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人生の再出発。わたしが「耳のマッサージ屋さん」になった話

こんにちは。イヤーセラピストの大串けいです。

いや、何その肩書、とあなたは思ったと思います。わたしも、そうでした。

半年前のわたしはまさか自分が「イヤーセラピスト」なる肩書を名乗っていることも、東京の恵比寿にあるイヤーエステサロンで働いていることも全く想像していませんでした。

このnoteでは、子どもを産んで4年のわたしが「自分の仕事に出会う」お話をしていきたいと思います。自分の備忘録のためにも。自分にしては長文です。

はじめに

まずはわたしの経歴、というか、わたしという人間についてお話します。2020年、今のわたしは29歳。今年で30歳になります。子どもの頃に感じた30歳はもっとしっかりと地に足ついていて、働くなら企業に勤めてバリキャリだったり、スーパー専業主婦になってるんじゃないかなと思っていましたがそんなことはなく就職も経験せず、ふわふわと生きています。

20代の自分が目指したもの

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喘息持ち、体力なし。学校から帰ってくるとぐったりしていた小学生時代。アニメやゲーム、漫画が大好きな今でいう陰キャ。当時ですと地味~ズ(笑)という括りに分類されていた無気力系人間でした。その頃の将来の夢はゲームの影響を受けて「牧場主」(牧場物語が大好きな小学生でした)

そんな陰キャはいつしか堅実なお仕事をしようと公務員、教職関係のお仕事に就こうと考えていましたが何を間違えたのか高校卒業を機に「俳優」を目指していました。勉強は嫌いではありませんでしたが大学の4年間、という時間が何故か惜しく感じ、高校時代に数合わせのために入部した演劇部が非常に楽しい経験となったことで演劇を学ぶ専門学校に入っていました。本当に楽しかったんです。それ以前の記憶がかすむくらいには。

演劇を学び始めたころから、元気のない無気力系だったわたしにいつの間にか「元気キャラ」が定着していきました。自分の観ていた演劇の影響なのかなんなのか、自分の中に持っていたらしいエネルギーを出せるようになりました。それがまた楽しくてハマってしまったのでしょう。

今思うと学歴はこの現代社会では非常に重要視されるのでちゃんと大学へ行ってくれ自分、とたまに愚かさに笑ってしまうこともあります。無謀な挑戦を許してくれた両親、ほんとありがとう。

演劇を学ぶ学校を経て、わりと老舗の劇団の研究所に入りました。いや、結局4年近く勉強してるやん!と思いつつ例えば大学卒業してから同じようにしていたらもっと歳を取っていると思うので結果オーライです。でも若いだけがいいとも言い難いのが芝居の世界。歳を取ってからの挑戦はそれはそれでありだったかもと思います。シルバー世代の芝居はめちゃくちゃ味があって面白いのです。

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漁ったら出てきた懐かしの卒業公演の写真。「十二夜」という作品で男装のお姫様をやっておりました。

学校や研究所にいる中で自分は沢山の経験を積みました。沢山の台本を演じ、舞台を作り、オーディションに挑んだり…

女らしい、ということがあまり好きではなかったのでスポーツ刈りにせよ、と演出家から指令が出ればその当日にバリカンで刈り込むぐらいは当然のようにやっている、そんな日々でした。

研究所からその劇団の所属になるまでには非常に狭き門をくぐらねばなりません。わたしはその選考には残れませんでした。3年間をそこに賭けていましたが花開く人はごく僅かなのです。そして劇団に所属することがゴールなのではなく、そこからがスタートなんですね。わたしは世間の荒波に放り出されました。そして自分の世間知らず具合を知りました。

俳優として世間に売れていくのには映画やドラマなど映像系の仕事が必須です。でもわたしはあまり映像のお仕事は好きになれませんでした。なんでなのかなぁ、と今でも考えますがまずは顔に自信がなかった!致命的ですね。もともと美人で売るつもりは毛頭なく個性派女優(笑)を狙っていたのですが自分が凡庸な顔立ちであり、毛穴まで見れるようになったテレビの映像に映る自分に面白みを感じませんでした。そして映像の芝居というのはカットが細かく区切られます。舞台のようにずっと芝居を続けられない事が好きになれなかったのも理由のひとつなのだと思います。その中で名演技をされている映像界でご活躍の方々は本当にすごいと尊敬します。

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さて映像が苦手なわたしは事務所に所属することなくフリーの俳優として生きていこうとしていました。そんなわたしを拾ってくれたのが今は休眠中の団体チャコールモンキーです。今の夫ともそこで出会いました。夫が主宰を務めるパフォーマンス集団に自分を役立ててもらおうと老舗劇団で学んだことや感覚を注ぎこみました。メンバーはそれぞれとても良い人たちで大好きでしたがなかなか足並みが揃わず一人また一人と去っていきましたし、去ってもらったりしていました。

わたしはイケイケどんどんで仕事を進めていきたい人間でした。自分が投げかけた質問への返答が遅かったり見当違いだったりするとめちゃくちゃ腹が立ってしまうようなわりと仕事できる系だけどのんびりやっていきたい人とは速度感を合わせてあげられないタイプだったので面倒な新人だったんだろうなと思います。夫はわたしが団体の運営にまわったらよさそうだぞと思ってたくさん任せてもらいましたが最終的には周りに人がいなくなりました。申し訳ない限りです。

演劇を仕事にしていくことの難しさ

演劇をつくるのは非常に楽しいです。しかしそれがお金に繋がる団体というのはほんの一握りです。やりたいことをやってるからお金にならなくていじゃない、そんなこともよく言われます。しかしそれで職業に「俳優」と書いていいのでしょうか。俳優をやりながらアルバイトをしている、そのアルバイトの方が収入が上回るのです。というかそうじゃないとやっていけないことが本当に多いのです。

ある公演での出演料は「チケット販売人数×500円」です。大体ノルマを課せられるのが30枚程度。しっかりとした出演料を頂けるのも助成金が必須です。ここに稽古の期間の稽古代、食費、交通費は入っていません。稽古は長いところで1か月。大体稽古場にいるようになるのでバイトもできません。もちろんこんな悪条件じゃない団体もたくさんあると思いますが、こんな条件で公演をうつ団体は星の数ほどあります。

それでもやっていた時代もありました。それが普通だと思ってました。その制度を利用して自分たちの団体でも出演をお願いしていたこともあります。今となっては書いてて震えるくらいの金銭感覚です。これでどうやって生活するのでしょうか。今は良くてもこの先は?売れていくための施策をどんどんやらなくては…


そんな中、まさかの妊娠です。

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お分かりいただけましたでしょうか。大学へ行ってない、はたまた就職もしたことがない。しかもバイトもあまりしないので貯金もない。そんな「フリーター俳優ママ」が爆誕いたしました。恐ろしい限りです。

順番を明らかに間違えましたが劇団関係者が結婚をするのにはもうこれしかないんじゃないかくらいには思います。収入も安定しないのでいざ結婚!と踏み切るのがなかなか難しい世界ではあります。文章だけ読むと超破天荒すぎる娘の結婚、出産を許してくれた両親は仏なのではないかと思います。


妊娠して、私の唯一だった楽しみの「舞台に出る・関わる」という行為が悉く奪われました。母体を大事にということでの降板が続き、多くのご迷惑をお掛けしたなと思いながら当時は超荒れてました。ホルモンバランスの乱れもあると思いますが、本当に悔しくて暴れていました。いやぁ、あれは酷かった。なぜかというと自分自身のアイデンティティを喪失した感覚、といえばいいのでしょうか。舞台に命を懸けていた自分が妊娠をしたことによって舞台から引きずり下ろされてしまったのです。「もう一人の体じゃないんだから」当たり前といえば当たり前ですがその言葉がとても辛い日々でした。

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泣いて暮らしていた日々が続きましたが、いつの間にか、舞台にすがりついている場合じゃない。と腹を括っていました。自分を主体として考えていたところから徐々に親になっていく過程が妊娠期間にはある気がします。心が強制的に大人になる瞬間というか、自分の身体とお腹の中の子どもは待ったなしで変化していくので変わらざるを得なくなります。そこが上手く変化できない人もいるのでしょう。

子どもを産むと強くなる

よく聞く言葉ですが実際そうだなと思うことは多々あります。

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初めての子育てが当然ながら手探りです。幸い、我が家の息子は非常に穏やかで多分過去に人間として何回か生きているんじゃないかなと思うような大人にまで気をつかえる子なので育てやすい子です。4歳にしてやんちゃ坊主が出てきたような気もします。遊びの中で「チャンネル登録お願いします☆」というワードが出てきてヒヤリとすることもしばしば。

子どもを産んでからも自分の所属する団体では本公演を打ちました。自分はスタッフとして抱っこ紐で子どもを抱えながら仕事をしました。子どもからもらったウィルス性の腸炎で高熱が出て歩行不能になりながらもママチャリを爆走させて病院へ行ったりもしました。

結婚を機にアルバイトも辞めてしまった無職のわたしが日中働くためには保育園に子どもを預ける必要がありました。今の日本の制度だと切ないを超えて面白くなってきますが、働き先を探すために子どもを預けたい→子供を預けたかったら仕事してね→いや、だからその仕事探したいんですけど…という負のループがあります。この問答、子どもを産みたてのボロボロの精神にはなかなか響くんですよね。保育園に入れるかどうか、というのも得点制です。フルタイムで働いている人が満点扱いなので仕事を辞めて働いていない自分の点数って最低得点なんですよ。めっちゃ悲しくなります。そこで市の職員の人に文句を言ってもどうにもならないので、授乳期間が終わったらすぐに深夜のカラオケ店で働いて勤務実績を作りました。夜しっかりと寝てくれ、昼間に私が寝ていても静かに遊んでくれる我が子だからできました。

夫も今まで最小限の稼ぎで芝居を作っていたので、派遣の仕事を頑張りましたがまさかの派遣切りにあい、やったこともないネットスーパーの配達員として朝から晩まで働きました。この仕事が猛烈に大変だったようです。

夫氏、フリーランスのクリエイターになる

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だんだんと表現することから夫婦共に気力と体力的な問題で離れていた2年ほどでしたが夫の背中がだんだんと小さくなってきたような、そんな気がしてきました。実際の見た目としては重い荷物を運んでいるのでどんどん分厚くなっていたのにも関わらず、です。

日々生きるために働き、夫は家族を生かすためにしんどい仕事を続けてくれました。今までアーティストとして作品を作り続けていた夫も心の底では「何かを作らなくちゃ」と焦っていたのでしょう。でも体力的に思考がそこまで届かないジレンマに襲われていました。わたしは夫に作品を作り続けてほしいと思っていて、仕事終わりに何か作品は作らないのか?という問いかけをすることがよくありましたが、あの時の夫には非常に重荷になっていたのではないかと思います。

そんなこともあり、夫に当時の仕事を辞めてもらうことにしました。

我が家の収入の9割強を夫が担っていましたが、その頃たまたま知り合いのバンドのミュージックビデオの撮影や演劇を使ってやってみたい仕事、デザインの仕事などが重なり通常の仕事との同時並行が難しくなってきたので思い切って配送の仕事は辞めてもらいました。作品をつくることに集中できるようになった夫はみるみる内に元気になったように感じます。あの頃の夫に仕事を与えてくださった方々、そして今もなお仕事をくださる方々には足を向けて寝ることはできません。

大きな決断をしたからなのか、そのあとすぐ息子の保育園も決まりました。

いや、私がぐぎぎぎぎぎと嫌な思いをしながら申請書類を出したからこそ保育園も決まったのですが何しろタイミングが良かったです。

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https://www.mepakura.com/(夫、大串潤也のWebサイト)

夫は毎日のようにPhotoshopの勉強をしながら発信をし続け、Photoshopの教則本に作品を提出するクリエイターとして本を出せるまでになりました。収入はまちまちだけど、不思議なことに演劇しかやってなかった頃よりも何故か演劇を使った仕事も増え、さあ次のステップだ、というところです。

わたしは、というと深夜から昼の時間帯へ変わって、カラオケ店でパートをしています。料理は下手だけど、笑顔でフロントをこなすベテランになっていました。年末商戦もしっかりと勝ち取る戦力くらいには成長しました。


はて、わたしはこのままカラオケの店員として生きていくのでしょうか?


夫が頑張っていくのと同時に自分自身はこれからのキャリアをどうしていこうか、そんなことを考えてはまた今度考えよう、と思考を止めていたのでした。


29歳になる前に考えたこと

夫はよくわたしに「俺が死んでも稼げるものを手に入れなさい」と言ってくれました。年齢が7つ違うのでどちらかが先に逝ってしまうこともありうるでしょう。わたしが先かもしれませんが。

演劇大好きなわたしが演劇に戻れるようにと、スタッフをやれるようにしてくれましたがこれを一生やり続けるのは単価が安すぎる。食ってはいけないです。ましてや年齢を重ねた時に仕事を頂ける確証がない。要は交渉次第なのですが、わたしのような半端ものをスタッフとして迎え入れてくれる優しい団体もなかなか金銭的に余裕がなく、実労働に見合わないギャランティしか用意できないということが多いのです。主宰の人はもっと貰えてないのではないかと思います。ほんとはこういった現状のある団体を軌道に乗せてあげたい、という気持ちもあるのですがそれに見合う団体への愛とお金はわたしにはありません。他に愛するものができてしまったからです。

恥ずかしながら私の時間は有限であり、その時間の使い方は「愛するもののため」「自分の心が豊かになるもののため」に注いでいきたいと思うようになりました。綺麗ごとを言うとすればみんながそうなればいいなとも思っています。

家族との時間、家族のいる家がわたしの愛するものであり、自分の心を豊かにしてくれます。それを守るためにもわたしは何か自分でもお金を稼げるものを探す必要性が出てきました。

29歳になる直前の夏、学歴もない、就職経験もないわたしはなにができるのだろう。

俳優をやっていた時、オーディションでいつも聞かれていた「あなたは何ができますか?」という問い。その問いにダンスも楽器もできなかったわたしは「元気に喋れます」しか答えられなかったのです。肩書のない人間は自分を語りづらいです。

資格を取ろう!

安直に考えて、知り合いが昔取ったと言っていたマッサージの資格やアロマテラピーなどの資格を検索しました。ふと以前、自分がたまたまやってもらった「耳つぼジュエリー」のことを思い出しました。耳だけなら可愛いし簡単かも、安直に安直を重ねて耳つぼジュエリーの資格を探してみることにしました。ほとんどの耳つぼジュエリーの資格って通信教育でお金さえ払えば資格がとれちゃうくらい簡単な資格なのです。

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それだと不安すぎる…と考えたわたしはもう少ししっかりした取り甲斐のある資格はないもんかと耳つぼジュエリーについて調べました。すると探すとあるもんです。しかも夫が大好きな「耳かき」の正しいやり方を教えてくれるような協会です。耳つぼジュエリーの資格はよく聞きますが、「耳かき」の資格は聞いたことがないぞ!しかも耳のマッサージまで学べるのか!これは…お得では?とお問い合わせフォームをぽちりました。

そこで出会ったのが「イヤーセラピスト」という仕事でした。

ようやく冒頭の謎の肩書まで辿り着きました。次回はわたしが出会った新しい仕事についてお話します。最後まで読んでくださりありがとうございます。お粗末様でした。

Twitterで毎日耳について更新しています。

よかったら見てやってください。健康にいい事書いてるはずなので、フォローして頂けますと喜びます。そしてなんとイヤーセラピストの「インストラクター」として講座も持てるようになりました。ご興味ある方はこちらのWebサイトもぜひ見てくださいな。

またお会いできる日を楽しみしています。

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