていた女教師に、次第に目をつけられるようになった。

授業中は集中的に当ててくるし、いちいち言動はイヤミ満載だし、無駄に距離は近いし、なんなんだ…と思っていた。


「…学校行きたくない」

ある日わたしは家でそう言って、ギリギリまで寝るようになった。

ここで不登校になるかと思いきや、わたしの母は強行スパルタ魂を発揮。

「行きなさい!」
「嫌がらせされるなら、そいつを見返してやりなさい!」

こわすぎ。

結局毎日お尻を叩いてたたき起こされて、しぶしぶ学校に行く日々。


「果たして、このうざい女教師をどう見返すと良いんだろう?」

わたしは考えた。

そして、いくら文句を言っていても、多分何も変わることはない。
ということだけは悟った。

ここで同じく嫌がらせしても、低レベルすぎて残念だな…
ということも思った。
何より、自分のためにはまったく意味がない。
ただでさえ、教師が自分のために何かしてくれたことはないのに、その教師に自分の負のエネルギーをぶつけても無駄すぎる…と思った。

(どうせなら、自分に意味のあることした方が良いんじゃね?)

と心の中の誰かがわたしにささやいた。

(試しに勉強してみれば、もう一回)

そのときのわたしは、すでに偏差値38だった。
数学と国語はもっと低くて、偏差値33くらいだった記憶。

受験当時は65くらいはあったよ?

入学してから半年で半分!おめでとう!!

人間転落するのって簡単だな、と感じた高校一年生の夏終わり。

女教師の無駄な授業との攻防

爆音で洋楽HipHopを聴きながら、とりあえず「嫌がらせする髪の薄い女教師を見返す」ことを目標に、英語の勉強をちゃんとしてみることにした。

好きこそものの上手なれ、を期待。

そして、ここから始まる無駄な授業との攻防。

女教師:「教科書に書いてある本文をノートに書き写してから、全訳してきてくださいね!単語の意味も一緒に調べてくるように!」

書き写す…?

この量を?

試しにやってみたが、書き写すことに集中してしまって、本文は頭に入らない始末。

しかもシャーペンで手が汚れるし。

これ意味ある?と思ってしまったわたしはひらめいた…!


教科書コピーしてノートに貼って、そのノートで単語の上に赤ペンで意味を書けば、全部覚えられて一石二鳥じゃん!

紙とスティックのりを駆使して、左側に教科書の本文(のコピー)、右に日本語訳。意味わかんない単語の意味は、教科書コピーの紙に直接書き込み。
余白に文法の使い方記載。
これでハンドメイド参考書できあがり!

よし、しゅーりょー!


そうしてある日授業を受けていると…

女教師:「なんで本文ノートに書き写してないの!?言うこと聞きなさいよ!!!」

と授業中にみんなの前で怒鳴られた。


(わー、ますますうざいなぁ。無駄を省いて何が悪いんだよ…押し付けてくるのとか本当に嫌だわ…)

(ぎゃんぎゃんうるさいのも嫌だし…だから頭薄くなるんだよ…)

とりあえず、なんか言われてもガン無視。
ますます授業中に当てられまくり、怒られまくる日々。
でも全て無視を継続。

攻防の結果はどうなるのか。

半年後の模擬試験結果と、態度を変える教師たち

そして約半年後、高校一年生の終わりに、わたしは模擬試験なるものを受けた。

偏差値38だったわたしは、38→73になっていた。
おお!!!
勉強したら上がるのか!めでたい!!

これを見た女教師が登場。
「あら〇〇さん(←わたし)!すごいわね!!さすがわたしの生徒!」


(は?)

いやいやうざすぎますから!
成績良くなったら態度がコロッと変わるって何なの?

こういう人、会社の中間管理職とかにもよくいますよね…!
あとダメな政治家とかにもいそう。知らんけど。

でも内心、「へっ!ざまぁ!!」と思っていたのはほんとです。

このことでわたしは、どんなことでも結果を出すと、勝手にの見る目や態度は変わることを知った。

そして、簡単に他人の態度は変わる、ということも知った。

そして、ますます教師という存在が嫌いになったのだった。

何を教えるのが役割なのか、正直に言って存在意義がわからなかった。

人によって学習の仕方は千差万別で、合う合わないも違うのに、自分のやり方が合わないことで嫌がらせするのはどうなの?

そんなに偉いんですか?学校以外知らないくせに。

言われたことを言われたとおりにやれって、合わない方法で人の能力をつぶすんですか?

なんてことを考える、ひじょーに感じの悪いうざい高校生がいたら、きっとこのわたしの仲間です。ごめんなさい!

わたしの場合は、もし「ノートに書き写す」を守っていたら、確実にその作業に嫌気がさして、勉強放棄してたと思う。

教える人は、教える相手の性質を見極めてくれよと思ってた。
いろいろあるんだろうけど、もう「誰でも同じやり方をしなさい」的な集合向けの教育、合ってないよ。

2022年でも同じような環境がないことを、心の底から祈りますよね…。

続く偏差値との戦いと、進路の選択

そんな感じで、英語のみ成績UP!のわたしは、無事?高校二年生になった。
相変わらず雪解けが残る道を、寒さに耐えつつ春の装いで歩いて登校する。
「寒くない」って言い張りながら、「寒いよね」って言い合って。

そして、悲劇が訪れた。

その嫌がらせをしてきた女教師は、わたしのクラスの担任になってしまったのだった。

もはや絶望しかないんですが。


帰っていいですかー!!

なんで担任になったかというと、わたしは数学に苦手意識があったせいで、理系ではなく文系を選んだからだった。
そして、通っていた高校は英語に力を入れていた。

数学に面白さを見出せなくて、「k=n-1を証明しなさい」みたいな問題以外が苦痛でたまらなかった…。
電卓で良いだろ!という心の叫びを抱えて過ごしていた…。

ただ、結局英語だけ突出していて、数学と国語は意味不明って状況は、気分として良くない。
おもしろくは、ない。

他のも勉強したほうがいいかなー?

と思っているときに限って、うざい女教師がいつも

「東京外国語大学はどうかしら?(きらきらした目)」

とか言ってくるので、そのたびに全身に鳥肌が立っていた。

わたしが滑り止めで受けた高校は、当時国立大学に進学するのは1割程度で、多くはスポーツ推薦や学内推薦で私大に行く人たちが多かった。

進学コース(3割)と総合コース(7割)で分かれていても、進学コースから国立大学に進む人は少数で、一部の先生は無駄に勢いづいて一生懸命進学させようとしていたけれど、ついていけない先生や生徒たちの間で微妙な空気が漂っていた。


進学校に進んで有名私大や国立大学に進むような人たちは、多分このいろんな人たちが混ざり合っている空間は経験していないんだろうなぁ、と感じる。
これは分断?

わたしがいた高校では、勉強するのはむしろ少数で、勉強していると
「え、なんで勉強してるの!?なんか真面目だね!偉いね!」
みたいな風潮が漂っていた。

それでも、わたしはなぜか「うーん、やっぱり遊んじゃおっかな!」と遊びまくる高校生活にできなかった。

それは、一緒に高校受験した子から言われた言葉がずっと胸に刺さっていたからだった。

「そこの高校だったら、もはや大学なんて行けなそうだよね…w」

それ、言われたままで良いの…?
悔しいよね…?

いや、絶対行くし!

もともと少し法律に興味があったこともあって、地元の国立大学である北海道大学の法学部に行こうと思った。
中学のときに行っていた塾の先生も、北大の人がいた。

大学から道外に出るっていうのは、そのときは全然考えなかった。
知らない、あるいは身近にない。
このことは、そもそも選択肢に入らない、に等しい。

このときから、北大の法学部に行くことに目標を定めた。
やる気の源泉は、「絶対に見返してやる!」だった。
そして、机に張り付く日々が始まった。

悔しさは、自分のエネルギーになる。
そして、成長の源泉でもあるんだと、今も思う。
腐るのも自分次第、やり直すのも自分次第。

ただ、法学部に目標を定めたことで、結局苦しむことになった。

数学のせいで…。

とりあえず国語から始めるかー!
漢字すらまともに読めないけど!

という感じで、数学は放置気味のまま、苦手な国語に手を付けることから始めたのだった。

日本語とは違う「国語」攻略の秘儀

受験をするなら、2年後には「センター試験」(※今は「大学入学共通テスト」)というものを受けるらしいことを知ったわたし。

現代文、古文、漢文に分かれることも。

「現代文ってどうやって勉強するんですか?」

これがわたしの壁だった。小説は読むけど国語ができない!

小説を読んで感想を抱くことと、問題に答えることは話が違った。

そんな折、校内でも人気者!の若手イケメン先生の授業があった。
試しに授業のあと、ふらっと相談に行った。

「ねーねー、国語ってさー、どうやって勉強するの?」
敬語というものを知らないわたし。

イケメン先生:「ん?なんで?困ってんの?」

わたし:「うん」

イケメン先生:「勉強する気になったの?」

わたし:「うん、ちょっとはねー」

イケメン先生:「おー、まじか。ちょっと来なよ」

…呼ばれてついていったのは職員室。

先生のデスクに入っていた、あるものを見せられた。
そして、脇の棚にあった、大量のコピー紙を手渡された。

イケメン先生:「これ一日1ページ、毎日やったらできるようになるよ」

わたし:「…毎日かー…めんどくさいね」

イケメン先生:「365日分あるよ。1日20分かな。」

わたし:「…すごいね…」

渡されたのは、超初級現代文の問題集のコピーで。
初級ー超上級までのシリーズを1年でやれという話だった。

イケメン先生:「わかんなかったら教えてあげるからやりなよ」

(おお!教えてくれるって…!)

わたし:「じゃあやってみる」

ここから、わたしのやる気の源泉に、「イケメン先生に教えてもらえる」が加わった。

やっぱり理由なんていつも単純だ。複雑なロジックなんて、いらないのだ。きっかけの大小なんて、関係ないのだ。
日常のどこに、そのヒントがあるかなんて、誰にも予想できない。
気づいたら、その先生が好きになっていた。
すごく切なくて、楽しくて、でもやっぱり切なかったのを覚えている。
淡い恋だったなら、こんなにきっと覚えていなかったのにね。
でも、もうそれは、遠い過去のこと。

結局、風邪で40度熱を出した3日分以外は、毎日1つ問題を解いたのだった。
1日20分、1回分の問題を解いて解説を読んただけ。
他に何もしていない。継続が最強の秘儀。

そしてその1年間で、国語も偏差値30台⇒72に上がっていた。
受験生になる春が、もうすぐやってくる時期だった。

音楽への憧れと受験勉強の狭間で

カレンダー上は春になったはずなのに、札幌は相変わらず寒かった。
雪が道ばたに残る4月に、受験生と呼ばれる学年である高校3年生になった。

受験生になったからといって、クラスの雰囲気は変わらなかった。
良い大学に進学させるぞ!と意気込む一部の先生を除いて、特にピリピリもしていなかった。

相変わらず担任の女教師の頭は薄かったし、ほとんどの授業はただ教科書を読むだけで面白くなかった。

授業中は英語と世界史以外は違う勉強をして、限られた時間を全部勉強に充てていた。
なぜか一番前の席になる確率が高く、よく「なんで違う勉強してるんだ!授業を聞け!」と怒られていた。
その先生の顔も名前も、今はほとんど覚えていない。学校の授業に希望はなかった。

たまに、ブレイクダンスにハマった悪友男子が「お前、何勉強してんだ!YO!」と踊りながら近づいて来るときは、「邪魔しないでよー」と言いつつ、わたしにはできない遊びを満喫しているのを見ているのが楽しかった。今彼は、学校の先生をしているらしい。

わたしは部活には入っていなかった。
運動部は全国大会に行くようなレベルのものしかなかったし、そもそもスポーツが嫌いだった。

唯一興味を持ちそうな吹奏楽部は、いつも不自然なリズムと不協和音を奏でていた。
そして、進学する組のコースの先生たちは、部活に入っている生徒に部活を辞めることを推奨していた。

なので、特定の部活に所属することはせず、幼いころから続けていたクラシックピアノや英会話のレッスンに通いつつ、並行して受験勉強をしていた。
ただ、クラシックピアノに嫌悪感を感じる日々が増えてしまったことから、ジャズに転向した。

ピアノを辞めなかったのは、両親が反対したからだ。
結局やりたくもないのにジャズピアノを習いに行って、やる気のない生徒にやる気を出せる先生に当たったわけでもなく、高校三年生の秋にピアノから離れたのだった。

本当はピアノを弾くことより歌が好きだった。
Stevie WonderやDonny HathawayやCarole KingやChaka Khanを聴いていた。
なぜか日本人アーティストはスガシカオが好きだった。
洋楽の曲を歌おうとするたび、難しくて、でもわくわくした。

受験勉強のお供にラジオを聴くようになってからは、知らない曲がたくさん流れて、気になった曲を改めて片っぱしから聴くのに役立った。

そして、家で勉強のストレス発散のためにずっと歌っていた。

家で歌っていると「勉強してるのかあいつは!?」と父は母に文句を言うのに、ピアノを弾くと全然文句を言わない、そんな状況には内心腹が立っていた。

本当は、もっと歌ってみたかった。
でも、それは無理だなとも悟っていた。
それよりも勉強しよう、といつも自分に言い聞かせていた。
今はそれしかないと思っていた。

受験の夏と座布団ムーブメント

わたしの成績は、英語と国語が偏差値70以上をキープしていた以外、特に変わっていなかった。
予備校なるものに行った方が良いかと思ったけど、講習を受けてみたら、一番前の席でも開始5分で寝落ちして講師があきれていた。

行っても意味がなさそうだったので、行くのをやめた。
相変わらず数学は苦手のままだった。
苦手だと思って、余計に苦手になっていたような気がする。

とりあえず、興味のない話を聞かされ続けるとすぐに寝るので、自分で考えられるように数学だけ通信教育をやっていた。そして、偏差値50ちょっとを推移し続けて、そのまま夏を迎えた。

北海道の夏は、本州より短い。
温暖化でどんどん長くなっているとは思うけど、でも短い。

7月末くらいからお盆までの短い夏を楽しむのに、海でバーベキューをしたり、キャンプしたり海水浴するのが好きだった。
海でキャンプするのは普通だと思っていたけど、そうでもないらしい。

本当に、毎日勉強しかしてなかった。
寝て起きて勉強する以外は、ラジオと音楽しかなかった。

そして、学校の木でできた堅いイスにずっと座っていたので、ある日問題が発生した。

おしりが痛い。

これは、冗談じゃなくて、大問題だった。
肌が猛烈に弱いわたしは、座り続けているせいで、おしりにイスのフチと同じ長さの跡がついて、たくさんブツブツのできものができた。

すごくショックだった。
このとき、特に見せる相手はいなかった。
でも、すごくショックだった。

あの木のイスは本当によくないと思う。

そして高校三年生のわたしは、あることを思いついた。

翌日、学校にあるものを持参した。

先生:「おいおい、それはなんだ?」

自由奔放で人の言うことを聞かないわたしが唯一耳を傾ける、年配の英語の先生に呼び止められた。

この先生は、わたしの担任の女教師の担任だった先生。
私立では、かつての生徒が自分の出身校に先生として戻って来ることは、よくある。
なので、わたしが担任とうまくいってないことも、その理由も理解していた。

わたし:「え、座布団ですよ」

先生:「わかるけど、なんでそんなもの持ってきてるんだ」

わたし:「おしりが痛いんですよ」

先生:「は?」

わたし:「だーかーらー!おしりが痛いんですって!」

先生は笑って、特にそれ以上なにも言われることはなかった。

そしてわたしは教室に入って座布団をしいて、イスに座っていた。

すると、周りがざわざわし始めた。

「え、なんで座布団持ってきてるの!?」という声がたくさん聞こえた。
誰もそんなことはしていなかった。

わたし:「おしり痛いから持ってきたんだよ」

友だち:「…いやー痛いよねーほんとに。わたしも持ってこようかな…」

女の担任は相変わらず、
「ちょっと!そんなものなんで持ってきてるのよ!?」
とぎゃんぎゃんうるさい声で怒っていた。


わたし:「だからおしりが痛いんですよ」

何回言わせるんだと思った。

次の日、クラスで3人くらいの女の子が座布団を持ってきた。
次の次の日も、座布団を持ってくる子が増えていた。

進学コースの中で、どんどん座布団率が増えた。
座布団ムーブメントとでも言える現象だった。


みんな声に出さなかっただけで、実はおしりが痛かったんだ。
誰かがやらないと、状況は良くならないものだ。
そのうち、女子だけでなく、一部の男子も座布団を持参するようになっていた。

座布団ムーブメントを起こしたわたしは、隣のクラスに移動して受ける授業にも座布団を持って行くのだけど、よく忘れたまま自分のクラスに戻るので、

「おーい!座布団忘れてるぞー!」

と大きな声で言う男子たちに笑われながら、おしりヘルパーの座布団を届けてもらっていた。座布団はもはや受験勉強の相棒と化していた。

正直、これくらいしか面白いことがなかった。

相変わらず数学はできなくて、志望する学部を変えるかすごく悩んだ。
文学部にしようか迷った。
毎日、数学というものはなぜ必要なんだろうか?と考えていた。
電卓でいいじゃんと、誰でも一度は思うことを相変わらず思っていた。
でも諦めないで、同じ問題集をひたすら繰り返して解いていた。

余計なものに手を出さないようにすることだけは気を付けた。
焦って手を広げるのは一番よくないと、いろんな人に言われたからだった。

その後、わたしは社会人になって入ったコンサルティング会社で、ITと会計をがっつりやる羽目になって、数学が重要な理由がわかったのだけど。

自分との戦いと受験当日まで

北海道は春も夏も短く、秋はそこそこあるけれど、11月はもう冬。
11月、12月と刻々と時間だけが過ぎていく日々。

成績という数値に一喜一憂する…ということは、しないようになっていた。

やっても成果が見えず前に進まない状態。
ここを、平常心で乗り越えるには、動じずに淡々と過ごしていくという術が必要だった。

もう、修行僧のような気持ちで。

良くても、喜ばない。逆に、悪くても凹まない。

でも、絶対に結果は出るはずだと信じてひたすら勉強して過ごす。

何かにチャレンジするとき、すぐに結果が出るようなことばかりではない。

一喜一憂するのはすごく人間らしいんだけど、でもそれに振り回されると精神的にすごく疲れるし、コントロールが効かなくなる。

永遠にこの状況が続くわけじゃない。あと数か月で終わる!

それまでは、淡々とひたすら過去問を解く日々。

受験当日まで、たくさんの模試を受けて、でも結果は静かに見るだけで、できるだけ当日も同じように受けられるように、どういう状態だと自分は冷静に頭を働かせることができるのかを考えていた。

そして、魔の二日間であるセンター試験(今は「大学入学共通テスト」)の当日。

1日目、2日目、ともに淡々と過ごし、感情を忘れたように問題を解いた。
休憩時間はアルフォートを食べて、糖分を補給しながら。

そしてあっという間に、2日間は終わった。
本番はいつも、あっけない打ち上げ花火みたいなもの。

結果は…


おそるおそるの自己採点で、8割を無事ゲット。

二次試験で志望校を受けることができるではないか!

そして2月の二次試験は、国語と英語と数学だったけど、ギリギリ合格点を取って、滑り込み現役合格を果たした。

また落ちるのを見るのが嫌で、当日の合格発表は見に行かなかった。
そしたら家に封筒が届いて、中には合格通知が入っていた。

学校に連絡しなかったから、また怒られたけど、卒業式では怒られなかった。

わたしは無事、「見返す」という目的を達した。
高校受験に落ちたときにわたしをバカにした女の子は、志望校に落ちたことを別の友だちから聞いた。

第一志望の高校に落ちたからといって、人生は全然終わっていなかった。
楽しいこともたくさんあった。
一生懸命頑張ってよかった。
そう思った。

そして、いざとなったら頑張れることを知れて良かった。

支えてくれた親や、わたしを見守ってくれた人たちがいたからだってことも、忘れちゃいけないこと。

これを読んでいるみなさんも、自分のゴールを目指してがんばってね!



受験勉強は人生勉強にもなるのかもしれない

今受験勉強をしている人たちには、後悔しないように過ごして欲しい。
自分の人生は、自分のためにあるものだから。
チャレンジできる環境は、残念ながら全員が最初から持っているわけじゃないんだ。
最初は誰かに支えられながら得た場を活かすしか、方法がないんだ。

そして、うまくいっても、いかなくても、納得できる進路を模索してほしい。
すぐに手に入らなくても、回り道して手に入ることだってある。

受験に失敗して自殺する子や、追い詰められて試験問題をSNSにアップし、偽計業務妨害の罪に問われている子がいるのを最近のニュースで見た。

小さいころからお受験戦争で勝ち抜いてきたのに、途中でうまくいかなくなって絶望してしまう子がいることも知っている。


本来死ぬ必要もないし、犯罪を犯す必要もないはずなのに、すぐに追い詰められる世の中はとても悲しくてつらいと思って、この実話を書きました。

受験勉強で得る知識自体、そこまで役に立たないかもしれない。
実際わたしもそう思うし。
北大なんて大したことないだろって、もっと上の人には言われるかもしれないし、実際に社会に出てから「田舎の国立出身のくせに!」と言われたことも何度もある。世知辛いなぁ、とても。

ただ、目指したところがどこかなんて、関係なくて。
自分で決めて、行動したことに意味があるんだと思ってる。

悔しさを原動力にして何かをやり遂げるきっかけが受験勉強なら、それはそれで良いですよね。

誰かに届けばうれしいです。

最後に

この記事では、教師に対して当時思っていたことも書いています。
記載したことは当時のわたしが実際に感じたことで、今からわざわざ誰かを傷つけるために書いているわけではありません。
傷つけられたことも、もしかしたら傷つけたかもしれないことも、一人の人間が感じたこととして捉えて欲しいです。生身の人間同士ならではですね。

このnoteでは、自分のサイトやSNSでは書かないエッセイ的文筆と楽曲を組み合わせた創作活動ができればと思ってます。

そして、今回の記事は初投稿ですが、note創作大賞に応募します。
ドラマにでも小説にでも映像にでも、何かになったらすごいね!なんて。

それでは、これからもよろしくお願いします!

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