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小説「ただれる唇」


オリジナルの短編小説です。楽しんで頂ければ幸いです。



『ただれる唇』

 我が家の幸せの上には、イグアナが一匹座っている。冷たく、醜く、不気味な生き物だ。
 紫外線ライトの下にじっとして、虚空を見つめている。餌をやればバリバリと食べるが、何を思っているのか、皆目わからない。一匹きりで寂しいのか、独り占めして嬉しいのか。
 息子が欲しいというので買い与えたが、すぐに飽きてしまった。子供というものは、いつもそうやって身勝手なものだ。手に入らないものばかり欲しがり、手に入ると簡単に捨ててしまう。
 気味が悪いので、夫に世話を頼んでみたが、面倒そうに顔を歪めて、息子にやらせろと言うばかり。そんなに言うなら、あなたから言って欲しいと頼んでみたが、忙しいの一言で一蹴された。しまいには、捨ててしまえなどと言い出す。息子は学校から帰るなり、すぐさま遊びに出かけるか、子供部屋にこもってしまう。そうして、我が家の無情は結局、私が引き受けることになる。いつものことだ。イグアナは、いわば我が家の幸せのはざまに捨てられていた。
 夫の帰りはいつも遅い。何をしているのだろう、と思う。新調したヘアワックス、妙に洒落だしたネクタイ、ワイシャツに香る微かな甘い匂い。しかし、息子の顔がよぎると、開きかけた口からはどんな言葉も出てこなかった。
 イグアナの水槽は、リビングの一角を陣取っていた。
 イグアナの瞬きをしない目は、幸せの海の中でひたすら息を殺している我が家の食卓を毎日眺めている。誰かが口を開けば、みんなが溺れてしまうことは目に見えていた。温かいダイニングライトに照らされて、美味しそうに湯気を立てる食事を、夫婦揃って慎重に口に運び、淀んでいる幸せをどうにか味わおうとしている。そんな気配を察してか、息子はそそくさと食事を胃に流し込み、目も合わせずに部屋に帰っていく。
 倦んだ日差しが差し込む昼下がり、ゆがんだ流木の上に、イグアナは身動ぎもせずにいた。自分の身の上を憂いているのだろうか、と考えてみるが、そんなふうにも思えない。疲れた顔をして見つめる馬鹿な女を、傍目に嘲っているようにも見える。
 掃除機の騒音にも動じず、イグアナは虚空を見つめ続けている。そこには何の欲求もないように見える。一人では寂しいとか、水槽に閉じ込められて窮屈だとか、そんな感情の陰りすら感じさせない。こちらはそんな欲求に右往左往しているというのに、それは超然として、気取りすましている。
 感情もない生き物。そうだとしても、哀れみを持ってやらなければならない。たとえ自分の不幸を嘆くための心すら持ち合わせていないような生き物でも、生かしてやらなければならない。
 そんな一心で、切れ端のほうれん草やらレタスやらを入れた容器を持って、気味の悪い水槽に近づいた。ジーというヒーターの低い機械音が、まるでイグアナの鳴き声のように聞こえる。生き物めいた温かみも感じられないが、乾いた草の匂いに混じるわずかなアンモニア臭が、たしかに生きているらしい面倒さを指している。水槽のほんのりぬくいのが、まるで命を持つべきでないものに命を与えてしまっているようで、気持ちが悪い。
 そんなふうに生かされている生き物は、私の哀れみを特段喜ぶわけでもなく、与えられたエサを当然のように噛み砕き、飲み下していく。感情のない表情が、余計に不気味さを醸し出す。
 どこまでも暗いブラックホールを覗き込むようで、なけなしの愛情を投げ込むことすら虚しくなってくる。心を持たないものを前に、どれだけ心を尽くしてみたって、無意味だ。それなのに私は、何をしているんだろう?
 ただただ家族の平和のために沈黙して苦しむ私を、無情を前にしてさえ動じないイグアナはきっと笑っている。感情がないならば、きっと痛みも苦しみもないのだろう。痛みも苦しみもないなら、それはもしかして幸せなのじゃないか。イグアナは、突きつけられた不幸の中でさえ、幸せなのかもしれない。
 急に、そんなものの幸せを気遣っていることがすごく愚かしく思えた。
 イグアナがチラリとこちらを見た。エサの催促だろうか。その食欲まじりの視線に、にわかな生き物らしさを感じて、手を伸ばしてみる。
「なんだ、さっきのは嘘よ」
 優しい声で話しかけてみるが、指先は震える。イグアナはじっと動かない。それでも愛情を持たなくてはいけない。ともに狭間に閉じめられてしまったもの同士、愛情を持って生きていくしかないのだから。
 じっと見つめる目が怖くて、あえてなんでもないような顔で笑って見せた。すると、イグアナはいきなり身をよじって、手に噛み付いた。 
 痛いと悲鳴を上げ、慌てて手を引っ込める。持っていたエサ入れを落としてしまい、野菜が床に散らばる。親指の腹から血が滲む。脅しでなく、噛みちぎってやろうという気概に恐ろしくなった。むき出しの命そのものの敵意に、背筋が冷たくなる。
 床に落ちる野菜を茫然と眺める。必死に取り繕っていたものの綻びを見せられた気がして、心のどこかでシャッターの落ちる音がした。憎しみというより、もっと冷たいイグアナの血のような何か。
 野菜を片付け、ゴミ箱に捨てる。親指の痛みで、なぜか涙が出てきた。涙がゴミ箱に落ちていく。涙というよりは、目から落ちるただの水のようで、ただ指先の痛みだけが痛みらしい痛みとして感じられた。ため息のように息を吐いて、深く吸い込む。息を吐くときに、もう一筋の塩水が伝って、もう一度ゴミ箱へ落ちる。
 指が、痛い。
 絆創膏を引き出しから取り出す。指の傷のイグアナの歯形になっているのを眺めてみた。それは、敵意と憎しみの形をしていた。見せかけの愛をすべて見透かしたように、そんな偽善を責めるかのような痛み。与えられる偽物の愛情をひと思い噛み切って捨てようとしてしまえる威勢の良さに、どこか妬ましさの泡のようなものが胸の奥からふつふつと沸き立った。
 傷ついた指を口に含みながら、餌の容器を洗って、戸棚にしまう。どうしてだか、ふと笑みがこぼれた。
 その日の夕食は、いつもより息をするのが楽だった。なにか心がうきうきしていて、そんなのはずいぶん久しぶりだった。
「今日はどうだった? 楽しかった、学校は?」
 好物の唐揚げを息子に取り分けてやりながら、思わずそんな言葉が出た。息子は、え、と声を上げて、黙り込む。夫が隣で息を飲む音が聞こえるような気がした。
「いつも通りだよ」
 しばらくしてから、息子はそう答える。そして、いつも通り、勢いよく食事をかき込む。付け合わせに用意したレタスの葉を噛みながら、そんな様子を眺めていた。
「おかわりはいる?」
「いらない」
 なにかを振り払おうとするように、息子は何度も首を振って、逃げるように部屋に戻った。
 夫と二人きりで残された食卓で、のんびり食事を味わう。夫はレタスを残して唐揚げばかりを食べ、私は残ったレタスばかりを食べた。
「ねえ、野菜も食べなくちゃ」
 伏し目がちに黙々と咀嚼する夫は、言葉もないまま、小さな葉っぱの切れ端を箸で取り上げた。そんな子供のようなやり口に、微笑みが浮かぶ。夫はそのレタスを飲み下すと、箸を置いて席を立った。食事はまだ残っている。
「今日は、ちょっと」
 私が問うように見つめていると、夫は食卓に目を落としたまま言った。続きはなかった。続きを聞いてみたい気分でもなくて、そうなの、とだけ返事をすると、夫は静かに寝室に消えていった。
 誰もいなくなったダイニングで深く息を吸い込む。視界の端に、リビングの向こうにある水槽がかすめる。静かに息を吐いて、イグアナの方を見ると、それは水を飲んでいた。ピチャピチャという音。
 食卓のレタスは一枚残らず食べてしまった。仕方がない。悪意もない。なぜなら、私も食べなくては生きていられないのだから。
 次の日も、その次の日も、野菜は一つも残らなかった。わざとではなく、ただ偶然に。取り繕いの海を泳ぐのに、葉物の野菜を咀嚼する音は心地が良いのだから。
 イグアナはますます動かなくなり、以前の太々しさがいくらか和らいでいくようだった。
 食卓では、息子がたまに私に合わせて会話するようになった。新しい習慣に慣れてしまえば、彼も生き生きと話し始め、笑うことが増えた。その笑い声につられて、夫もたまに少しだけ視線を上げ、口の端を上げて微笑んだ。
 会話の途切れる合間にふと目をやると、イグアナはいつもと変わらぬ格好で落ち着き払って、窓の外を眺めていた。外は真っ暗闇なのに、なにが見えているのだろうか。
 いくらか艶やかさを失って、少々深い緑色になったシワまみれのイグアナが外を眺める様子は、まるで老いぼれた年寄りが惨めっぽく昔を懐かしみながら今を忌んで、黄昏ているように見えた。そうやって、今あるものから簡単に逃げおおせてしまえる態度が気に入らなくて、冷淡さが胸をなぞった。食卓の方へ目をやると、息子は満足げにハンバーグを頬張り、夫は退屈そうに皿の上を切り分けている。
 これでいい、と思えた。不幸と呼べるような何かはどこにも見当たらない。何もかも上手く行っていると、ひとり呟いてみることもできる。
 忙しさに追い立てられる午後、水槽のある窓辺の埃を払おうとしたとき、イグアナの口がただれているのに気づいた。生きる苦さを味わうあまりにただれたようなその傷は、慌ただしく追い立てられる心に優しく触れた。捨てられている惨めさにやっと気づき始めたしるしのように思えて、胸のすく思いがした。水槽の向こうから他人事のようにこちらを眺めて、取り澄ましていたものを引きずり下ろして、同じ景色を見せてやるのは思うより気分が良かった。これでやっと、私たちは本当の仲間になれる。イグアナは感情のない目で私を見上げた。
 同情を誘おうとしているのだろうか。それとも、こんな私を哀れんでいるのだろうか。どちらにしろ、そんな気味の悪い目で見つめられるのは気分が悪かった。水槽を注意深く避けながら素早く掃除を終わらせて、そのあとは、雑事の中で全てを忘れられた。
 いつものように夕方の買い出しから帰って、食事の支度をしていた。今夜はとんかつにするつもりでキャベツを千切りにしているときに、目の端にゴソゴソと動く気配を捉えた。手を止めて目をあげると、枯れ枝のようになった動くものが何かを食べているようだった。
 剥げかけた皮を体にまとわりつかせたまま干からびた姿は見るのも不愉快だったが、それでも目を凝らしてみると、それは汚れにまみれた自分の尻尾を噛んでいた。瞬間、背筋が凍って、自分の足元がわからなくなった。
「うわ、気持ちわる」
 言葉も失っていた横から、息子の声がした。彼はちょうどリビングに入ってきていて、キッチンに立っている私の視線を察したようだった。
「それなら、捨ててしまいなさい」
 口をついて出た言葉を待っていたように、息子は返事もしないで、くすんだ黄緑色のボロ布をまとっている枯れ草のようなものをつまんで、小さなダンボール箱に入れた。それはまるで清掃人の仕事のようで、傍で見ているのは気持ちよく、頭を悩ませる厄介事からようやく解放されていくようだった。
 息子はそのまま玄関を出て行った。どこへ行くつもりなのか知らないが、尋ねるつもりもなかった。
 なにもいなくなった水槽は平然と静まり返っている。なくなってみて初めて、生き物の気配がそこにずっとあったことを知った。
 寂しいという気分にとても近いものを感じて、混乱したまま手を止めていた。
 頭を悩ませていたものがひとつ片付いて、ほっとしている。これからは、もうあんなうす気味悪い生き物のことを考えずにすむのだから。けれど、もう考えずにすむというそのことが、胸にぽっかりと穴を空けていた。その穴を埋めるべきもののことを考えると、わずかに胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる気がした。料理に戻ろうとしてうつむくと、なぜだかまばたきと共に、水滴が一粒落ちた。
 涙だ、私は泣いているんだ、と思いながら、一体なにを悲しんでいるのかうまく言い当てることができなくて、その得体の知れない悲しみごとキャベツをざくざくと切りきざんでいった。


 くたびれたダンボール箱を見つけたのは、もう閉店にするつもりでドアの札を裏返すときだった。箱を見た瞬間、捨てられた生き物だとすぐに分かった。この商売をしていると、こんなことがたまにある。せめてもの罪滅ぼしのつもりなのか、飼いきれなくなったペットをペットショップの前に捨てていく。
 怒りとやるせなさと、そんなことにも慣れてしまった諦めを抱えて、箱を開けてみると、垢にまみれた青白い顔のイグアナが寂しさと悲しさに口元を歪めていた。
 どうしてこんなになるまで、と置いて行った誰かを責めてしまいたくなる気持ちを抑えて、急いで懇意にしている動物病院に電話をした。すぐに診てもらえるというので、車に飛び乗り、いつもの道を走った。信号待ちのたび、助手席においたイグアナに、大丈夫、すぐだよ、と話しかけながら、箱を優しく撫でる。
 痛ましいイグアナの姿をみると、病院のスタッフは一様に眉をひそめた。すぐさま診察室に通してもらう。獣医は手際良くイグアナを調べ、血液検査とレントゲンも撮ってくれた。温かく湿らせた布で、脱皮し損なった皮を汚れと共に丁寧に取り除く。イグアナは抵抗しないで、じっとしていた。そんな気力もないというふうにぐったりしている。
「栄養失調のほかは、特に大きな問題はないみたいですね」
 獣医は、出てきた結果とレントゲン写真を交互に見比べて言う。注射器のようなもので栄養剤を口に含ませると、イグアナはゆっくり舐め始めた。
「これは、ストレスかな」
 イグアナの尻尾の噛み傷を眺めた獣医が言うのを聞いて、やっぱりそうか、と思った。
「口の周りがただれてみえるのは、心配ないですよ。よく日に当てて、エサに気をつけてあげて下さい」
 そうですか、と答えて、二人で黙り込んだ。イグアナがペチャペチャと注射器を舐める音に耳を澄ませる。おそらく何度も繰り返しただろう、イグアナの飼育法の説明を獣医は半ば機械的に話した。聞くまでもないことだったが、それは儀式のようなものだった。処置が終わると、こざっぱりしたイグアナを抱えて、お礼を言って病院を後にした。処方された栄養剤の袋を、ダンボールと座席の間に挟み込み、店に戻った。
 戻るなり、早速、大きめの水槽を用意した。せめてここでは幸せになってほしくて、できることは最高のことをしてやろうと思った。ものを言えない生き物の哀れさを思うと、いつもやるせない気分になる。この無責任と無関心の罪を誰に問うたらいいのだろうか。こんな残酷な仕打ちのできる心の持ち主は一体どんな顔をしているのかと、怒りで苛立っていくままに、手早く水槽の中を居心地の良いように整える。清潔な水入れを置いて、いくらかの種類の野菜と人工餌に栄養剤を混ぜたものをエサ皿に入れる。青々としてハリのある植物の葉で、隠れるのに丁度いい木陰を作る。手ごろな太い枝を何本か組み合わせて、緩やかな勾配も作った。傷のある尻尾には触れないように、そっとエサ皿の前にイグアナを放してやった。
 彼はじっと体を強張らせて、注意深げにあたりをうかがっている。その警戒心がゆっくりとけていくように、しばらくそのままで放っておくことにして、店の雑用に取り掛かった。頭の片隅では、ずっとイグアナのことを考えていた。その怒りのことを。苛立つあまり、時折、手元が狂って、ものをひっくり返して倒したりした。仕事が増えて、さらに苛立つ。生き物を、命を、一体なんだと思っているのか、と誰かを問い詰めたくなる時がある。自分自身、それを飯の種にしているのだが、気休めにもてあそばれる彼らの犠牲の上に稼いでいるのかもしれないと思うと、切なくも苛立ちは収まらなかった。
 そんなことを言っているから、いつまでも儲からない。もっとビジネスに集中するべきだ、と頭の中で声がする。その通りだ、と思う。きちんと稼げなければ、今ここにいる生き物たちさえも路頭に迷うことになる。そうしないためには、どこかで割り切ってしまわなければいけないことはわかっている。
 気に入った一匹を購入していく幸せそうな顧客のことを疑いたくはないし、そうやって引き取られたものの多くは幸せに暮らしているのだろうと信じている。そんな幸せの手伝いができる仕事を愛してもいる。しかし、無残に捨てられるものに出会うたび、自分のしていることは正しいのだろうかと思うのをやめられなかった。
 そんなふうだから、だんだんと顧客へのやかましい忠告が増え、新しい出会いに弾んでいるせっかくの心にいらぬ水をさす、気難しい店主になっていく。
 大型のペットショップのように、余計なことは言わず、次々と新しいペットを仕入れて勧めていく方が、きっと効率がいいに違いないと考えながら、そこまでできるほどの器用さは持っていなかった。
 そして、そんな自分の面倒臭さすら今では奇怪なプライドに変わり、儲けにならない仕事ばかりを増やす偏屈者になっていく。自嘲気味に口を歪ませて、例のイグアナの様子を見にいった。
 彼は温かいライトのもとで、のんびりとくつろいでいた。入れておいたエサがなくなっている。そんな姿を見ていると、ささくれだった心が和み、愛おしさが湧いてくるのを感じた。もう大丈夫だ、心配はなにもいらない、と目を細めて彼を見た。
 店舗の電気を消すと、親しみ深い低い機械音と生き物たちの息遣いが暗闇に満ちた。
 


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