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人はなぜネットで支え合えないのか 〜一般人の私が攻撃された過去

昔、「電車男」というドラマ化したネットでの話がある。大型匿名掲示板2chのとあるスレッドからの発端の作品だ。
今ではどうだろう。きっと「やめとけ」「電車で見知らぬ男に声をかけられたら気持ち悪い、セクハラだ」と言われるのだろうか。

インターネット。何というWWW(ワールドワイドウェブ)という素晴らしい発明なのだろう。世界中の人々と繋がれる、簡単に誰でも世界の作品や情報が見られる。こんなに凄い機能はない。異国圏であっても、翻訳した稚拙な言葉で思いを伝える事が出来る。私は子供の頃から海外の作品が好きだったので、本当にお世話になっている。
2000年代初期の頃、私はよく趣味の掲示板やチャットで様々な人と話し、友人を作り、夜明けまでネットゲームを共にした。時間が経つと、対面して皆で集まる仲にもなった。信じられない事に、今でも彼らとの10年以上の関係は細く長く続いている。彼らはもはや私の人生の一部だ。

今年、プロレスラーであり、TVドラマに出演していた日本の若い女性が悲しき事に自ら命を絶ってしまった。彼女はSNSで明らかなSOSを出しており、助けを求めていた。事実として、我々はそれを助ける事は出来なかった。彼女が亡くなってから、彼女へ誹謗中傷や批判していた者への糾弾が始まった。「死に追いやったのはお前だ」「身元の特定はまだか。お前の人生はこれで終わったな」等と。

実は一般人で何の特徴も目立つこともしていない自分も、約2年前にTwitterで私の発言を見知らぬユーザーに、なんとスクリーンショットまで撮られ攻撃されたことがある。個人情報は載せていないし、趣味のためだけのたった一つのアカウントだった。当時のフォロワー数は10人ほどで、やり取りしていたのは趣味でつながった、たった1人の高校生の女の子だけだ。あとの数はほぼスパムだったと思う。
誰かさんが気に食わなかったらしい私の発言は少しばかりの個人的な愚痴だったが、何か特定のものや人を陥れたり傷つけたものではない。とても気味が悪い上に、大変不愉快で傷ついた私はアカウントを消した。その誰かさんのアカウントを確認してみると、そこに残された言葉。
「消しやがった」「そのまま消えてくれ」

その後、Twitterを辞めた私はSNSで繋がった彼女とのメッセージを取り合うことはなかったし、私からも送れなくなった。攻撃してきた人物は小学生じゃないかと思ったのだが、「仕事おわったー」等とその誰かさんは呟いていた。会ったこともない私を攻撃しているが、私がもし裏社会に通じる人間の親族だったり、それこそタトゥーが入っているような強面の裏社会の人間だったらどうするのだろうか。こういったタイプの荒らしはよく考えれば通行人に喧嘩を吹っ掛けているのである。まさか現実でもやっているのだろうか、最近はそういった乱暴者をあまり聞かないため分からないが怖くなる。
見知らぬ他人とはいえ一つの言葉でかなりのダメージを受けるのだから、それが何百倍にもなったらさぞかし辛いだろう。
現代の若者はマナーがいいらしい。だが私はそれが怖い。たまに見かけてしまう老人がドラッグストアのレジで怒鳴っている光景、それを見た若者はその写真や動画をSNSで投稿し不満をぶちまけているのではないのかと……。

私はよくネット検索でGoogleに相談をする。「人生 生きていたくない」「死ぬしかない」等と。知恵袋には同様の質問や相談がある。そこでたまに見かける答えーー「死ぬなら迷惑を掛けない死に方でどうぞ」

「才能のある彼女を死に追いやったのはお前だ」「通報した」「人身事故クソ迷惑。死ぬなら人目のつかない所でやれ」「自殺はやめろ」「そのまま消えてくれ」「転売はやめろ、ずっと通報し続けてやる」「不倫芸人、二度と出てくるな」「誹謗中傷するなんて最低」………。

そしてTwitter上で自殺願望のある若い女性を狙って多くの若い命を殺害した座間市での事件……。なんというSNSの使い方なのだろうか。

最近、ネットではいわゆる"正義の味方ちゃん"が増えたように思う。ニュースで取り上げられた悪者や槍玉に上げられた者はネットで批判される。これは果たして良い事なのだろうか。こうしている人間の一部は、顔が見えない事をいい事に、正義感を振りかざした自己満足とストレス解消でコメントしているのではないのだろうか。きっと何かしらの文句を言いたい、憂さ晴らしが含まれている。私も実際、文句言いな面があるので言いたくなる気持ちは分かる。ゲーム中はよく開発者に対してキレて独り言を言っているし。彼らの顔や姿、表情は私の目の前にはないからだ。

きっと本当の問題は、"誹謗中傷"というカテゴリではない。法律を作るとか通報とか、そういうことで根本的解決する容易いものではない。人に対して掛ける言葉は、自分にも掛けているものだと言う。
すべては我々の言葉の使い方と思いやりの問題なのだ。

TwitterやInstagram、You Tubeのコメント等でメッセージを送信する前に考えてみて欲しい。それはアプリのアイコンと自身のフォロワーだけでなく、世界に届くのだということを。自身の創作や好きなキャラへの強い愛は、たとえそれが変態的だとしても叫んでもいいとは思うが。ヘイトより愛を伝えることはとても素敵なことだ。

故人にはメッセージはもう届かない。届かないなら、私達は行動を見直し、今生きて悲しんでいたり、苦しんでいたりする者へ救いの手を差し伸べる事が唯一出来ることではないだろうか。新たな取り返しのつかない不幸を生み出す前に。

支え合う世の中になって欲しい。自分の事で精一杯な人間で溢れて他人を思いやる余裕が中々ない、今の悲しくて寂しいこの国では、難しい事だと思うけれど。
我々人間に出来る事は、人を傷付ける事だけではない。支え合う事が出来るはずだ。あの311の東北地震の時の様に。

そして他人だけでなく、自らに対する素敵なメッセージを作って欲しい。我々は生きている事だけでも素晴らしいのだ。もしそれがつまらなかったり、ひどい一日であったとしても。

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写真は今年の冬亡くなってしまった私の相棒と初めて出会った日。どうか安らかに。ありがとう。

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