あなたを愛する気持ち
第1話
パラパラと小雨の降る金曜の夜、そのヒトは私の前に現れた。
「こんばんは」
驚くほど色が白くて、上品なブロンドの髪にブルーグレイの瞳。すらりと高い背に華奢な体格は、誰もが振り返るトップモデルそのものだった。
「驚かせてごめんなさい。あなたを見かけたその日から、ずっと気になっていました。今日初めて勇気を振り絞って声をかけたんです。少しだけ、お茶に付き合ってはもらえませんか」
しっとりと濡れたビジネス街の灯りが、アスファルトに反射している。彼は緋色の傘を傾けた。
「一緒に、いかがです?」
私は常磐色の傘を折りたたむ。
一目惚れなんて、自分の人生にあるわけないと思っていた。それなのに、吸い付けられるようにその緋色の傘に入る。
もしかしたら、左の首筋にあるほくろの位置が、別れたばかりのあの人に似ていたからなのかもしれない。彼はにこりと微笑んだ。
「行きましょう」
並んで座ったコーヒーショップのガラスを、雨はやさしく通りを滲ませる。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「岡田真緒といいます」
「そう。僕はルイ」
細く長い指が、優雅にカップを持ち上げる。一口だけ口をつけて置くその仕草まで、よく出来たガラス細工のように繊細だった。
「あ、ルイさんですか。そうですか」
そっか、偽名なのかな。
そうだよね。
私もバカみたいに本当のコトを言うんじゃなかった。
「ごめんなさい。僕には名前がないんだ」
「名乗れないってこと?」
「そう」
ついた肘に頬を乗せ、にこりと微笑む。
「真緒は何が好き? やっぱりお花とか鳥が好きなの?」
「どこかでお会いしたことがありましたっけ」
こんな凄いイケメンと会ったことがあるなら、覚えていないはずはないんだけど。
「会ったよ。だけどそれは秘密」
落ち着いた笑みを絶やさないギリシャ彫刻のような顔は、本当に大理石で出来ているみたい。
「あの、肌がとてもきれいですね。どんなお手入れをされてるんですか? ちょっとだけ触ってみてもいいです?」
「じゃあキスしよう」
そう言って近づく横顔に、驚いてとっさにうつむいた。
「そ、そういうのは困ります」
「はは。かわいい」
彼の手が私の手に重なった。
「ね、僕のこと好きだったでしょ。それはどこから来たの?」
「え?」
私は自分の記憶の中をぐるぐると駆け巡る。だけどこんなヒトに会った覚えは一切ない。
「もしかして人違い?」
その問いに、彼は急に動かなくなった。
何かを一生懸命考えているようにも、全くの無心になってしまったようにも見える。
やがてゆっくりと会話を再開した。
「そうだね。人違いではないけれども、確かに同一人物というわけではない。約840万の組み合わせからのランダムアソートだからね、ややこしいんだ」
優雅に微笑む。
「大丈夫。僕の見立てに間違いはない。今もう一度確認した。君にも僕を好きになる要素は含まれている。それがどこにあるのか教えてほしい」
意味が分からない。
そんなことをいきなり言われても困る。
じっと見つめる彼とは、目が合えば優しく微笑むばかりで、会話はどこまでもかみ合わなかった。
彼は結局、最初の一口以外全く手をつけなかったコーヒーカップを持って立ち上がる。
「もう帰ろう。時間だ。少し長すぎたくらい。途中の駅まで送るよ」
たっぷりとカップに残るそれを、ためらうことなく流しに捨てた。
彼はまたにっこりと優しい笑みを浮かべる。
「また会いたいんだけど。いい?」
緋色の傘が差し出される。私はその中に入る。
「連絡先、交換します?」
「あぁ、いいね」
地下鉄へ下りる階段の前で、彼は手を振った。
私はペコリと頭を下げ電車に乗った。
第2話
すぐに連絡がくるものと思っていたのに、彼からのやや強引な次のお誘いが入ったのは、ぴったり一週間が経った同じ曜日の同じ時間だった。
「同じ曜日の同じ時間を、僕にください」
たったそれだけのメッセージに、心がときめく。
それはあの容姿だけのせい?
「僕のどこが好き?」
金曜夜のビジネス街の、どこにでもあるコーヒーショップ。
たった二度目の逢瀬で、トータル三時間もない中で、そんなことを聞かれても答えようがない。
「えぇっとですねぇ、好きっていうか……」
彼はにこにこと上機嫌な笑みを浮かべている。
「私の方が声をかけられたのに、その聞き方はおかしくないですか?」
「僕が君を好きな理由?」
彼は湯気の立つカップの前で、優雅に頬杖をついている。
「それはね、遺伝子に組み込まれたプログラム」
なんだそれ。
私はコホンと一つ咳払いをしてから、彼を見上げる。
「それでは返事になっていません」
「好きなんだ。君が。それだけじゃダメ?」
ひんやりとした白い手が、私の手に重なった。
彼は視線を落としながらそっと顔を背ける。
「それを君が僕に教えてくれないと、僕はどうしようもないんだ」
憂いに満ちたギリシャ彫刻の横顔に、どうして逆らうことが出来るだろうか。
「分かりました。じゃあとりあえず、お友達から。これから一緒にご飯食べに行きません?」
連れて入った馴染みのレストランで、彼はやっぱり何にも口にしなかった。
「食べないんですか?」
「食事制限があって」
「病気?」
彼は首を横に振る。
「あ、やっぱりモデルさんとかなんですか? 体型維持とか」
彼はにっこりと微笑む。
「君の食べている姿を見るのは、新鮮でとてもおもしろい」
彼の手に取ったフォークは、この一瞬を彼に選ばれるためだけにこの世に存在していたかのようだ。
それに突き刺されたきゅうりの欠片も、きっとその光栄に身を震わせているだろう。
「はい」
目の前の悦びにあふれたキュウリを見下ろす。
口を開いたら差し出されたので、タイミングをみはからって口を閉じる。
抜き取ったそれを、彼は自分の口に咥えた。
「ふふ、ありがとう」
フォークを咥えたままうれしそうにしている姿に、こっちが恥ずかしくなる。
店を出たとたん、彼は私の手を握った。
「ねぇ、キスしたい」
腕を引かれる。
白い手が頬に触れ、唇が重なった。
ぬるりと入り込んだ彼の舌が私をもてあそぶ。
もう一度軽く触れてからそこを離れた。
「今夜はどこまで送っていけばいい?」
背に腕がまわる。
彼はぎゅっと私を抱きしめる。
「嘘、ゴメン。大事な人だから大切にする」
すぐにほどかれたその手を、彼は軽やかに振った。
「じゃ、またね」
第3話
次の約束もまた、同じ金曜の夜だった。
「この時間帯じゃないと会えないんですか?」
そう聞いたら、彼は全くブレない同一の笑みを優しく返す。
「もっと僕に会いたくなった?」
いつものコーヒーショップまで並んで歩きながら、私の手を握る。
「どうしてそういうふうに思った? そのターニングポイントはどこ?」
多分それは、初めて会った時からの一目惚れなんだけど。
それをこのヒトに説明しても分からないような気がする。
「う~ん。もっと会いたくなったっていうか、あなたの違う一面を見てみたくなったっていう感じかな。私の知らないあなたをもっと知りたいっていう、そんな気持ち」
「なるほどね」
彼は私を見下ろした。立ち止まり向かい合う。
「たとえばそれはどういうところ? 生活面とか、環境、性格? それとも意外性を求めてる?」
金曜夜の繁華街は人通りも多くて、その混雑した人の流れの中でも彼は周囲の様子を全く気にしていない。
「僕個人のキャラクターと言っても、その全てを知ることが出来ると思ってる? 本当に知りたい? 君と僕はまだ数回しか会っていないのに?」
通りの真ん中で立ち止まる彼に、通行人の肩がぶつかった。
「正解はノーだね。君は僕の……」
往来の真ん中で、彼は静かに首を横に振る。
「いや、何でもない」
「あなたは私の何を知っているの?」
非の打ち所のない完璧な作りの顔と向き合う。
「私はあなたを知らない。あなたも私を知らない。あなたは私の何を知りたいと思ってるの?」
立ちすくむ彼の肩に、大柄の男性がぶつかった。
「邪魔だ。痴話げんかならよそでやれ」
彼はそれを無視して腕を組む。
「そうか。君も同じことを聞くんだね」
「おい!」
ぶつかった男は、かなり酒に酔っているようだ。
「いい反応だ」
ルイは私に微笑む。男の手が彼の胸ぐらをつかんだ。
それでもルイの視線はまっすぐにこっちを見ている。
「やはり君に会えてよかった」
「お前、俺の話しを聞いてんのか!」
殴りかかろうとした男の手を、ルイはパッとつかむ。
「僕も君の気持ちが知りたい」
怒りをむき出しにした男は、彼の胸ぐらをつかみ強く引いた。
服が引きちぎられるほどの力でも、ルイの体はピクリとも動かない。
ようやく美しい顔が男へ視線を向けた。
「すまない。今この人と大切な話をしているんだ。君は遠慮してくれないか」
その脇腹に拳がめり込む。
それでも彼は顔色一つ変えなかった。
にっこりと笑みを返す。
「ごめんなさい。僕たちの方が邪魔だったかな。真緒、行こう」
「ルイ、服が!」
「あぁ、いいんだ」
彼の白い手が、私の手をやさしくつかむ。
「じゃあ、失礼するよ」
爽やかな笑みを男に投げかけ、ルイは私の手を引き歩き出す。
「ねぇ、どこに行くの?」
「どこへでも。君の行きたいところなら、僕はどこにだって連れて行ってあげる」
破れた服を胸の前で押さえている。
私は彼の手を引いた。
「じゃあ服屋さんに行こう。新しいのを買いに行かなくちゃ」
閉店間際の店に駆け込む。
破れたのと同じような白いシャツを選んだ。
店員に事情を話し、フィッティングルームに入る。
「着替えを手伝ってはくれないの?」
そうやっていたずらっぽく笑った彼の言葉は、もちろん冗談だと分かっていた。
彼と共にその狭い空間に押し入る。
第4話
「さっきのところ痛くなかった? 大丈夫? 見せて」
脱がせた上半身はやっぱり大理石と同じ白さと滑らかさで、肉付きまで彫刻を写し取ったよう。
殴られた脇腹も、何一つアザにはなっていなかった。
「心配してくれてるの? うれしい。僕のことそんなに好き?」
むき出しの腕にくるまれる。
その体温はいつも、ほんの少しだけひんやりとしていた。
「違う。ふざけてないで早く着替えて」
新しい服を押しつけると、外に出て後ろ手にカーテンを閉めた。
人間離れしているのは容姿だけじゃない。
「じゃあ次はどこに行こうか」
店を出ると、彼は当たり前のように手をつなぐ。
私は私を引いて歩く横顔を見上げる。
「ルイはどこに住んでるの? 普段は何をしている人?」
「僕のこと、もっと知りたくなった?」
そう言って微笑む。
「あぁ、そうよね。自分のことは何一つ話さないのに、一方的に知りたいってのもフェアじゃないよね。私は今の……」
ルイの人差し指が私の唇をふさいだ。
「僕にとって君がどこに住んでいるかだとか、何の仕事をしているか、今は誰と住んでいるのかなんて、問題じゃないんだ。君が君でさえあればいいと思っている。それじゃダメ?」
「だ、ダメじゃないけど、私がよくない」
「どうして?」
強く手を引かれる。
ビル街を抜けた先にある夜の遊園地はキラキラとまぶしくて、大きな観覧車は夢の中にあるみたい。
「わぁ、きれいだね。真緒はアレに乗りたい?」
首を横に振る。そんなことで話を誤魔化されたくはない。
「ルイは私のことが好きなの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「前も言った。遺伝子に組み込まれたプログラムだって」
「じゃあ私は? 私も、遺伝子に組み込まれたプログラム?」
白い指先は私の頬を撫で髪をかき上げる。
「だとしたら、どれだけ幸せだろう」
彼は遊園地を取り囲む柵の上に腕をのせ、そこに頭をのせた。
綺麗な顔は悲しげに微笑む。
「ルイはどこから来の?」
「未来」
「私に会いに?」
「そうだよ」
握りしめた柵は少しひんやりとしていて、それは彼の体温を彷彿させる。
「僕のことをもっと知りたくなった? それとも怖い? それで僕を好きになってくれるなら話してもいいし、嫌ならもう話さない」
「あなたの素性は関係ないってこと?」
「本当に好きならね」
自分の気持ちだって自分で分からないこともあるのに、ましてや他のヒトの気持ちなんて分からない。
私はもう既にあなたをほんのわずかでも好きだってことに、彼は気づいていない。
「それがルイにとっては、一番大事なこと?」
「そうだね。だって、そのために来たんだもの」
両腕に顎をのせたまま、彼はもぞもぞと近づく。
私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「もしそのためにあなたがここに来ているのだとしたら、未来の私はあなたを好きじゃないってことになるよ」
彼の目がじっと私を見つめる。
それは何かを言いたいようにも、言いたくないようにも思えた。
「それに対する答えを、僕は持ってない」
彼は柵にもたれていた背を伸ばした。
「もう帰ろう。君も疲れたでしょ。そこの駅まで送るよ」
歩き出す背を振り返る。
彼を傷つけてしまったのかもしれない。
「待って。あなたは何者なの? どうしてわざわざこんなことをしているの?」
追いかけて手を伸ばす。
届いたそれにつかまった。
「僕をもっと知りたくなった? 知りたいってことは、やっぱり僕のことが好きなんだよね」
くるりと振り返ったこのヒトの表情からは、何も読み取れない。
「『未来の私はあなたを好きじゃない』ってことは、『今の君は僕を好き』ってことなんでしょ?」
見上げた私に、ようやく微笑んだ。
「本当の僕を知っても、好きでいてくれる?」
夜の遊園地から、ジェットコースター発車の合図が聞こえる。
観覧車は回り続ける。
「それが本当に、私の遺伝子に組み込まれたプログラムなら、きっとそうなるんじゃないの? そのことにルイは、自信がないの?」
もしそれでこのヒトが不安になるのなら、私はその先を聞かない。
「自信はあるよ」
白く大きな手が髪を撫でた。
指先ですくい取られた髪の束はさらさらと流れ落ちる。
「本当に僕を好きだったと、信じている。髪も眼も肌も心も、全て僕のものだった。だからもう一度、どうしても確かめたいんだ」
「私は好き。あなたが」
そう言ったのに、ルイは笑った。
「ふふ、ありがとう」
唇を寄せる。
彼は私の頬にそっとキスをした。
「じゃあ少し長くなるけど、聞いてくれる?」
夜風がふわりと横切った。
彼は一つため息をつく。
夜間営業の遊園地の外で、彼はゆっくりと話し始めた。
第5話
僕がやって来たのは、今から1500年後の未来。
「彼女は死んだんだ」
僕らが出会ったのは、明るい日の光の差し込む研究所内緑の空中庭園で、彼女は芝生の上で大きな木の幹にもたれていた。
「どうしてそんなことをしたのかは分からない。本当に突然だったんだ。僕は彼女が大好きだったし、彼女もそうだと思っていた。僕は彼女のためになんだってした」
デザインベイビーが当たり前の世界。
卵子にあらかじめ設計した遺伝子を組み込む。
それをいくつか用意したうえで、細胞分裂に成功した卵子だけを「培養」して育てる。
「彼女はアジア種をベースにした女性だった。それでも青みのかかった明るい髪と大きな胸に小さな腹、長い手足を欲しがった。だから僕は彼女の記憶を保存したうえで、望む体を作ってあげた」
遺伝子を組み換えることで起こる突発的な症状がある。
彼女の体は人間の形状を保てず、皮膚が溶け出していた。
初めて出会ったその時も、彼女はゆっくりと溶け出していたんだ。
理工化学生物研究所で発生学について学び、基礎遺伝子機能工学化学分野をやっていた僕は、彼女の担当になった。
皮膚が溶け出す症状に、多くの人々が悩まされていた。
「別に特別でもなんでもない、よくあることさ。僕たちの時代にはね。遺伝子を組み換えることで、どうしても予測できない問題が発症する。そのためにデザインしたDNAのコピーをいくつかの卵子に埋め込んで『予備』を作っておくんだ。どうしたって、細胞分裂にエラーは起こる。これだけは避けることは出来ない。その為の『予備』だ」
それなのに彼女の皮膚は溶け出した。
代替用クローンも全て使い物にならなかった。
髪を赤に変え、眼を緑にし、彼女の体を取り戻すためのあらゆるパターンを試した。
鼻の形を変えたり、爪を小さくしたり、腸の長さや血管の太さだって変えた。
「それでようやく、彼女の体は完成したんだ」
それまでの時間を生体チップの中に記憶を留め、アンドロイドの機械の体で過ごしていた彼女は、ようやく自分の体を持てたことに喜んでいた。
「僕たちの時代にはね、『生身の体』ってものすごく価値が高いんだ」
生きて動く正常な細胞は、それだけで貴重な素材となる。
「何度も再生を繰り返すうちに分裂能力は落ちる。そうすると専用の生体に細胞を戻すんだ。再活性化された細胞でリフレッシュを繰り返すことは大切なことだからね」
ある時から彼女は酷い頭痛に悩まされるようになった。
それもいわゆる突発的なエラーだ。
神経回路の置き換え処置を行って、その痛みは治まった。
「彼女の記憶はそのままで、体にはもう異常はみられなかった。僕たちはまた幸せな毎日を過ごせると思っていた」
いくつもの夜を過ごし朝を迎え、二人だけの穏やかな日々を過ごしていた。
ある朝のことだった。
彼女は突然「もう愛していない」と言った。
「信じられる? そんなこと。僕は酷く傷ついたんだ」
それでも彼女を愛していた。
何度も話合いを続け、脳神経の伝達機能検査もしてもらった。
どこにも異常はみられない。
「僕は彼女が僕を愛していなくても、側にさえいてくれればいいと思った。彼女もそれに納得してくれた。僕はそれまで以上に彼女を愛した。それなのに……」
彼女は自分の全データを消去して、姿を消した。
遺伝情報はもちろん、それに関する記録もクローンも、「彼女自身の記憶」すら消去していた。
彼女に関するデータが、全てこの世から消え去った。
「それを『死』と呼ぶんだと、僕はその時に初めて知ったんだ」
何が気に入らなかったのか、必死で考えた。
彼女はいつだって微笑み、つねに僕の側にいてくれたのに。
彼女の望んだ生体を作り出すことが出来なかったからだろうか。
そのデータを取り戻すことは、どうしたって出来なかった。
第6話
「もう二度と彼女に会えない。そんなことが現実に起こりえるだなんて、僕には耐えられない」
過去に戻った。
何度もやり直した。
どこで何を修正しても、やっぱり彼女は「消え」た。
「ねぇ知ってる? どれだけ過去を書き換えても、未来はなるようにしかならないんだ」
どうしても彼女を取り戻したい。
「僕は彼女の『死』についての実験を始めた。彼女はとても苦しんでいた。何かを取り戻そうとしていた。肌が溶けていくのを、吐くほどの頭痛を、それでも微笑んで僕を見上げてくれた彼女の、デザインされる前の『オリジナル』であれば、その苦しみを取り除けると思った」
彼女の死はセンセーショナルなニュースとなって世間に知られた。
研究内容への採決はすぐに下り、過去を自由に行き来する特別な許可まで上位学会からもらった。
「だけどね、まだタイムスリップの技術が存在していない時代に、そのテクノロジーや方法を伝えることは許されていない。もちろんやがて確立する技術だから、問題はないんだけど。実際に歴史研究家たちが試した結果でも、過去において未来の技術は、当時の生産能力や技術などを鑑みて『再現不可能』と結論されている」
彼女を「再生」する取り組みが始まった。
「オリジナル」を取り戻す研究に対する世間の関心も高い。
僕は失われたDNAをかき集めなければならない。
彼女の存在した時代から約15世代の期間が選ばれた。
「二人の両親から15世代遡ろうとすると、どれだけの人数になるか計算した。2の15乗で32,768 人。それを1500年の期間と単純に考えて、博士は5体のアンドロイドを作った。DNA採取用の自走ロボだ。バッテリーは500年もつ。32,768人を5で割ると6,553.6人。真緒、君は僕が採取した6423番目のサンプルだ」
真緒の目は彼女に似ている。
その眉からこめかみにそっと触れた。
「僕が一番古い時代の採取用ロボットだから、気は楽だよ。世代が近ければ近いほど、彼女に近いものが採取できる。だけど苦労しているみたい。デザインされた生体ばかりで、もうすでに『血統』だなんて概念のない世界だ。種類も数も限られているのに、見つけること自体が難しい。集める方も必死さ。
僕の場合は、だから、本当にオリジナルで未知の、もう『現代』には残されていないけど、使えそうな遺伝配列を見つけてくることかな。学術的な発掘とか再発見っていう感じ。
人の染色体は1セット23本、それが2の23乗で838万8608種からのランダムアソートが起こる。なにをもって『オリジナル』とするかは、はなはだ難しい問題だと笑う奴らもいるけどね」
この時代では、本当に多くの人間が無防備に歩いている。
外見から判断できる容姿だけでも、実に多種多様でユニークだ。
乱雑さは常に増大する。
時と共に秩序は崩れる。
形あるものはいずれ機能不全に陥る。
だけどそれは、ただ観察から得られる結果であって、何らかの基本原理から論理的に導かれているわけではない。
それを分析し整理、応用してきたのが人類だ。
「そうすれば彼女もまた、僕を愛するようになる」
「じゃああなたは、博士自身ではないってこと?」
「そうだよ。だけど思考回路はコピーしてある。記憶もね。タイムスリップが許されるのは、非生命体だけなんだ。生きた細胞を過去に送ることは許されていないからね。もし僕が何らかの理由で動けなくなったり過去に取り残されても、この体と記録媒体は自然分解される素材で出来ているから、大丈夫だよ」
真緒は僕の頬に手を伸ばす。
そっと触れた指先の体温は、彼女のように温かい。
「博士もこんな見た目なの?」
「時代も性別も超えてサンプルを採取するんだ。万人受けしやすい形状を選択している」
彼女は返答に困っている。
その表情変化の過程は、あの時の彼女と同じだ。
「じゃあ、今から1500年前の世界を想像してごらんよ。西暦500年代? 後期ヘレニズム文化と考えると、ほら、そのまんま僕だ」
外気温19.8℃の状態で、体温36.2℃の彼女の手が伸びる。
手状構造をカバーする樹脂の上に、それは重ねられた。
「ヒトって、あんまり変わらないものなのね」
「そうだよ。それなのに彼女は変わってしまった」
第7話
多くの自由度を含んだ問題は、解き明かすには難しい。
だけど、たとえそれがどんな問題であったとしても、そこに「問い」があるならば、解かなければならない。
「過去には遡れても、未来には行くことが出来ない。だけどね、未来から過去にくることが出来るのなら、どうして僕は僕を助けに『今』に来ないんだろう。僕がとても悩み苦しんでいることを、未来の僕は知っているはずなのに。
僕はその未来がやってくるまで、それでも『今』を進めないといけないんだ。だからこうして、君に会いに来た。この先にどんな未来が待っているのか、僕は知らない。だけどこうしないと、僕は先に進めない」
「ねぇ、私はそれは、きっといいことなんじゃないかと思うの」
彼女の手が、僕の頬を挟んだ。
「私が今しゃべってるのは、博士自身なの? それとも『別人』のようなもの?」
「僕は博士であって博士じゃない。思考パターンと経験を共有しているだけの存在だ」
「あなたが経験したことは、博士も経験する?」
「そうだね」
「返事に困るような質問をされた時は?」
「博士は僕たち5体を作って、食事に出かけた。『昨日』の夜はぐっすり眠って、今朝からの作業に追われている。僕たちが博士の判断を仰ぐ必要のある問題は、リアルタイムで博士の『今』に送られる。
博士は今、僕たちから次々に送られてくる問題に指示を与え続けている。僕たちはその返答を『今』に受け取って対応する。僕たちが仕事を終えて戻るのは、その作業が全て終了し、博士の昼食が終わった午後からの時間だ」
「じゃあ今、こうしてあなたに話しかけていることは、本当のあなたにも届くのね」
僕はうなずく。
彼女は大きく息を吐いてから、もう一度吸い込んだ。
「博士が『今』のあなたを助けに来ないってことは、きっと上手くいったからよ。あなたがこうやって積み上げていることが、成功し実を結んだと知っているから助けに来ないんだって思わない?」
「失敗したのかもしれない」
「未来から来たのに未来に不安があるだなんて、面白い」
彼女の額が僕の前額に接触した。
「ね、きっと彼女はあなたを愛していたと思うの」
「どうしてそんなことが言えるの? 君は彼女であって彼女じゃないのに」
「分かる。分かるよ」
こんな時には、どうすればいいんだろう。
博士からの返事もない。
「君は彼女のことを知らない」
「うん」
「知らないものは分からない」
「じゃあもっと、彼女のことを教えて」
「未来のことは、過去の人間には教えられない。博士は特別な許可をもらった研究者だから、こんなことが許されているだけだ。この仕事が終わったら、君の記憶も消さなければいけない」
僕はもう帰らなくてはならない。
サンプルの回収率は98%を超えている。もう十分だ。
「それがルールなんだ」
「そう、それは残念ね」
僕にはその「残念」の意味がよく分からない。
与えられた事実に対する、正解が一つではない問題と、それに対する反応を瞬時には判断できない。
「大丈夫よ。私の記憶は消されても、あなたを愛する仕組みはこのDNAに刻まれて、未来まで運ばれる。だって、あなたが今ここにいることそれ自体が、証明なんだから」
「君からもらったこのデータで、僕は君を作るよ。そうして、大好きな君を取り戻す。ありがとう」
「さようなら。愛しい人。またあなたに会える日を楽しみにしているわ」
彼女の頬に触れる。
髪をかき上げ、そっと側頭部を両手で挟む。
僕は彼女の記憶を消す。
さようなら、愛しい人。
最終話
瞬きをした次の瞬間、ルイの姿は視界から消えた。
夢のような時間だった。
私は恋をしていた。
それなのに、別れて寂しいはずなのに、寂しくないって不思議な気がする……って、私、ルイのことを覚えてる?
記憶をワザと残したの?
「真緒!」
その声に振り返った。
「あ……。久しぶり」
「おま……なんかさ、お前今すっごいイケメンと一緒にいなかった?」
数ヶ月前に別れたヒト。
黒い目と黒い髪はどこから見たって完璧な日本人で、ルイの面影なんてどこにもない。
「気のせいじゃない?」
そう言った私に、彼は首をかしげブツブツと何かを口ごもっている。
「なんの用?」
「……いや、別に。たまたま見かけたから……」
だけどこの人の首筋にも、ルイと同じほくろがある。
「ねぇ、私たち、なんで別れたんだっけ」
「そんなの、もう忘れたよ」
ルイは私の記憶を消さずに帰った。
私に忘れてほしくなかったのかもしれない。
私も彼を忘れたいとは思わない。
「やり直す?」
「そうしてくれると、俺はうれしい」
彼の腕が私を包む。
頬に触れ、唇が重なった。
自然と笑みがこぼれる。
「なにがそんなにおかしいんだよ」
「別に」
この人もルイみたいに、いや、博士みたいに必死だったのかな?
「お腹空いた。一緒にご飯食べよう」
手をつなぐ。
その手はしっかりと握り返された。
どうか生まれ変わった未来の彼女が、博士との幸せな日々を取り戻せますように。
そう祈って私たちは歩き出した。
【完】
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