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30歳になる自分へ

30歳の誕生日を間近にして、最近よく思うことがある
記念と自戒を込めて、文字に残しておきたい。45歳くらいに読み返したい


シェイクスピアの言葉ですごく好きなものがある

Expectation is the root of all heartache.


私は人に対して優しい方だと自負してるけど、世界はそれほど優しくないな~って感じる瞬間はそこそこあった。29年間生きてきて、そこそこあった。
それは「人」に限らずだけど


見返りを求めない愛情こそ無償の愛情であって、例えば親から子(というより最近は子から親への愛情の方が無垢なものだと思う)とか、動物同士とか

本能的に「大切にしたい」って思う、みたいな


私は通知表に、「みんなが気付かない部分に気付いてそっと行動する優しさの持ち主」とか、「さりげない優しさが素敵です」とか歴代の先生に書いてもらってきた人生だし、私もそこが自分の魅力だと思ってる


通知表

さりげない優しさって何だろう?って思った時に、それこそ小学生時代を振り返ると、もう記憶が薄れているけど確か牛乳パックをたたんで捨てる係が順番に決められてたんだけど、やっぱり忘れられることってあるじゃん。忘れられるだけじゃなくて、「触りたくないな~」の気持ちからの放置とか

それに気付いて、誰かやるだろうって私も見て見ぬふりするよりは、じゃあ私が今やったら早いじゃんってそっと済ませるのが幼少期の私だった。そういう時って、もちろん誰かが気付いて褒めてくれたりお礼を言ってくれたりしたらすごく嬉しくなるけど、それは期待してなくて。ただ、牛乳パックが処理されていないことに気付いた私が今済ませてしまえば係の子も、他の子も、先生も楽だしって思ったから行動しただけで

(「私優しいんです!!!」みたいな気持ち悪いアピールになってほしくないけど)あとは友人とお泊まりの時にベッドを譲るとか、譲るにしても「いや私トイレ近いから床で寝たほうがなんなら楽やねん」みたいに笑いに変えたり、なんなら自虐を言ったり、夜中に目が覚めた時に友人に布団がかかっていなかったら寒くないように布団をかけるとか、外食の時に手が汚れた時にいつでも拭けるようにティッシュをそっと置くとか、水がなくなったことに気付いたら汲みに行くとか、「些細だけど人の役に立つ」みたいな小さい行動をするのが好きなの

でも前述したようにそれを誰かが見ていて、認めて、感謝するっていうのは期待していない



中学生の頃に母がくれた手紙

…って言ってもやっぱり、その私基準の「優しさ」から来る行動を、当たり前に思われてるなぁとか、最悪の場合利用されてるなぁって感じる時は多少なりとも不愉快な気持ちにはなる
「リナちゃんといれば私はこれしなくて済む」「なんかいつも食べる時にここにティッシュあるな。ラッキー」「リナちゃんならいけるっしょ」みたいな、優しさに付け込まれるみたいなことはさすがに勘弁なのね


で、30歳間近の今、もともと涙もろかったり人より繊細HSPな性格だったりっていう部分がちょっと強まってきている感覚があって
私に必要なものは更なる優しさではなく、いい意味での無神経さだと気付いた

HSPという言葉が世に出てきてから、冷静に自分を分析して若干気楽になったから感謝してる


「私が主人公!」ってよく言うけど、内心はやっぱり相手を立てて尊重して生きていきたいド日本人精神だからさ、どれだけ心を開いている相手でも無意識に気をつかっちゃう瞬間が多くて
それが好きだし楽なんだけど


30歳間近でもう一つ気付いたけど私は保守的というか保険をかけて話す(書く)癖がある、それも沢山傷ついてきたからこそ相手を傷つけたり不快な気持ちにさせたりしたくないからなんだけど、「これやだ!」「お前のここが嫌!」って内心思ったとしても、「~~~な部分ってすごく素敵だと思う。だけど私は~~と思うところもあって、だから~~したらもっと素敵になる」とか、「私も~~な部分があってそこは自分の短所なんだけど、でも~~って言われるとちょっと悲しいかも、私のためを思ってくれてる優しさなのはわかるんだけど」みたいな回りくどい感じ
相手を守るためもあるけど一番は自分を守るため


芦田愛菜さんの名言がシェイクスピアの名言と重なって私にブチブチに刺さったの

「その人のことを信じようと思います」って結構使うと思うんですけど、それってどういう意味か考えた時に、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっていることなのかなと感じます。だからこそ人は「裏切られた」とか「期待していたのに」とか言うけれど、それはその人が裏切ったわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけ。
その見えなかった部分が見えた時に、「それもその人なんだ」と受け止められる揺るがない自分がいるというのが【信じること】なのかなって思います。
でも、揺るがない自分の軸を持つのってすごく難しいじゃないですか。だからこそ人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかと思いました。


人に期待しないのが人生の幸せのコツだって気付いた。今更?

「こうしてもらえたらなぁ」って思ってていざそうされなかった時、どうしてもがっかりして落ち込んだり怒ったりしてしまうのが人間でしょ。でも代わりに何も期待せず、言ってしまえば”無”でいられれば、実際もしそうしてもらった時に無条件に嬉しいし喜べる

「私だったらこうするなぁ」「こうしたらこの人は喜んでくれるかなぁ」とかもそれはあくまでも”私”が持つ基準であって、他人も同じ基準を持ってるわけじゃないのよ

配慮、気遣い、優しさ、愛情、それらの表し方やそこから来る言動は人によって違うし、気持ちや感情よりも「誰がいつどうした」の事実だけに目を向けるフラット思考の持ち主になりたい。

(何度も読みたい記事)



繊細な自分も泣き虫な自分も大切な人を気にかけてそっと些細な、相手も気付かないような見えない部分を支える行動ができる、そんな自分が大好き。だけど生きていたらそれでついてしまう傷も沢山あるから、そのたび絆創膏や包帯を増やすよりも、鎧を着て武器を持った方が早い

私は人が好きだし、いろんな価値観や考え方、文化、基準を持った人がいておもしろいな~って思う。その気持ちは素晴らしいものだし持ち続けていたい

けどそれと同時に、同じ価値観や配慮のレベルを持った”私”がもう一人いたらすごく気が楽になるんだろうなって叶わない願いも持ってる




30歳、いい意味で無神経になっていきましょう!デリカシーは失わないように気をつけつつ…

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