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第二十四回 音楽は去勢されたのか
2011年以降の音楽シーンについて、その世界にいるわけでもない物書きがモノ申すのはミュージシャンや音楽好事家からすればシャラクサイといったところかもしれないが、それが物書きという生き物なのでご容赦願いたい。
もっとみるスガシカオ『イノセント』がとてもイノセントでよかったという話
スガシカオ『イノセント』についてどう語るのがいいのだろう、と考えるうちにいつの間にか三月になってしまった。最近は、体験を即日言葉にするような文化が「ふつう」になっている。創作者側としては嬉しい。光栄だし、販促的にも助かる。
でも、一度の体験で得られる感動や興奮「にしか」本物がないわけでもない。最初の興奮は、香水でいえばトップノート。芸術体験にはミドルノートも、ラストノートもある。長い目でみて、体
シャイな「好き」はもういい。私的ラブリーサマーちゃん論
「ラブサマちゃん」と略して呼ぶのが躊躇われるくらいには歳をとった。もう41だからな。本当は、彼女のシンガーネームである「ラブリーサマーちゃん」だって言うのは恥ずかしいんだが、それは仕方がないよね。言うよ。
まずこのアーティストを知った経緯だが、一番最初に彼女を知ったのは今から4年くらい前だったろうか。『ディスコの神様』というtofubeatsの楽曲のなかでバックコーラスをやっていたのがラブリ
百合とGRAPEVINE
百合とGRAPEVINE──にはとくに接点がないんじゃないか。
こんなタイトルで書き出せば何か書ける気はしたんだけれども、しょうじきなところは百合とGRAPEVINEはさすがに関係ないだろ、というのが本音ではある。
ただ、田中和将の書く歌詞の世界には昔から女性の一人称のものがあって、「1&MORE」や「大人(NOBODY NOBODY)」、「ミスフライハイ」といずれも秀作がずらりと並んでいる
スガシカオ『労働なんかしないで光合成だけで生きたい』はスガ史上最大級の拡散力をもった「ドラッグ」だ。(後半)
(前半は一つ前の記事にあります)
05「おれだってギターを抱えて田舎から上京したかった」
くるりの「東京」に限らず、ロックバンドは都会のアウトサイダーであってほしいというのが、何となくの無意識に根差しているなんてことはないだろうか。ジョン・レノンはリヴァプール生まれだし、ギャラガー兄弟はマンチェスターの生まれだ。やっぱりロックたるもの、都会の洗練に対して「クソったれが」と悪態をついていてこそな
スガシカオ『労働なんかしないで光合成だけで生きたい』はスガ史上最大級の拡散力をもった「ドラッグ」だ。(前半)
スガシカオ(敬称略)は危険きわまりないドラッグである。なんて言ったら、昨今は物騒に思われるかも知れない。が、実際、自分には「スガシカオをキメる」としか言いようのない音楽体験がある。ファンクが聴きたいとか、ブラックミュージックが聴きたいとか、そういうことじゃない。「スガシカオをキメたい」のだ。
若い頃からこの欲求はかなり高い頻度で起こった。つまり中毒性が高いのだ。まあそれは聴けばわかるし、今はく
GRAPEVINEのすゝめ
今日はちょっとGRAPEVINEを勧めてみたい、みたいな書き出しでは、なかなか容易に勧めにくいロックバンド。それがGRAPEVINEだというのはファン内外の一致するところではないかと思う。なので、「すゝめ」と言ってみたけれども、きわめて個人的な内容になっているので、そこはご容赦いただきたい。
振り返ってみるに、彼らのデビューした当初からしてじつはそうだったのだ。たしかに20世紀末、『Lifet
遅すぎたフジファブリック「若者のすべて」体験に導かれて
フジファブリックというバンド名をいつ頃知ったのか、しょうじき記憶が定かではない。が、「茜色の夕日」も「銀河」もリリースされて間もなく認知していたように思う。けれど、どこかで自分とは縁遠いバンドだ、と感じていたのも確かだった。
音楽として聴くには、やや個が立ちすぎていて灰汁が強い、と感じていたように思う。志村というボーカルの個性がそれだけ強烈だったということもある。歌詞がというよりは、声だろうか
スガシカオとGRAPEVINEでひもとくミレニアムのたいくつとゆううつ
2000年前後の出来事は覚えているようで存外記憶が怪しいところもある。自分はその年、ちょうど大学3年で、21年間の人生で最大級の当惑の渦のなかに身を置いていたからだ。
早い話、学生結婚することになったのだ。それ自体は自分の望んだことだったのだが、結婚が家と家とか親族と親族をつなぐものだとか、そういった意識がまだ全然欠けていた時期でもあり、「家」が急激に自分たちの背中に押し寄せてくる何とも言えぬ