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強制という魔物〜私が今でもナッジを研究する理由〜/学校教育/行動経済学

教師のにらみで制圧する指導


今でもはっきりと覚えています。
私が少し怒った顔をすれば、
子どもがピシッとなることに、
嬉々として自分の指導力があがったと
思い込んでいた日のことを。
得意げに、
「こういう顔すれば、みんな静かになる」などと
話していたことを
まざまざと覚えています。

またある時は、
「信頼関係があれば最後は何とでもなるよ」
「面白いことしておけば学級経営なんて何とでもなるよ」
と後輩に話していたことも覚えています。

「こわく、きびしく、面白く、楽しく」
をつかいこなし、
強制を子どもたちに納得させること
が、
教師の力量そのものであると、
そう思っていました。

もちろん大部分の子どもたちは
その意図を汲みとってくれます。
愛のある指導として、
受け取ってくれているのかもしれません。
しかしそれは、子どもたちから
何かを奪っていたのかもしれないと、
今になって思います。

全てが虚像だと気付かされた特殊な学校

不良行為をおこす恐れのある子どもたちが
集まった特殊な学校で、
「こわく、きびしく、面白く、楽しく」
どれも通用しませんでした

なぜなら、私より数段経験のある
原籍校の先生方が、
その「こわく、きびしく、面白く、楽しく」を
試されているのです。
若輩者の私の指導など
通るはずもありませんでした。

また、最後には絶対何とかなってきた
「子どもと信頼関係を築いたらなんとかなる」
すらも歯がたちませんでした。
どんなに信頼関係を築いても築いても、
私の想像のはるか上を超えた態度を
子どもはとってきました。

そこで私は強制の無力さ
知ることを余儀なくされました。
もちろん強制することで
大事なことに気づいてきた
(正確にいうと気づいてくれた)
子もたくさんいます。
しかし、はたと立ち止まった時、
強制で気付けない子がいたのだと、
真実をこの学校で見せつけられました。

「私は過去それでうまくいった」という
ヒューリスティック(経験・主観)に
頼った指導は、ものの見事に崩れていきました。

その後、
行動経済学(ナッジ)と
教育の転用を研究し、
仮説と検証を繰り返していくことで、
授業、生徒指導が
彼らに通るようになりました。

強制では全く学ばなかった、動かなかった子が、
自由意志のもとで
自己決定をしていくようになりました。

私がナッジを研究し続ける理由

一般の学校に戻った今、
もうナッジを続ける必要はありません
またもとの、
楽な強制の指導に戻すことも可能だと思います。
すぐに効果が出ますし、
多くの子に響くであろうし、
そこから学びとってくれると思います。

しかし、もう元の指導には戻れません。

子どもが大人の顔色をうかがって動く指導は
できなくなりました。

何より面白くありません。
子どもたち自身が
自分達で自分達の人生を
切り開いていく姿を見てしまったら、
その楽しさから抜け出せなくなりました

そして、私が
気付かないふりをしていた
見ないふりをしていた

本当は「困っていた子」。
その子たちをまた、
私のヒューリスティック(経験・主観)に
巻き込むのではなく、
学級全体がよりよくなる道
授業・生活を通して
ナッジは示してくれるようになります。
私の力など、
ちっぽけなままです。
しかし、
子どもの力を、仲間の力の強さを
知っています

自立支援施設の子たちから
教えてもらった宝を、
よりわかりやすく、
より多くの方に、
誰にでもできる形で
わたせるよう、
私は子どもの未来を願って
研究と発信を続けていきたいと思います。

また次の記事でみなさんと会える日を
楽しみにしています。


そうじ指導の正解探しからの脱却↓





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