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暗い話にはしたくない

第1話

ねぇ、この世界がいま、少しずつ小さくなってるって、知ってる? 

なんかもうすぐ、本当になくなっちゃうらしいよ?

『また消えた!? 現代社会に起こる怪奇現象の真実とは』

テレビのニュースは伝えている。

どっかの国でどっかのビルが、丸ごと一つ消えたんだって。

SNSでは大騒ぎ。

私は朝ご飯を食べ顔を洗い制服を着て学校に向かう。 

今朝はカラスの死骸が置いてあった。

校内の最奥のさらに隅っこにあるくせに、日当たりだけはやたらよい菜園がある。

校内唯一の園芸部員として、私は登校後真っ先にそこへ向かう。

蛇口にホースをつなぎ水をまく。

それを片付けたら、倉庫にぶら下がる日誌にチェックを入れ、自分のスマホに記録を書く。

隣接する校舎から、ピアノの音が聞こえてきた。

毎朝それを聞きながら、こうしてアプリに登録を済ませるのが私の日課だ。

倉庫から取り出したメジャーで、伸びたジャガイモの丈を図る。

15㎝。

もう少し伸びたら間引きだ。

今こうやって思いきり元気よく葉を広げているこの子たちは、明日には私に摘まれる。

でないと立派なジャガイモは育たない。

なんとも合理的かつ常識的な手法で、必要不可欠な措置なのだ。

 知ってる。間引きが大事なこと。

私はそのジャガイモの代わりに、生えてきたばかりの雑草を抜く。

春休みに作った土の上にぽつぽつと絶え間なく生まれるこの小さな芽を、私はただ黙々と摘んでいる。

機械のようになって摘む。

そうでないと、あっというまにこの邪悪な植物は大切なジャガイモを追い越し、土の養分を全て吸いつくし、これまでの労力を何もかも無しにしてしまうのだ。

大きく育った株の合間に埋もれて、成長の遅れたものが黄色く朽ち果てようとしている。

これは処分すべきものだ。

しかし私はその根元に土を寄せている。

そして丁寧に、自分が邪悪と判断した草だけを抜き取っている。

ふと視線の先に、黒い塊が見えた。

カラスの死骸だ。

多分生きていたときには、それなりに美しい姿だったのだろう。

べっとりと赤黒く血がこびりつき、むき出しになった目は白く濁っている。

ピアノが聞こえていた。

なんの曲だか知らないが、今日はまたずいぶんと優雅な旋律だ。

彼の奏でる音楽はいつだって、優雅で繊細で快活かつ不確実な要素を含んでいる。

私は突然のカラスの出現に驚いていた。

ここから見上げる少し高い位置にある窓の向こうには、生まれつき色素の薄い彼がいる。

茶色い目に茶色い髪。

透けるような肌は、私より白いから嫌い。

手についていた土を払った。

コレをどうにかしなければ。

助けを呼びたいけれども、どう声をかけていいのかが分からない。

「ねぇ、ここにカラスの死骸があるんだけど、どう思う?」って、果たしてそんな声のかけ方でもよいものなのだろうか。

校舎の壁に近寄ってみた。

ここから背伸びをしても、まだ窓枠の桟には届かない。

「あ、あの……」

私はどうしてこの時に限りそうしようと思ったのか、それが未だに不思議でならない。

とにかくこの混乱をどこかに分散しなければ、自分一人では抱えきれなかったんだろうと思う。

ピアノはピタリと鳴り止んだ。

数秒間の沈黙をはさみ、窓は開く。

真っ白な顔が私を見下ろした。


第2話

「なに?」

「え……、えっと……」

 本当に、この窓が開くとは思ってもいなかった。

もちろん開閉可能なことは知っていたけれども、私にとってこれは常に開かれざる窓でしかなかった。

上からじっと見つめられているのに恥ずかしくなって、目線を落とす。

「あ、あのね、今そこの菜園に……」

ガラガラと、校舎の中から扉の開く音が聞こえた。

彼は振り向く。

小さな足音が聞こえて、誰かが何かを話しかけた。

「本間くん。あ、ゴメン。今、ちょっといいかな?」

「……いいよ」

窓から彼の姿は消える。

中の様子は分からない。

私はただ、いつもと変わらない見慣れた校舎の壁を見上げている。

「あ、あのさ……。私、ずっと本間くんのことが好きで……。よかったら、付き合ってください」

「……。うん、分かった。いいよ」

思い出した。

私は動物の死骸を必要としていた。

土とは、岩石の粉や欠片から出来ているんじゃない。

そこに有機物が混ざってこそ、本物の土となる。

つまりそこには、このカラスは必要なものだった。

死んで役に立つのなら、それで本望じゃない? 

細かく砕けた岩や砂に、雑菌が住み着き、苔やキノコが生え、植物や動物の死が混じる。

するとやがてそれは、栄養豊富な腐葉土へと変わる。

そうやって出来た土から、花や木はすくすくと育ち、生き物の餌になる。だからいつだって、死体は必要な存在なのだ。

穴を掘った。

カラスを一羽埋めるような穴だ。

簡単に掘れる。

私はその穴をジャガイモ畑ではなく、ツツジの根元に掘った。

校内のこんな場末に植えられた、誰に見られることもないツツジだ。

今が盛りと咲き誇っていても、特段珍しくもないピンクの花だ。

これをここに植えた人間は、何を思ってこんなところに植えたのか。

ツツジはここがどんな場所か意味も分からず、無駄に咲いている。

くるくる高い声で笑う、たった今出来たばかりの彼女の声が聞こえる。

出来たての彼氏は静かにそれに応えた。

真新しい彼女にせがまれて、彼の指が滑り始める。

再び奏で始めたピアノを背景に、私はまた草を摘む。

大きくて立派なジャガイモが育つようにと、願いを込めて。


だって、もうすぐ世界は滅ぶんだよ? 何したって、意味なくない?


第3話

「あ、見て!」

誰かが教室の窓から外を指さした。

一斉に振り返る。

高台の校舎から見渡せるほど遠いどこかの街で、ピンク色に輝く巨大な光の柱が立ち上っていた。

「本物、初めて見た」

「うわ、動画と一緒だね」

やがてその光は、すうっと空に消える。

あの光の柱が現れたところの、世界は消えるらしい。

「ニュースになるかな」

「どうだろうね」

何人かは、さっそくスマホで検索を始めた。

私はそんなことを全く気になんてしていない素振りをしながら、やっぱりネットに答えを探す。

その情報は、どこにも載っていなかった。

「うわ、まだどこにも出てないんだけど」

「早すぎなんじゃね、さすがに」

「そうかもな」

「写真撮っとけばよかったー」

クラスの皆はそう言った。

チャイムは鳴る。

授業は始まる。

なんてことはない、いつもの日常だ。

おかしなことがあったせいで、園芸部の観察記録の更新がまだ出来ていない。

何年か前の先輩が作ったとかいうアプリに書き込むやつだ。

誰もバージョンアップすることの出来なくなったそれを、たった一人で引き継いだ私は、世界で自分だけの知っているパスワードで開き、誰も見ていない記録を更新する。

天気予報から気温と湿度をコピペして保存すると、棒グラフと折れ線グラフまで勝手に伸びる、よく出来た仕組みだ。

無駄に能力値が高くて、誰も見ていないのに真面目に働いている。

私とは大違いだ。

昼休みになると、教室の他に行き場のない者同士で集まって弁当を食べる。

なんとなく一緒にいても、自分を邪魔だと思っていないだろう人たちだ。

人気アイドルの出演番組はチェックしている。

あの俳優とこの俳優はもちろん、アニメも漫画も漏らさない。

なぜならそれが、私たちの唯一の共通言語として認められているものだからだ。

「こないだの『クイズ・何でも初めて始めてナンバーワン!』見た?」

「見た見た! 面白かった~! 八神くん最高!」

軽やかな笑い声が辺りを包む。

あの子が好きなのはコレで、この子が好きなのはアレ。

いつも通り順番に話題を振ってから、多分満足したのは自分の立ち回り。

「じゃ、ちょっと行ってくるね」

あまり長居をしても申し訳ないので、すぐに遠慮して立ち去る。

たった一人の園芸部員であり部長という立場は、とても便利だった。

この時間にオンラインゲームのデイリーをクリアしながら草むしりをすることが、何よりも効率的だと気づいた。

放課後は早く家に帰りたいし、他の運動部と活動時間がかぶると、たまに面倒くさいことが起こったりなんかもする。

だとしたら衆人環視のきいた昼休みという環境はありがたかった。

ピアノが聞こえてきた。

あぁ、今日は昼休みも弾いているのか。

その旋律に、彼女のいい加減な鼻歌が混じる。

繊細で神経質な彼の音色は、もう聞けなくなってしまった。

スマホの音量を最大値まで上げてから、イヤホンをぶち抜く。

突然のゲーム音に驚いたピアノは、すぐに鳴り止んだ。

「すみませんでしたぁ~!」

一言謝罪を入れてから画面を飛ばす。

ざまぁみやがれ。

パンパンとカラスの墓に向かって両手を打ち合わせ、目を閉じ拝む。

なんか違うような気もするけど、気にしない。

私はもう一度満足して、その場を後にした。

その日の夜、チラリとみたスマホのネットニュース「地域」の欄に、学校の近くで光の柱が発生したと出ていた。

ヘッドラインだ。

私だってたまに気の向いたときには、それくらいのチェックはしている。

といっても、そこしか見てないんだけどね。

そんなもんでしょ。

ベッドに横になる。

朝になって、ちゃんと学校へ向かった。


第4話

朝日のまぶしい爽やかな陽気の中、菜園の前には手首が落ちていた。

それはどう見たって人間の左手首だった。

今が伸び盛りと映える小さなジャガイモ畑の前に、これほど似つかわしくないものが他にあるだろうか。

私はそれにくるりと背を向けた。

音楽室の窓をガチャリと開けようとするのが聞こえて、一目散に逃げ出す。

第一発見者にはなりたくなかった。

教室に入ると、いつも透明なクラスメイトが、さらに透過率を増したような気がする。

どうすればここに自然と馴染めるんだっけ。

目立たず騒がず平穏にやり過ごすことだけが、唯一の目的だったはずだ。

いつも以上に、今日だけは自分が限りなく透明な存在であってほしいと真剣に願う。

教室のドアが開いた。

入って来たのは色素の薄いあの彼だ。

珍しく目が合う。

明らかに私にじっと焦点を合わせてから、自分の席についた。

彼に私は見えていたのだろうか。

いつもなら気にもかけないくせに。

目にも入らない存在なのだったら、見えないままでよかった。

いつ先生に呼び出されるか、警察が来て騒ぎになるのか、ただそれだけに意識が集中していた。

胸の鼓動だけで吐き気がする。

休み時間には、仲のよいはずの友達のところに駆け寄った。

いつも以上に必死になってしゃべり、笑い、同調し、賛同する。

茶色の彼と目のあったような気もするけど、そんなものは気のせいに決まっている。

昼休みになった。

何の変わりもない日常にほっとすると同時に、多少の疑問は湧き起こる。

少し落ち着いてきた私は、いつもと変わらぬ装いで弁当を食べた。

「じゃ、菜園の水やりに行ってくるね」

とか言いながら、教室を離れ職員室に立ち寄る。

園芸部顧問の先生を訪ねるフリをして中に入った。

やっぱり先生たちには、私の姿は見えていないらしい。

ここに顧問の先生はいないことなんて、百も承知で入ってきて、その空席を見下ろした。

耳を澄ます。

聞こえてくるのは、日常と何も変わらない情報ばかり。

「今度のクラス行事の……」「生徒配布予定のこちらのお知らせなんですが……」「笠原先生もアレ食べてみたんですか? どうでした? おいしかったでしょ……」
まだ誰も気がついてないっていうの? 

あの手首は、もしかしなくてもそのまま? いまはどうなっているんだろう。

透明人間は姿が見えないので、他の人と話さなくていいのは楽だ。

ジャガイモ畑に向かう。

それは今朝と全く変わらぬ、完全に保存された状態でそこにあった。

私は安堵すると同時に、発覚の恐れが未だ続く不安にため息をつく。

だけど……。

今更これがここにあったことに、気がつきませんでしたと言い訳するには、到底無理がある。

だけど、どうやって説明する? 

学校に来たら手首が落ちてましたなんて、誰が信用する? 

しかも気づいてすぐに報告しているわけでもなく、こんなことを打ち明けられる相手なんて、世界のどこにいるんだろう。


第5話

私はホースを蛇口に繋ぎ、水をまいた。

キラキラとした水滴は、それらの上にも降りかかる。

今日はまだ出来ていなかった気温と生育状況をスマホに入力したら、更新日時から私がここにいたという確実なアリバイが出来てしまったじゃないか。

ジャガイモの緑の葉は揺れている。

それでもシラを切り通すことが出来る?

「なぁ……」

振り返ると、彼が立っていた。

白い肌に茶色い髪が光に透ける。

「それ、どうすんの?」

指を差す足元には、手首が転がっている。

どうするのかと聞かれても、どうしようもない。

「知ってたんだ」

「まぁな」

「もしかして本間くんの仕業?」

「ちげーよ!」

目の前にいる色素の薄い彼は、混乱したまま一生懸命に言葉を探している。

犯人はあんたじゃない。

知ってますよ。

あんな繊細なメロディーを神経質に弾くあなたが、こんなこと出来るわけがない。

「私だって違うし。犯人を知ってるんじゃないかって、思っただけ」

私とほとんど背の変わらない彼が、隣に並んで見下ろしている。

そっと口を開いた。

「埋める? あのカラスみたいに」

「知ってたの?」

「俺さ、音が見えるんだ」

知ってる。共感覚。感覚刺激の混線。

聞いた音に色がついて見えるらしい。

彼はごく一部の人間にみられる、特殊能力の持ち主だ。

「その音が響いている間は、耳に聞こえなくても、色でしばらくは残ってる。今朝、コレが置かれたのは、あんたが来る直前だった。あんたとは違う足音が聞こえて、何かを置いて去って行った。人の足音じゃない。たぶん猫かなにかだ。音が猫に似てたから……」

「猫?」

「たぶん」

目と目が合う。

そんなことを言われて、たとえこれが本当に猫の仕業だったとしても、もし本当にそうだったとしても、この手首の始末をどうするかには、意味がない。

緩やかに変色の始まっているそれを見下ろす。

「で、どうする?」

「埋めれば?」

私は普通にそう言い放った、真っ白な顔をのぞき込んだ。

「いろいろ巻き込まれるのも、面倒くさいし」

同意。

倉庫から熊手とスコップを取り出し、カラスの隣に穴を掘った。

校舎から騒ぎ声が聞こえてくる。

誰もが遠くの空を指し、ピンクの光がどうのこうのと騒いでいる。

私たちはその足元でこっそり穴を掘り、見知らぬ誰かの手首を埋める。

「世界、本当に滅んでんのかな」

「そんなの、確かめようがないじゃない」

そう言ったら、彼は笑った。

「だよな」

チャイムがなる。

教室に戻る。

午後からの授業はいつものようにまったりとして、いい感じにだるくって、エアコンの心地よい風がふんわりと吹き付けていた。


第6話

菜園のジャガイモは順調に育っている。

いつも自分の閲覧した1viewしかつかない園芸部のページに、誰かがやってくるようになった。

変なアカウント名を使っているから他の人には分からないだろうけど、間違いなくアイツだ。

『あの猫また来てたみたい。今度はでかいバッタだった』

『マジで』

『見てみろよ、置いてあるから』

音楽が聞こえる。

この人は校舎の壁の向こうから、見ていなくても、見えていたんだ。

彼の弾くピアノだ。

人並み外れた聴力で音を聞き取り、それを見ていた。

私が毎朝ここに来てこっそりピアノを聞いていたことを、ちゃんと知っていたんだ。

壁の向こうで、扉が開く。

「おはよう!」

始業前の密会。

出来たばかりの彼女は、彼を追いかけてここへやってくる。

私は足元の巨大なバッタを見下ろす。

それらは全てここから見えない向こう側の出来事で、どう始末しようかと考える。

ツツジの根元に並んだ穴には、なんとなく埋めたくない。

私はジャガイモ畑に穴を掘ると、そこに埋めた。

土寄せ代わりだ。

この子の死はちゃんと、ジャガイモの養分となってくれ。

カラスと人間とバッタの死。

この菜園には、秘密が詰まっている。

いや待て。

手首がちぎれたくらいでは、人は死なんだろ。

もしかしたら、どこかで生きているかもしれないし。

事件にならないってことは、交通事故とか? 

それとも、別のところに死体の本体はちゃんとあって、既に警察は身元を判明していて、ついでに犯人も捕まえちゃってて、そこにあった遺体から、猫だけが勝手に手首を持って来ちゃったとか……。

私は首を横に振った。

ピアノの音色に、高く軽やかな笑い声が混じる。

そうか、音色って「音の色」って書くな、そう言えば。

キン! 

ふいに一音、旋律に混じった。

演奏が途切れる。

約15秒の空白。

再び奏でられるそれは、やけに荒っぽくも浮かれたようにも聞こえる。

なんだ。彼女と上手くいってるんならいいんだけど、見せつけられても困る。

蛇口の水を全開放する。

緑の若葉へ盛大にまく。

それはツツジやその後ろにある、なんの木だか分からない葉にも当たって、ザザッという雨音のようなものを立てる。

それに驚いたピアノに満足すると、私は菜園を後にした。

午後からの授業はいつだって退屈で、数列とか知らないし、興味もない。

仕方なく数学Bの教科書を開く。

表紙をめくったその先に、ピアノの写真があった。

そうなんだ。ピアノって、数列だったんだ。

1オクターブ12音。弦の長さは公比1.06の等比数列なんだって。

道理でピアノなんて、ワケの分からないはずだ。

三列向こうの前方に座る、茶色い頭に目をやる。

私にはきっと、永遠に解けない謎だ。

数学なんて大嫌い。

放課後の菜園に、その人は時々やってくるようになった。

「お前、モテモテだな」

今日は一緒に熊手を持って、学校をぐるりと取り囲む高い塀に沿って穴を掘っている。


第7話

「狩りの能力高いからね。猫界のハイスペだよ」

その姿を見たことはない。

だけど本日のプレゼントは、大きなトカゲだった。

私は笑っている彼の隣で、スコップを突き立てる。

「あんたは人間界でモテてるからいいじゃない」

「え? なにそれ」

そう言って笑う。

私は立ち上がり、トカゲの尻尾の先をつまんで持ち上げた。

ブラブラとさせながらそれを穴まで運ぶと、そこへ放り込む。

「お前さ、せめて直でつかむのやめろよ」

「なんで?」

「やっぱ死体だし。なんか変な病気もってても怖いだろ」

その手で触ってビビらしてやろうかとも思ったけど、くだらないことはやめておく。

並んで手を合わせ目を閉じた。横を向いたら目が合う。

「おい、さっさと手、洗ってこいよ」

「……。わっ!」

パッと両手を広げ突き出した。

本気で驚いたらしい彼は、変な声を出して尻餅をつく。

うっかり笑ってしまった私に、この人は怒り出した。

「ふざけんなって、手ぇ洗えよ!」

触れようと手を伸ばしたら、めちゃくちゃに嫌がっている。

それがまた面白い。

「おい、ふざけてないでもう帰るぞ!」

「嫌だぁ、手ぇつないでくれないと歩けない!」

「お前、マジでやめろって」

一瞬だけの追いかけっこ。

いつも壁の向こうから聞こえる笑い声が、今はすぐ目の前にある。

ふざけた私に調子を合わせていてくれた彼が、ふっと態度を変えた。

そのタイミングは間違えない。

「あぁ、面白かった」

スコップと熊手を倉庫に片付け、手を洗う。

それでも隣で、こうして待っててくれるんだ。

ハンカチタオルで手を拭いたら、彼は先に歩き始めた。

夕暮れの遊歩道を並んで歩く。

突然の慣れない事態に、話すことが何も思い浮かばない。

こういうときにつまらない話をして、つまんない奴とか思われたくない。

いつも女友達同士でやっている得意技が、こんな時に限って使えない。

「明日の宿題って、なんかあったっけ」

「……あぁ、数B?」

「本間くんってさ、数学得意なの?」

「普通。なんで?」

「いや。私は、数列苦手だなって……」

歩道に人気はなく、恐ろしいほど静かだった。

踏みつける小石の、擦れる音まで聞こえてきそう。

何かをしゃべり始めた彼に、適当に相づちを返す。

よかった。

途切れない会話を作り出すのは得意だから平気。

向こうがしゃべってさえくれていれば、何とかなる。

駅が近づいてきた。

今日のこの偶然みたいな奇跡を、なんと呼べばいいのだろう。

「じゃ、また」

「おう」

改札で別れたけど、本当は同じ方向なんだよね。

同じホームなのに、彼の昇った階段とは別の方を昇る。

遠く離れた同じ路線で、その姿は見えなくても、そこにいると知っている。

こうやって今も同じ電車に乗っていることを、あの人は知らない。

車窓からピンクの柱が見えた。

きっと明日も、何も変わっていないだろうと思う。

電車に揺られながら、沈んでゆく夕日を見ていた。

また次の一日が始まる。

予想通り、同じ朝が来てまた同じことを繰り返している。

今朝はハイスペックな猫彼からのプレゼントは用意されていなくて、ただ校舎の壁から話し声が聞こえていた。

少なくともあいつは、毎朝私がここにいることを知っているのに、何を考えているのだろう。

恥ずかしいとか、思わないのかな。

水をまく。長さを測る。スマホで更新もする。

草むしりと虫退治は……今日は暑いから、放課後にしよう。

咲き誇っていたツツジも、終わりを迎えている。

茶色くしぼんだ花が、誰に片付けられることもなく墓の上に積もっていた。

ジャガイモの収穫ももうすぐだ。

薄紫の花びらに、黄色い花芯が鮮やかに映える。

その花は、とてもきれいだと思う。

だけど、育てるイモのために花を摘む派と摘まない派がいるのも事実で、私は何となく残しておいた、丸く球になって咲くそれをむしり取る。

花を残すか残さないかなんて、結局はその時の気分次第だ。

今朝はピアノは弾かないのかな? ツツジの落花をかき集め、抜いた草を詰めてある袋に入れた。

ジャガイモの花とツツジの花が重なって、ここでの私の仕事は終わってしまう。

校舎ではまだ、楽しいおしゃべりが続いていた。

だからどうってこともないんだけど、もうここにいる理由もない。

ひと呼吸おいてから、私は決意を固め教室へ向かった。


第8話

その日の一時間目の授業は、先生の様子がおかしかった。

二時間目の授業は代理の先生がやって来て、三時間目は自習になった。

学校で何かが起きている。

「なんか、竹山先生が消えたらしいよ」

生徒たちの間で、自由な噂が飛び交う。

「先生の住んでるマンションが、ピンクの柱に飲まれたんだって!」

四時間目は普通だった。

終業のチャイムが鳴ると同時に、茶色の彼は教室から出て行く。

どこへ行ったんだろう。

こんな時でも、あいつはピアノを弾きに行ってるのかな。

落ち着かない昼休みを過ごしている。

非常事態が起こっているというのに、教室にいないなんて。

それとも、隣のクラスの彼女のところなのかな。

こんな時に、アイツは何を考えているんだろう。

世界がもうすぐ、消えてなくなるかもしれないっていうのに。

照りつける太陽のせいで、午後を過ぎても日差しはまだ強かった。

追肥はしたし、水やりも不要。雑草も問題ないし、ピアノの音も聞こえない。

「帰るか」

何にもない放課後は、何もない私のいつもの日常だ。

帰る電車の車窓から、そのピンクの柱が現れてから消えるまでの、数秒を眺めていた。

あの光の中で何が起こっているのかなんて、知らない。

そんなことはどうだっていい。

今の私にとって大切なのは、そんなことじゃないんだ。

携帯にはSNS経由の通知が山のように入ってくる。

54件。

あの光のことで騒いでいるのなんて、ネットの中だけだ。

現にこうして電車に揺られている人たちは、外の様子に全くの興味関心はない。

見慣れた風景はガタガタと流れてゆく。

平凡すぎるその景色に、たとえ奇妙なピンクの柱が混じったとしても、この私から見る車窓の風景は変わらない。

そんな何でもないジャガイモもすくすくと育ち、収穫の時期を迎えた。

先日園芸部の無駄によく出来たアプリが、そろそろ掘れよと教えてくれたので、いつにしようかと考えている。

今は水やりにも行っていない。

土を乾かすために、音楽室横の菜園には行かない。

教室にあいつが入ってくる。遅刻ぎりぎりだ。

彼が席に着くのを待ってチャイムは鳴る。

そういえば同じクラスにいるのに、教室でちゃんとその姿を見たのは、これが初めてのような気がする。

ここでの彼はまるで別人で、私にとっての彼は、いつも人垣の向こうか壁の中の人でしかない。

ジャガイモの収穫をしないと。

カラリと晴天の続く空模様に、外を吹く風まで爽やかすぎて、この空気はまるで異世界から流れ込んできているみたい。

授業は相変わらず退屈で、先生の放つ面白くもない冗談に苦笑している。

「本間くんって、彼女できたらしいよ。隣のクラスの宮下さんだって。すごいねー」

園芸部のサイトがどんな計算で出したのか分からないけれど、算出してきた収穫日はどんどん過ぎてゆく。

青々としていた葉が、黄色く枯れ始めている。

「何がすごいの?」

「二年生になってから、何人目だっけ?」

「まだ初めてじゃない? 一年からだと……三人目?」

スマホを取り出した。

園芸部のアプリを開く。

そこへ【本日ジャガイモの収穫をします。15時開始予定】と打った。

更新して閉じる。

画面を飛ばした瞬間に、なぜか急に不安が襲ってきた。

「ちょっと、トイレ行ってくるね」

たとえ今が昼休みでも、もうジャガイモに手をかけるべき作業はない。

だから教室から逃れられない。

どうしよう。

いきなりこんなことを書き込んで、何かもっと他のやり方があったんじゃないの?

廊下に、宮下久美が歩いていた。

友達と二人、高く耳障りな声で騒いでいるのとすれ違う。

なにがおかしくて、あんなに笑っていられるのだろう。

半袖になったばかりの夏服と、一瞬目があったような気はするけど、特に仲がよいわけでも挨拶をするような間柄でもない。

白い制服の袖から細い腕が伸びる。

青いだけの空がガラス窓の向こうに広がっていた。

園芸部員は私一人しかいないからいいんだけど、顧問に一言ぐらい声をかけて、許可とっておいた方がよかった? 

一人で掘って、どれくらい時間がかかる? 

もっと大々的に宣伝して、イベントみたいにすればよかった? 

いやいや、3列5本たった15本のジャガイモだ。

そんなに時間はかからないだろう。

無理だと思ったら、1列ずつ収穫すればいい。

出来だってどうだか分からないような代物だ。

変に失敗したジャガイモを人目に晒すより、こそっと終わらせた方がいいと思う。

どうせいつだって誰も園芸部に興味はない。

何にも問題はない。

昼休みの廊下でゆっくりと手を洗い、丁寧に丁寧に手を拭いている。

ようやくチャイムが鳴った。

その鳴り終わるのを待ってから、私は教室に戻る。


第9話

放課後になった。

意味のない雑談に時間をとられたせいで、時間を気にしながら廊下を走っている。

どうせ収穫に来るのは私一人なんだから、そんなことを気にする必要もないんだけど、時間を決めたからには自分がそれを守りたい。

ようやくたどり着いた校内の片隅の、忘れ去られた菜園前で息を整える。

時間には間に合った。ジャスト15時00分。

本当は体操着に着替えたい気分だけど、着替える場所すら与えられていないのだから仕方がない。

「では、ジャガイモ収穫祭を始めます!」

一呼吸置く。

拍手しようかと思ってやめる。

両手がスコップと熊手で塞がっていたからだ。

一人しかいないし。

収穫したジャガイモを入れておく大きなざるも、倉庫から出して並べてある。

本当は洗って干しておいた方がよかったのかもしれないけど、今のこの勢いを逃したら、次はいつやる気になるのか分からないから、いいことにする。

一番端っこの株の根元を、熊手でかき分けた。

芋を傷つけないよう、少しずつ丁寧に丁寧に掘り進める。

この数ヶ月の成果が現れる、最も楽しみな瞬間だ。

「うわ。なんだよ、勝手に始めんなよ」

振り返ると、彼が立っていた。

「なんだよ、ちょっとくらい待ってくれてたっていいだろ」

隣にしゃがみ込む。

私の手から熊手を取り上げた。

「で、ここを掘ってきゃいいわけ?」

三本の鋭いかぎ爪を、ザクリと地面に突き刺す。

「ちょ、ダメだって」

大切なジャガイモを、傷つけられたらたまらない。

「もっと優しく、遠いところからそっと……」

掘り方を教えてあげる。

私は「なんで来たの?」という言葉を飲み込む。

彼は何も言わず、私の説明を聞いている。

「分かった」と答え、素直に従うその光景をとても不思議に思う。

軍手を渡したら、何の迷いもなくそれをはめた。

「うお! 出た!」

黒い土から顔を出したジャガイモが、本当に金塊のように輝いて見えるだなんて、どうかしている。

「すっげぇ、ちゃんと出来るもんなんだな!」

彼は微笑む。

そんな姿に、私の簡単な決心はあっさりと歪む。

「きょ、今日は、なんで来たの? ピアノは? 彼女はよかったの? つきあってるんじゃないの?」

「は? 別に。ジャガイモ掘ってる方が楽しいだろ。つーかいっつも思ってたんだけど、なんでジャガイモ? トマトとかキュウリの方がよくね? きれいな花とかさ。ジャガイモって、なんの趣味?」

「ピアノ、すごく上手だよね。そんなこと、今さら言われ慣れてるかもしんないけど、絶対音感とか共感覚とか、すっごい憧れる。自分の能力を生かして何か出来るって、いいよね、うらやましい。私なんてほら、何にもないから」

黄金のジャガイモは、やっぱり黄金のジャガイモだった。

「俺、そういうこと言われるの、一番嫌なんだよね」

白すぎる手が、転げ落ちたジャガイモの一つを手に取った。

「ムカつく」

「これは28g」

私はそのジャガイモを、彼の手から奪いとる。ざるに放り込んだ。

「こっちは37gで、これは12g」

地面に転がる、大きな一つを手に取った。

「67g」

「は?」

「私ね、芋の重さが分かるの。芋類限定で」

そうなのだ。

なぜだか分からないけど、さつまいも、ジャガイモ、里芋、山芋の、その4種の重さだけが、手に持っただけで正確に分かる。長さは分からない。

「なに言ってんの?」

「本当だから」

掘り出したジャガイモを手に取る。これは38g。

そうだ、収穫量の記録をつけないといけないんだった。

ノートを取り出す。スマホは土で汚したくない。

その余白部分に、一つ一つの重さを書き付ける。

「え、マジなの?」

「絶対音感とか、うらやましい」

掘った芋を左手に持つ。

右手でもいいんだけど、数字を書かなきゃいけないから、使わないだけ。

「何の役に立つと思う? この能力」

何度も何度も、自問自答を繰り返してきた。

農業関係? 芋農家? 

だけど育てるのがうまいわけでも、出来の善し悪しが分かるわけでもない。

「だからジャガイモ?」

「世界が滅ぼうとしているから。自分にも出来ること、考えてみただけ」

くだらない。

実にくだらない。

自分でも分かっている。

この無駄すぎる能力を、意味のない力を、何の役にも立ちそうにないコレを、どうすればいいんだ。

自分らしく、自分自身に出来ること? 

なにそれ。

「そっか」

「内緒にしといて」

彼は黙ってうなずいた。

黙々と芋を掘り進める。

初めて自分以外の誰かに告白した。


第10話

彼が掘り出す芋の重さを、私はノートに書き付ける。

後ろに転がされる芋を、私は一つずつ手に取る。

明らかに傷んでいるものは除外して、食べられそうなものは50g以上と以下の二つに分けてざるに入れる。

手伝ってくれる人が現れたおかげで、収穫を一日で終えてしまった。

辺りはもう、薄暗くなり始めている。

「で、掘った芋はどうすんの?」

「乾かさないといけないから……。とりあえず今日はこのまんまで」

「雨は大丈夫なの?」

「多分、降らないと思う」

「多分かよ」

彼はスマホを取り出すと、明日の天気をチェックする。

「あぁ、晴れだな」

ぐちゃぐちゃの畑はそのまんまにして、ざるだけを日の当たらないよう倉庫横に移動させた。

「片付けは明日するから」

水道の蛇口で、並んで手を洗う。

タオルを渡そうとしたら、彼はすでに自分のハンカチで手を拭いていた。

「で、掘ったジャガイモはもらえるんでしょ?」

学校を出る頃には、すっかり暗くなっていた。

沈んだばかりの空に、今日は3つの光の柱が見える。

「あげるよ、もちろん。なんか袋持って来て。同じ重さずつ入れてあげる」

目と目が合う。

この人はふっと笑った。

「役に立ってるし、お前の特殊能力」

「うれしくない」

「あはは」

本当にうれしくない。

そんな分かりやすいお世辞や慰めで、騙されるような私じゃない。

頭に血が上る。

間違いなく顔が火照っている。

変な汗が出ていて、茶色の彼が隣にいて、辺りは暗くて、本当によかった。

「な、ちょっと寄っていこうよ」

そう言って肩にかけた鞄を引かれる。

小さな古い八百屋の前で立ち止まった。

こんな店に誰が入っていくのだろうと、いつも思っていたそこに引きずり込まれていく。

彼は人参の袋を手に取った。

「これ、何グラム?」

「だから、芋類限定なんだって」

この人はまだ不思議そうな顔をしていた。

「人参は芋じゃない。根菜だけどね」

すぐ隣にあった、ジャガイモの詰められた袋を持ち上げる。

「298?」

彼は渡した袋に貼られた、値札のシールを確認している。

「当たり! こっちは?」

「……304」

そう言えば他の誰かから、こんなふうに驚きの目で見られるのも初めてかもしれない。

「すげぇ!」

すぐ次の袋に伸ばそうとした手を、引き留める。

キラキラしたその素直なまなざしが、妙にまぶしかった。

「ねぇ、もう帰ろうよ」

恥ずかしい。

でも普通に悪い気はしなかった。

店を出る。

3つあったピンクの柱は1つになっていて、乱立する駅前の看板は、もっと大事な何かを忘れさせようとしているみたい。

「俺だってさ、自分の能力を生かしきれてるわけじゃないよ」

改札をくぐる。

定期のカードがピッとなって、表示される金額が消費されていかないことに、未だに慣れない。

頭ではそれは当たり前のことなんだと分かっていても、消えていかない。

お金は電子の数字に変わって、確かに消費されているのにね。

「絶対音感って言っても、音が五線譜の音符として分かるだけだし、色になって見えるって言っても、俺からしたら……、漂う煙? ライトの光? みたいに、見えてるってだけで……」

今日は並んで階段を昇る。

ホームはいつだって混雑していた。

「絶対音感とか、共感覚とか、ピアノの上手さには関係ないよ。そりゃある意味、助けにはなってるかもしれないけどね。だけど、練習しないと上手くはならない」

ほんの少しだけ、私より目線の高い位置にある横顔と目が合う。

「だから、あんまり意味はないと思ってる。俺はね」

到着した電車からの、突風が吹き付ける。

人の流れを待って、一緒に乗り込んだ。

「て、アレ? こっちの電車でよかった?」

「うん。前に一緒だったって気づいた」

どこで降りるのかと聞かれて、正直に答える。

もうこの人には、嘘をつかなくていいような気がした。

「じゃあな」

乗り換えの駅で、先に降りるのは彼の方で、いつもどの駅で一緒になって、どこで降りていくのか、知っているけど知らなかった。

これで私はこの事実を、「知っているもの」として許される。

窓の外には、新たに現れた大きなピンクの柱が見えている。

もしあの光に飲まれた時には、とりあえずの食べ物でも確保しておこうと、勝手に始めたジャガイモ栽培だった。

バカみたいだとずっと思っていたけど、ちょっとは役に立ったのかもしれない。


第11話

翌朝、そんなことを思いながら向かった菜園跡には、私より先に彼が立っていた。

「いや、ほったらかしにして帰ったから、ジャガイモが気になっちゃって……」

手には紙袋を持っている。

「親に話したらさ、めっちゃよろこんでたよ」

「もう少し干したいから、放課後に仕分けしよう」

「うん、分かった。俺さ、実はずっと気になってたんだよね。なに植えてんだろうって。ぶっちゃけジャガイモの葉とか花とか見たことなかったし。最初に土をほじくり返してたときにさ……」

今日はピアノの練習をしなくてもいいのかな。

いつも見ていただけの白い壁に並んでもたれ、今はすぐ隣でその声を聞いている。

窓越しに聞いていたのと同じ声なのに、その距離が違うだけでこんなにも変わるものだなんて、知らなかった。

「教室、戻ろっか」

これ以上一緒にいたら、自分がおかしくなってしまいそう。

それ以上に、一緒にいるところを他の誰にも見られたくない。

そう思っているのに、コイツは靴箱まで一緒に歩き、並んで階段まで昇ったうえ、廊下まで共に歩く。

目的地は同じだからどうしても回避出来ずに、そのまま一緒に入ってしまった。

早めに切り上げたせいで、始業までまだ時間がある。

胸の鼓動が落ち着かない。

なんだかチラチラと見られているような気がする。

彼の方はいつもと変わらず、何となく男子と絡んでいるけど、私は全身を硬直させている。

「おはよ」

一番よくしゃべる女の子が声をかけてきてくれた。

ホッとすると同時に身構える。

普通に、普通にしておかなくっちゃ……。

「おはよう」

何か聞かれたら、たまたま一緒になって偶然話し始めただけで、だから同時に教室に入っただけだと、答えると決めた。

「昨日の動画配信、見た? 新曲のさぁ~……」

「あ、見た見たぁ~! すっごいカッコよかったよねぇー! アレは絶対前の……」

いつものメンバーで集まって、いつものどうでもいいおしゃべり。

私は今朝、あの本間尚也と会って、一緒にしゃべりながら教室入ったんだよ? 

ちょっとは話題にしてくれてもよくない? 

まぁ聞かれたって、まともに答えてやる気なんかないんだけどさ。

よかった。

さすがよく分かっている友よ。

触れて欲しくないところは、きちんと外してくれる。

そうだ、そうだよね。

聞きたくないよね、他人の自慢話なんか。

そうやってこっそり、悔しがっていればいい。

いつも以上に、相づちが多いような気がする。

変にテンションが高いのも気になるけど、この状態を保っていなければ、他人につけいる隙を与えるような気がしてやめられない。

チャイムが鳴った。

この音に、いったいどれだけ救われてきただろう。

学校で一番安心できる時間は、間違いなく授業中だ。

昼休みになった。

この長い難局を乗り切れば、学校が終わる。

家に帰れる。

放課後は菜園前でジャガイモをぱっぱと分けて、さっさと帰ろう。

じゃないと、また誰に何を言われるか、分かったもんじゃない。

トイレに逃げ込む。

個室から出たくはないけど、いつまでもここにいるわけにもいかない。

一息吐いて、気合いを入れる。

一直線に手洗い場に向かい、丁寧に丁寧に手を洗う。

授業再開間近の昼休みの、浮き足だったような廊下に出た。

宮下久美とはち会った。

「こんにちは」

彼女はにっこりと微笑む。

「こんにちは!」

私も負けずに笑みを返す。

「昨日、本間くんとジャガイモ掘ったんだって?」

「あ、うん!」

「そっか。本当に手伝ってあげてたんだね。役に立った? 邪魔してない?」

何をどう答えたら正解なのかが分からないから、最大限の笑顔を見せる。

私はあなたと対立しようなんて気は、一切ありません。

「あ、今日それを分けることになってるから、宮下さんも一緒に来る?」

そう言うと、彼女は少し驚いたような表情を見せた。

きっとそんな答えが返ってくるとは、思っていなかったんだろう。

「そんなにたくさんはないんだけど、でも、三人で分ける分くらいはあるから……」

「私、ポテトってあんまり好きじゃないんだよね。持って帰るのも重たいし」

彼女はにっこりと、それはそれはにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。また何かあったら誘ってね」

「うん、分かった! ごめんね」

ひらひらと振られるその手に、私は必死で振り返す。

ポテトって……、嫌いって……。

そんな奴、この世にいたのかよ。

しかし「ごめんね」って、ごめんって言っちゃう私もどうなの? 

なんかそこで、謝る必要とかあった?


第12話

放課後の校舎からは、ピアノの音は聞こえない。

園芸部倉庫の横に並んだジャガイモのざるは、完全に無傷のままで残されていた。

大きな芋の一つを手に取る。

見た目は立派でも中身はどうなっているのか、切ってみるまで分からない。

表面が最初っから割れているのなら分かりやすい。

だけど実際には、そんなものは多くない。

大きさに反して余りにも軽いものは、中が空洞だったりする。

形がいびつ過ぎるのは、皮を剥くときに切り捨てる部分が多くなるけど、食べる分には問題ない。

サイズが小さ過ぎるのも同じだ。

皮を剥く手間を考えれば、捨ててしまってもいい。

一番困るのは、見た目に全く問題はないのに、切れば中身が真っ黒に変色しているもの。

誰かにあげたはいいけど、そんな芋ばかりだったら、私はどうすればいいんだろう。

なんて言い訳をする? 

それで「そんなこと気にしてないよ」「いいよ」って言われたって、本当に「いいよ」なんて、絶対に相手は思っていないんだ。

だったらやっぱり、誰かにあげるなんてのは、リスクでしかないような気がする。

嫌な思いをさせるくらいなら、自分一人が嫌な奴のままでいい。

「おー。早いな」

その男は、脳天気ににこにことしてやって来た。

手には今朝と同じ紙袋を持っている。

「な、分けようぜ」

「中身の品質保証は出来ないからね」

「はいはい」

去年の秋頃から始まったピンクの柱現象に、食糧危機を考えたのは本当のこと。

ジャガイモを作ったのは今回が初めてで、私だって自分で作ったジャガイモを自分で食べたことはない。

勉強はした。

それなりに調べて、それなりにやってみた。

だけど、見えないし分からないものは、どうしようもないじゃないか。

「彼女に怒られた」

「彼女?」

一番大きな芋をつかんで、紙袋に放り投げる。

「勝手にいちゃついてんじゃねーよって、言われた」

「誰?」

「あんたの彼女!」

綺麗そうなジャガイモ、出来の良さそうなジャガイモ、形のよいジャガイモ。

それは全部あなたのもの。

「だから、誰!」

「なに? そんなことも分かんないの?」

大きくてきれいなジャガイモは全部入れてしまったから、もうこの話も終わり。

「嘘。なんでもない。変なこと言ってゴメン」

小さいジャガイモを全て、ざるから自分の袋に流し込む。

ボコボコの畑を元に戻して、次の栽培の準備をしないと。

袋をその場に放り投げ、大きな熊手箒を取り出す。

「なぁ」

「じゃ、もういいよ。終わったでしょ、帰って。ピアノの練習しなくていいの?」

彼は持っていた袋を、ゴトンと地面に置いた。

「やっぱいらねぇわ、コレ」

背を向けた制服の白いシャツが、校舎の角に消えてゆく。

私は竹箒を握りしめる。

大丈夫。

これでいい。

それになんの迷いや不安があるのか。

そんなことを考えている自分の方がバカだ。

真っ黒だったはずの畑の土は、所々が乾いて白っぽくなっている。

それは触れると砂の牙城のように崩れ落ちた。

穴だらけで、ボコボコのままになっている地面を見つめているそれが、突然真っ赤になった。

ピンク色の光のラインが、校庭を走る。

「え、嘘?」

空を見上げる。

まだ青いはずの空が、紫がかったピンク色に染まっている。

全身の毛穴が開くような、そんな不思議な高揚感に包まれて、心臓は大きく波打った。

「ちょ、待って……」

走り出す。

光のラインの移動速度は驚くほど早くて、全力で走っても全然追いつきそうにない。

その境界線は、あっという間に遠ざかってしまった。

視界が、世界が、全てがピンクに染まる。

「え、やだ、マジで?」

皮膚が、体が、地面が、全てが浮かび上がった。

呼吸が出来ない。

上空にはぽっかりと黒い影が渦巻いていて、何もかもが吸い込まれていく。

それはぐんぐん近づいて、やがて私は意識を失った。


第13話

気がつくとそこには、見慣れた景色が広がっていた。

いつもの学校、いつもの校舎、いつもと同じ色の空。

私は取り込まれた場所と同じ校庭に倒れていた。

辺りを見渡す。

肩に掛けられていたバスタオルが滑り落ちた。

誰がこれをかけてくれたんだろう。

どれくらい時間は経ったのか。

校舎の時計は3時20分を指している。

光に飲み込まれた時間と、ほぼ同時刻だ。

周囲からはいつもと変わらない喧噪が聞こえる。

エンジン音、クラクション、街特有のざわめき……。

なんだ。

あの光に飲み込まれたからって、何にも変わらないじゃないか。

まだ同じ場所に座り込んでいる。

体がだるくて重くて、動く気にはなれない。

自分の中にあるであろう自分の違和感を探した。

体にも気分にも、痛みや不快はない。

特にそれが見当たらないのであれば、たぶん、大丈夫。

乾ききった爽やかすぎる風が吹く。

日は少し傾き始めている。

私は何をしようとしていたんだっけ。

早く終わらせて帰ろう。

掛けられていたバスタオルには、油性ペンで大きく「保健室」と書いてあった。

それを残して行くのも申し訳ないような気がして、菜園まで持ってきてしまった。

ジャガイモを掘り起こした後の畑はボコボコで、置き去りにされた紙袋もそのままだ。

持ち上げた袋は重たくて、すぐに底が抜けてしまいそう。

それをタオルと一緒に倉庫横に並べると、土をならし始めた。

何にも変わってない。

昼間の出来事を思い出す。

ジャガイモが嫌いって、嘘だよね。

アレ絶対、私のことだよね。

彼氏だっていうことぐらい知ってるし、邪魔しようとか奪い取るとか、そんなつもりは全然ないし、大体向こうから勝手にやって来たのを、どうやって断れっていうのよ。

私が誘ったワケじゃないのに、嫌なんだったら、自分でなんとかすればいいじゃない。

彼女なんでしょ? そんなことも出来ないの?

土をならす手に力が入る。

何でもないことなのに、涙があふれる。

誰も見ていないのをいいことに、こぼれるままにしておく。

だからなんだっていうんだ。

そんなこと自分には、全く関係ないじゃない……。

遠くを走る電車の音が聞こえた。

時間の経過とともに喧噪の種類は変わる。

下校を知らせるチャイムの音。

廊下に響く足音……。

分かってる。

音は聞こえているのに、人の姿がどこにも見えない。

この世界にいま、私は一人きりだ。

完全に日は落ちた。

いつもなら用務員のおじさんが校内を回り、残っている生徒を追い出す時間なのに、誰もやってこない。

車は置いてあるのに動かない。

街の灯りはついているのに、人影はない。

教室の窓もところどころが、わずかに開いたままだ。

自分はこのまま、ずっと一人で生きていくんだし、誰とも一緒になんてならなくていいと思っていた。

だけど私の望んだ「一人」とは、こんな一人じゃなかった。

家に帰りたいとは思うけど、今のところ安全だと思われるこの校内から外に出ることが怖かった。

教室から見渡す景色は、普段と何も変わらない。

だけど、どこまでも続くこの世界の向こうには本当に何にもなくって、自分一人しかいなくて、そんな世界って、実は前と変わっていないんじゃなくて、もう終わってるんじゃないかとか、このまま本当に一人でずっといるのかとか、だとしたら自分がいまここにいる意味はなんだろうとか、そんなことがなにもかも曖昧になってくる。

どうすればいいんだろう。

あのピンクの光の柱の中って、こんなふうになってたんだ。

知らなかった。

誰も教えてくれなかった。

これは天災なの? それとも事故? 

こんなことになるくらいなら、もっとちゃんと考えておけばよかった。

なにが食料危機だ。

あんなジャガイモが少しばかりあったくらいで、何の役にも立たないじゃない。

ため息をつく。

とりあえず自分に出来ることを考えてみる。私

に出来ること? 

芋の重さが分かるくらいで、何が出来るんだろう。

あまりの無力さに、腹が立つよりも笑いがこみ上げる。

そうか、ここで死ぬのか。

どうしようもなさに、芋はあっても食欲はない。

今日はどこで寝ようかな。

保健室のベッド? 

そう考えると、学校って色々と便利に出来てるな。

見慣れているはずの、面白くもない街の夜景を眺めている。

教室の灯りはつけていないから、真っ暗なままだ。夜がこんなに長いなんて、知らなかった。

夜がこんなに寂しいだなんて、初めて思った。

夜をこんなに辛いと感じるのは、どうしてなんだろう。

どこにぶつけていいのかも分からない怒りがこみ上げてくる。

もっとちゃんとしておけばよかったとか、今を大切になんて、そんなこと言われたって分かんない。

ずっと一人で平気だろうと思っていたけど、本当に一人になるだなんて、聞いてない。

自分が何をしたいかなんて、なんにもしたいことなんか、ないって思ってたけど、本当に何をしていいのか分からないから、ずっとそう思ってただけなんだ。

今さらどうでもいいことだけど、どうでもよくなかった。

意味のないことだけど、意味はあった。

知らないことだけど、もっと前に知っとけばよかった……。



第14話

「なんだよ、こんなところにいたのか」

 その声に振り返る。

「びっくりした。急にいなくなってるから。どこ行ったのかと思った」

倉庫横に置いてきたはずのバスタオルを、すぐ横の机に置いた。

「なんでいるの?」

じっと目が合う。

彼は、ふぅとため息をついた。

「そんなの、こっちが知りたいよ」

手にはコンビニの袋を抱えている。

「ね、お腹空かない? そこのコンビニでパクってきた」

菓子パンとか惣菜とかの、飲み物が二人分しっかり詰め込まれている。

「ちょ、万引き? 勝手に取ってきちゃダメじゃない!」

「だって、誰もいないんだもん。本当に」

そういう問題じゃない。

こんな緊急事態だからって、していいこととダメなことはあると思う。

「ダメだと思う!」

「じゃ、生のジャガイモ食ってれば」

お高いアイスのパックを取り出す。

袋からはちゃんと2つあるのが透けて見えている。

私の分も取ってきてくれたんだ。

蓋を取り中のシールを剥がずと、それをスプーンですくって口に放り込む。

「マズい」

「えっ?」

「やっぱいらない。俺はこれじゃない方にする」

食べかけのアイスを差し出す。

彼の手の熱でわずかに溶け始めたそれを受け取った。

「実はもう一個もらってきたんだ」

 同じメーカーの別の味だ。

それを開けて食べる。

「うん。こっちがいい」

カップの表面が、しっとりと濡れている。

私はずっと、怖かったんだ。

彼の姿を見てほっとした瞬間、そのことに気づく。

真っ暗なままの教室は相変わらず真っ暗で、窓の外だけは誰もいない世界で、キラキラと輝いている。

「学校から外に出た?」

首を横に振った。

「そっか。この周辺、ざっと見て回ったけど、俺たち以外誰もいなかった」

甘いアイスはとろりと溶けて、喉を流れる。

「もう少し、真面目に考えた方がいいと思うよ」

「何を?」

彼は座っていた机から、ぴょんと飛び降りた。

「どこで寝る? 保健室? 校長室のソファもよさそうだったけど、用務員の宿直室にも布団はあった。干してはないけど」

校外のコンビニから持って来たその袋を私に差し出す。

「それとも、自分ちに帰ってみる?」

私はもう一度首を横に振った。

ここから離れるのも、一人になるのも怖かった。

私たちは保健室のベッドを動かし、間にカーテンを引いて眠った。


第15話

翌日は、ずっと二人で校内とその周辺を探索した。

通い慣れた学校のはずなのに、こうしてみると知らないことが多い。

さすがに見知らぬ他人の家に入るのは怖くって、コンビニとかのお店を見て回る。

世界から本当に人の姿が全て消えていて、ただ電気とガスと水道だけは通っていた。

学校の放送設備を校外に向け音量MAXで呼びかけても、何の反応もない。

「それでもスマホは通じるんだよね」

タイムラインには心配するメッセージが寄せられている。

ネットも見られる。

だけど、こちらから書き込みをして送信したのが、反映されない。

「これじゃ死んでるのと一緒じゃない」

「まだ死んではないけどね」

学校ホームページへコメントとして、私たちが校内に取り残されていることを伝えた。

それは『送信』と表示はさたものの、本当に送られたのが、誰かが見てくれたのかは分からない。

電波は繋がっていて他も問題ないのに、電話は通じない。

彼はふっと笑った。

「これじゃ閉じ込められてんのかそうじゃないのか、イマイチよく分かんないな」

「出口ってないの?」

この人のスマホを操作する手は止まらない。

口角の両端を持ち上げただけの乾いた笑みを浮かべた。

「そんなの、あればいいのにな」

その言葉と言い方とにうつむく。

「自分のは見ないの?」

「どうせ誰からもメッセ来てないから」

「へー、そうなんだ」

いま目の前にある世界は、このまま腐っていってしまうのだろうか。

やがて廃墟と化し、崩れ落ちてゆくのだろうか。

一晩経っても一度も揺れることのないスマホは、私のポケットに入っている。

「ニュースとか、全然見てなかった?」

「ちょっとはね、見てたよ」

「生還者は多いんだ。聞き取り調査は続いていて、まだ普遍的な脱出方法は確立されていないけど、物理学者たちが総出で真相解明にあたってる」

「そんな話、聞いて分かるの?」

彼は大きなため息をついた。

「分からないけど、興味はある。ネットが通じることは知られているから、もうすぐ光に飲み込まれた人専用のサイトを立ち上げて、状況把握と救援物資の転送方法を試してみるみたいだよ。それがうまくいけば、簡単に帰れるようになる」

どうもこの不安定な世界には、特異点と呼ばれるものがあるらしい。

孤立特異点と集積特異点、テイラー展開だとかローラン展開? 

留数定理などのよく分からない言葉がネットに並ぶ。

「物理、得意なんだ」

「そういう問題でもないと思うよ」

彼はようやくそれをポケットにしまうと、こっちを向いた。

「今は、今を乗り越える方法を考えよう」

「そうしたいのなら、そうしようか」

この世界に飛ばされたのが、自分一人じゃなくてよかったと思うと同時に、面倒くささもまとわりつく。

私はこのまま、何もしないで寝転がっていた方がよかったんじゃないの? 

そしたら勝手に死ぬか、そのままいつの間にか助けが来て、何でもなかったかのように、また元の生活に戻るんだ。

どうせ何にも出来ない。

「今まで通りに、戻りたい?」

そう尋ねてみたら、日に透ける薄い茶色の髪は風に揺れた。

「今はそれを考える段階ではないと思う」

これ以上余計なことを言うと、本当に怒られる。

呆れられる。

私は言葉を飲み込む。



第16話

「冷蔵庫の賞味期限が早いものからいただこう。冷凍とか保存食はあとね」

彼はそう言うと、盛大に笑った。

「たった二人で世界中の食べ物を独占してるかと思うと、凄いよな。ぜってー食べ切れねぇ」

そういうのんきな話なの? って、言おうとしてやめた。

この人のこのセリフだって、気を使ってくれているだけだ。

それまでは気がつきもしなかった、サルスベリが咲いている。

世界は区切られても時間は流れていて、あの光と同じピンクの花が咲き誇る。

「やっぱほっといたら、腐るのかな」

「それは確かみたいだね」

タイムリミットは、あるということだ。

車の鍵を盗んで運転したってよかったし、遠くに見える高級ホテルに侵入したってよかったんだ。

だけどいざ何もかも自由だと言われてしまうと、そんなことも出来なくて、結局学校の保健室で寝泊まりしている。

自分たちが取り込まれた場所から離れることも、怖かったのかもしれない。

「せっかくだし、何かしたいことある?」

彼はこんな状況にならなければ、決して向けられることのなかったであろう柔らかな笑顔を向けた。

「帰る方法を探すんじゃないの?」

「俺たちは、待つ方が正解だと思う」

「どっちだよ……」

返事はない。

本格的な夏がやってくる前の、実に爽やかな空だ。

カラリとした風が吹き抜ける。

「ねぇ、ピアノ弾いてあげよっか。なんか急に弾きたくなった。練習してないと腕も落ちるし」

結局は自分たちのクラスで過ごしている。

他にもいっぱい教室はあるのに、わざわざ階段を昇って、廊下を歩いて、自分たちの所属していた自分の机のある教室にいる。

確実に「自分のもの」だったと言えるモノと場所に、安心している。

もうこの世界は全て、他の誰のものでもなく、自分たちのものだと言っても過言ではないのに。

たった二人になった世界で、一人にされるのが怖くて、彼の後をついていく。

遠くに聞こえる物音は雑音としか表現出来ないようなものでしかなくて、無音ではないけどはっきりとした意味のある音にはならない。

音が見えるというこの人にとって、今の世界はどんな風に見えているんだろう。

音楽室の扉を開ける。

この部屋にこの人と二人で入ることになるなんて、夢にも思わなかった。

閉じられていた鍵盤の蓋が開く。

「リクエストは?」

私は公比1.06の等比数列に肘をつく。

「なんか、難しい曲」

「なにそれ」

「よく分かんない、謎な感じのがいい」

彼は少し考えてから、何かを弾き始めた。

力強いフレーズから始まり、軽やかなステップへ鮮やかに転調する。

この人は知っているけど、私は知らない曲だ。

ピアノにうつ伏せた腕からの上半身に、振動が伝わってくる。

その心地よさに目を閉じた。

「謎な感じでしょ?」

そう言って彼は微笑む。

私はじっと耳をすましている。

もしこの音楽が目に見えたら、どんな色を帯びているのだろう。

この人にもやっぱり、謎な感じに見えているのだろうか。



第17話

「私ね、本当に一人になっちゃったのかと思った」

「うん」

力強く、謎な感じの曲は続く。

「だけどそうじゃなくって、ほっとしてる」

ピアノの板から伝わる振動が、私を揺らす。

ずっとそれを感じていると、気持ちが悪くなりそう。

「一人でも全然平気だって、ずっとそう思ってたのに、そうじゃなかった」

なんでこの人がここにいるのかが分からない。

もし他の全然知らない人とかだったら、どうなっていたんだろう。

それでも私はこうやって、静かにピアノを聞いたりしていたんだろうか。

「なんか、酔ってるみたい」

頭の芯がぐらぐらしてくる。

体幹を揺らすようなめまいを感じて、パッと頭を上げた。

「違う、地震だ」

揺れが激しい。

なんだかいつもの知っている地震とは、違う感じの揺れ方だ。

怖い。

そう思った瞬間、視界はピンクに染まった。

目と目が合う。

手を伸ばしたら、信じられないくらい白い彼の手に触れた。

その瞬間、世界からピンクが消える。

窓から空を見上げたら、ピンクの境界線は私たちを追い越し、別の中心を求めぐんぐんと遠ざかってゆく。

「行こう!」

階段を一気に駆け上がった。

駆けつけた4階の教室から外を見る。

ピンクの光の柱は、近いようで遠いところにとどまり輝いている。

この世界の中にも、光の柱はあるんだ。

「どうする? 行ってみる?」

重くのしかかる頭部が、思考を奪う。

遠くの光は、すぐに空に吸い込まれて消えた。

ここでは作用時間が短いのかな。

一日24時間なのは、変わらないのかな。

何にも言わない彼の横で、私は何かを言わなければならない。

「……ねぇ、物理、得意?」

「普通」

そもそもなんで、自分がこんなことに巻き込まれてしまったんだろう。

なんで私? どうして? 

いつだって私は事件の傍観者で、主人公になったことなんてなかったのに!

うちに帰りたい。

ちゃんと普通に学校行きたい。

自分のお風呂で自分のシャンプー使って、自分のベッドで眠りたい! 

だけど、そう叫んでしまうと、私はここから離れなくてはいけなくなってしまう。

安全であると分かっているこの場所から、怖くてどうしても離れることのできない自分に、何が出来るというのだろう。

「もっとさ、スーパーヒーローみたいな能力があったらよかったのに。世界をひっくり返せるような、みんなを守れるような。ジャガイモの重さとか、そんな意味分かんない能力じゃなくってさ」

彼は少し離れた机に座る。

空はどこまでも青く高く澄みわたり、灯りをつけていない薄暗い教室からそれを見上げている。

この空が本当に、前と同じ空かどうかすら、もう確信はもてない。

「私ね、いつ死んでもいいと思ってた。ここに取り込まれる前の世界って、正直あんまり好きじゃないし。だけどね、今はなんか違うの。何がって言われても、よく分からないんだけど」

案外簡単にあっさりと、壊れるものだったんだ。

だからといって、ただそれだけのことなんだけど。

元に戻りたいかと言われればそうでもないし、どうでもいいっていうのは、本当にどうでもいいっていう意味じゃなくて、いい意味でも悪い意味でも結局は、自分のやれる程度にあるしか、仕方ないんじゃないかってこと。

ただ生きてるだけの毎日に、戻りたいとか未練があるかなんて、言われても分からない。



第18話

「あの畑に落ちてた手首ね、この世界に取り込まれて、そのまま何かの理由で死んじゃった人なんじゃないかと思ってる」

あの人は、それで自由になったのかな。

「きっと、無理だったんだよ。ただ単純に。何がいいとか、悪いとかじゃなくて」

もし本当に世界が変わるなら、変わってしまえばいいと思った。

だけどいくら「世界」は変わっても、やっぱり「私」は変わらなくて、本当に自分は全くもってどうしようもない奴なんだなって。

こんなクソみたいな世界は、いっそ壊れてしまえばいいなんて……。

「ねぇ、あの手首の本体の人って、一体どうやって手首だけをこっちに送ってきたんだと思う?」

「手首の本体の人って、なんだよ」

「猫が来たって言ってなかった?」

「見てはないけど」

プレゼントのカラスやバッタは、どこから来た? 本当に猫? 

「ねぇ、菜園見に行こう」

教室を出る。薄暗い廊下を進み、静かすぎる階段を下りた。

いつも近くて遠くに感じていた学校の雑音たちは、今は聞こえない。

校庭にかかる空は、いつだって爽やかな快晴だ。

久しぶりに見下ろした菜園は、ここだけ時間が止まっていたようだった。

掘り返され、中途半端にならされた地面と、放置されたままの熊手箒、ジャガイモの袋もそのままだ。

そのうちの一つを手に取る。

日に焼けて、変色していなければならないはずの表面が、変わっていない。

気のせいなんかじゃない。やっぱりこの空はどこかおかしい。

それは柱に取り込まれたからなのか、それとも取り込まれたと思っている前から、本当はおかしかったのか……。

「あ、学校ホームページに返信がある!」

小さな画面を二人でのぞき込む。

学校を襲った光は、同時に大量の生徒たちを取り込んでいた。

千を超える書き込みが、タイムラインに並ぶ。

「あぁ、よかった。みんな無事なのね」

姿は見えなくても、微かに音は聞こえている。

それに間違いはなかったんだ。

画面に並ぶ文字を見ているだけなのに、何かがこみ上げてくる。

「え? ここで泣くんだ」

彼は呆れたように笑った。

私は握りしめた拳を軽く腕にぶつけて抗議する。

「だから、自分のスマホも見てみろって」

垂れ落ちそうな鼻水をすすって、スマホを取り出す。

ずっと通知を切っていた。なんにもならない自分のそれが怖かった。

誰かと常に繋がっているようで、誰とも繋がっていないという事実を、知らされるのが嫌だった。

久しぶりに開いたそれには、私を心配するメッセージがちゃんと届いている。

「……よかった」

「友達からも来てた?」

「うん」

いつも学校で、弁当を食べ昼休みという時間を潰すためだけの要員と思っていた。

そう思われていると思っていたから、自分もそうであるべきだと自分で思い込ませた。

私なんかより結構みんな、意外とちゃんと生きてる。

「帰らないと」

私は絶対に、あの手首のようにはならない。

「そうだね」

「ねぇ、『複素数の集合は体を成す』って、なに?」

「俺に聞くなよ」

「数列のピアノ?」

「は?」

「この世には、まだまだ知らない世界があるってことじゃない?」

「なにそれ」

私は首を横に振る。

こぼれた涙を自分で拭う。

「理数系が得意って、知らなかったよ」

彼はため息をついた。

見つめ合い、声を出して笑う。



第19話

ネットに出回る魔方陣を書けだとか、特定のものを周囲に並べろだとか、磁場を発生させろとか、そんなものは信じない。

菜園を整備し直し、近くのホームセンターからもらってきたカンパニュラの花の種を植える。

「ねぇ、弾いてよ」

心地よい音色に耳を傾ける。

この世界にも終わりが近づいていた。

食料を調達しようと立ち寄ったコンビニのケーキにカビが生えている。

スーパーの肉や野菜も悪臭を放ち始めた。

どうして自分がこんなところにいるのか、本当に分からない。

なにがどうして自分がこんなところにいることになって、今をこうしているのか、不思議でしかたがない。

それでも自分を保っていられるのは、一人じゃなかったからだ。

どうして私がこの人と一緒なのか、それすらも分からないのに……。

ふいにピアノの音が途切れた。彼の視線は一点を見つめている。

「どうしたの?」

「ヤバい……。ヤバいのが来る!」

 突然立ち上がり、私を抱きかかえた。

「え、なに?」

「聞こえない?」

「聞こえない」

ぐっと手首をつかまれる。

「逃げよう!」

走り出す。

廊下へ飛び出し、外に出た。

私にはなんてことのないいつもの平和な校庭が、彼にはとんでもない風景として目に映っているらしい。

ただでさえ真っ白な顔をさらに蒼白にして立ちすくむ。

「見えるの?」

「見える」

突然「うわっ!」と叫び、その場にうずくまった。

風さえも吹かないこの爽やかな空の下で、この人は酷くおびえ肩をふるわせている。

「大丈夫?」

その背に触れようとして、やめた。

「怖い、よね。私には分からないけど」

泣いている男の子の顔を、初めてみたような気がする。

「ねぇ、触ってもいい?」

彼はうなずいた。そっと伸ばした指先で、その頬に触れる。

「もっと、近くに行っても?」

「いいよ」

私は自分の額を、彼の腕にあずけた。

「ゴメンね。怖いのは、私だけじゃなかった。忘れてた」

結局、世界が滅ぶとか、人類が滅亡するかもとか、そんなことよりも、今こうして隣にいる人が、何を思っているのかということの方が、きっと大切なんだろうな。

「まだ足元で、すんげー渦が巻いてる」

「見えない方が便利なことも、あるんだね」

ようやく彼は微笑んで、私たちは自然と手をつないだ。

「昔のことを思い出した。俺が変なものが見えるって騒いで、気持ち悪いって嫌がられてたこと」

突風が校庭を駆け抜ける。

「ほら、そこ。聞こえないかもしれないけど、何かの音の渦が……」

大きな地震かと思うほど、空気が揺れた。

水槽の中の水を大きく揺り動かしたかのような、抵抗しがたい空気の揺れだ。

「俺だってね、同じことずっと思ってたよ」

「なに?」

「もっと自分がマシだったらよかったって!」

彼の腕が、私の体を抱きしめた。

ピンクの光に包まれる。

足元から湧き上がるように吹き上がったそれは、みるみる辺りを飲み込む。

一瞬にして奪われた視界が元に戻った時には、いつもの学校でいつもの菜園前に立っていた。



第20話

ピンクの柱問題が過去のこととなってから、数年が過ぎた。

いまはもう、それにおびえるヒトもコトもない。

「一般相対性理論では時間を限定しておらず、反転が成り立つ。いま現代においてブラックホールの存在が認められているのならば、同じ法則に従ってホワイトホールの存在を否定することは難しい。あの現象は、一過性のホワイトホール現象が地球に近いどこかで起きた影響を受けていたのではないか。『実在する』と結論づけるための予測と実証、この実証の部分が推論の域をでない限り、この証明は難しく……」

高校卒業後、就職しようかと思っていたのに、急に大学へ行きたくなった。

どうにも分からないことをそのままにしておくのは、苦手だったらしい。

「ただ、時間は不可逆的であるという難題が未だ残されており、その点において実証実験の……」

授業とは、寝るものではなくちゃんと聞くものだと、大学へ来て初めて知ったと言ったら、高校までの先生に怒られるかな。

大学の構内は、そこだけが別世界のよう。

門をくぐれば広がる世界は、外の世界とは完全なる異世界で、先生は証明がされていないと怒られるかもしれないけど、私はこの空間だけは、外界の時間を飛び越えていると思う。

「ゴメン、待った?」

ベンチに座っていた私に、そう声をかける。

「時間が可逆的だと言われたら、どうする?」

「……。どうもしない」

「どうして?」

「『いま』しかどうせ見ていないから」

「いましか見てないの?」

そう言うと、彼はじっと見下ろした。

「『いま』における未来と過去って、言った方がいい?」

「あぁ、なるほどね。納得」

手を伸ばす。

伸ばした手はすぐに白い手に触れて、ぎゅっとつながれる。

きっとこれも、永遠に変わらない普遍の法則。

「すきにすればいいさ」

晴れ渡る青い空のまぶしさに、私は目を細めた。



【完】





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