ニコイチになりたかった私が大人になって。
「ニコイチ」という言葉をご存知だろうか。
2000年前後に流行した若者言葉で、「親友」という意味だ。現代の若者言葉では「ズッ友」に置き替わったらしい(知らなかった)。
この流行期に中高生時代を過ごす若者であった私は、その流行の前からずっと「ニコイチ」になれる友人を求めていた。
友人が全くいなかったわけではない。仲間はずれや、いじめを受けていたわけでもない。
ただ、一人でいられるほどの強さが幼い私にはなかった。
唯一無二の相手を求めて
「ニコイチ」候補は各時代にそれぞれ存在した。
幼稚園から小学校低学年の間、同じマンションに住んでいた子。小学校高学年では、同じ習い事に通った子。中学のときは同じ部活だった子。高校時代は同じクラスの子。浪人生で同じ志望校だった子。
皆とても気が合って、青春時代を共に過ごした。時間の長さで言えば確実に「ニコイチ」だったと思う。
でも今、連絡を取れる子は一人もいない。正確に言えば、ゆるくSNS経由でつながっている子もいるが、連絡はしない。
あんなに気を許して長い時間を過ごしたのに、もうそれは遠い過去だ。お互いに逐一、近況を報告するような関係ではなくなった。
特に喧嘩や転居など疎遠になる出来事があったわけではない。
気付いたら、どちらからともなく離れていた。
いまだにつながる友人たちは
昔の友人知人の縁が全て切れているかというと、そうではない。
当時、そこまで仲がいいわけではなかった友人の方が今でも定期的な交流は続いている。
「絶対に仲良くなれないだろうな。少し苦手かも」
出会った当時、そう感じた人ほどゆるく長くつながれている。
お互いへの期待値が低く、価値観や行動のすり合わせや押し付けが不要だから、結局長く交流は続いていく。
思い返せば「ニコイチ」候補とはお互いに意見の一致ばかり求めていた。合言葉は「それ、わかるー!」だった。
あの頃の私は人と違うことがとてつもなく不安だったのだ。そして同じくらい窮屈さも感じていた。
この窮屈さを自覚してある意味、諦められたのが一気に世界が広がった大学時代だったのだろう。私はこの頃から「ニコイチ」を求めなくなった。
どこかで元気で過ごしていてほしい
大人になった私は、転居を頻繁に伴うライフスタイルに居心地の良さを感じている。ネット社会でのゆるいつながりも気が楽でいい。
孤独を自分の中に抱えながら他人と交われる強さを、いつの間にか手に入れたのだろう。
今でも「ニコイチ」関係にある友人同士は存在する。
彼女たちはそれぞれに家庭を持った今も家族同士で交流して、SNSにはその写真が幾度となくシェアされる。
その投稿を見ると「ニコイチ」候補だった旧友たちに思いを馳せる。
「あの子、どうしているだろう」
一時期の仲の良さに嘘はない。ただその景色を懐かしく思い出す。
そして、ただどこかで元気に生きていてくれればいいな、と祈るような気持ちになる。
「ニコイチ」ではない「イチイチ」へ
これから先の人生では、老いを感じるにつれ、唐突に今までにない寂しさを感じることもあるだろう。
中高年を迎えると同窓会が活発になったり、地域に固定化されたつながりも増えたり。
そんな流れに飲み込まれていく自分の姿が思い浮かぶ。それもそれできっと楽しいと思う。
でも同一性にしがみつく自分ではなく、たとえ旧友であっても出会い直せる自分でいたい。
「あなたと私は違う人」
その前提に立った「イチイチ」の関係を築きたいなと思うのだ。
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