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金色の日陰者

「お母さんは知ってたんだろ! お父さんがいなくなるって! なんで黙ってたんだ!」
 ビーク家に帰った途端、レガはタカダガの背から飛び降り母に詰め寄っていた。乱暴に開け放たれた扉から、家の中に乾いた風が入り込む。
「レガ、ごめんなさい。レガ……」
 ただ深く謝るばかりのコットの顔を、涙の跡が幾筋も通っている。腕に食い込んだ爪痕からは、血の涙が流れていた。
「レガ! やめねえか、お前の母さんはお前の為を思って」
「うるさい! パーシルおじさんも知ってたんだろ。僕だけが知らなかったんだ」
 レガを追って家の中に入ってきたパーシルにも、レガは吠える。
 今にも噛みつきそうなようすの息子に、コットは昔話に出てくる巨大な牙を持つ獣、ケダルゲの姿を重ねた。
「お母さんは! お母さんはいなくならないよね?」
「それは……」
 パーシルに視線を送るコット。暴れるレガを取り押さえていたパーシルは、小さく頷いて見せた。
「もういいんじゃねえか。俺から話すわ」
 レガを抑えていた腕を話したパーシルは、そのまま肩を強く掴む。獣の警戒心を少しでも削ぐため、屈んで目線の高さを合わせた。
「いいか、レガよく聞け」
「嫌だ!」
 レガの額がパーシルの鼻をとらえた。それでもパーシルは微動だにせず、目に涙も浮かべていない。
「レガ、聞くんだ。いいか、人の命は四十年、ずっとそう決まっている。お前の父親は人生を全うした。ただそれだけだ」
「教えてこなかった私が悪いんです、もっと早くに伝えておけば……」
「なんだよそれ……」」
「お前の母さんだってなあ!」
「痛いっ」
「すまねえ、強く握り過ぎた」
 パーシルがレガの肩から手を放す。レガの腕は体の横で力なく垂れ下がり、目はガラス玉のよう。
「お前の母さんだって、数年もすれば俺だって生涯を終える。だが、それでいいんだ」
 寒い時期に降る雪と塵が織りなす白一色の世界。レガはその荒野に立っていた。
「わかんないよ。お父さんとは……、約束したんだよ?」
「俺もわからないさ、誰もわかんないもんさ」
「パーシルおじさんが馬鹿なんだ!」
 パーシルを突き飛ばした勢いのままにレガは飛び出した。
「レガ!」
「みんな馬鹿だ! 死んじゃえばいいんだ!」
 裸足のまま駆けて行くレガを、コットもパーシルも追いかけることはしなかった。走り去るレガに追いつくことはできないと、二人とも悟っていた。
 当てもなく飛び出したレガは、心から信じる人の噓を証明するために走り続けた。
 一息のうちに着いた広場には、今日も人で賑わっていた。直に訪れる夜を迎え入れるため、銘々に心の舞踏を許している。
「ねえ、トロスを知ってる?」
「ああ、西地区の英雄だろ?」
 麦で編んだ帽子を被った牛飼いの男。腕に抱える籠の中には、大量の牛が詰まっている。
「そう、そのトロスがね……」
「身投げしたんだろ? もうそんな年だったとはな」
 男は微笑を携えながら言う。レガはその場を速やかに離れた。
「おやまあ」
 振り返ったところで着やせを凌駕する女性にぶつかる。
「あ、ごめんなさい」
「いいのよ」
 その女性は、手に色鮮やかな花束を抱えていた。
「これから姉の身投げなの、私の家では花束で送り出すのよ。変わってるでしょう?」
「うん、変だよ」
「でしょう?」
 二度目の婚姻を祝うかのような表情をする彼女に、レガはもう一度頭を下げてからその場を逃げ出す。
 レガの目には広場を行く人々のすべてが、気味の悪い化け物のように見えていた。街が石壁をぐねりと曲げて、レガに向けて襲い掛かる。
 波のように追い立ててくる壁を躱しているうちに、レガは八方ふさがりの場所に立たされた。どこにも進むことのできなくなった彼は、生まれて初めて天を仰ぐ。
「いいこと知ってるじゃないか。誰に教わったんだい?」
 澄み渡るような女性の声にレガの視界が広がる。なんら変わることの無い、レガのよく知る街が再び姿を現した。
「おーい、大丈夫かい? 凄い汗じゃないか」
 呆けて立ち尽くすレガの顔は青ざめ、額を伝う汗が流れ落ちていた。彼の前に立っていたのは、街に溶け込む姿をしたノイ。ブリンゴが隣にいなくとも、彼女の身長は際立って高い。
「おいって」
「お姉さん……。お姉さんも、もうすぐ死ぬの?」
 振り絞るように言葉を残すと、その場にへたり込んだレガ。瞳がその幕をゆっくりと下ろし、彼の視界を闇の中に招き入れた。
 果てもなく広がる草原、塵ひとつない青空。色とりどりの花をつけた木々と、それに群がる見たことも無い虫。沈みゆく意識の中、レガが見た景色は夢か現か。彼にははその場所について、知る術を持っていなかった。

 朗らかで野太い声が、暗闇のそこかしこで聞こえる。弾けるようにレガが瞼を開くと、表皮に大量の毛を纏わせた男の顔が、鼻先まで迫っていた。
「うわっ!」
 慄き後ずさったレガは、自分が尻もちをついていたことを知る。彼を覗き込んでいた男は、所々かけた歯を上手に打ち鳴らしていた。
「よう、目が覚めたか。驚いただろ、ここは我らがノイ盗賊団の家さ」
「違えよブリンゴ! その坊やはお前の面に驚いてんだよ」
 家と呼ぶにはなんとも大袈裟な木組みの建物。だだっ広い空間には、無造作に机や椅子が並べられ、そこかしこで男らが酒を酌み交わしている。床のほとんどを布団代わりの布が覆っており、その上で盛大ないびきをかいている者もいた。
「俺⁉ おいおい冗談でもそんなこと言うなよ。傷つくじゃねえか。なあ?」
 同意を求められたレガは、曖昧に頷いた。その頷きが何を肯定しているのかは、レガ本人にもわかっていない。
「おめえも飲むか? 酒ってやつだ。高級品だぞ?」
「やめな」
 玄関扉もない建物に唯一取り付けられた赤い扉。その扉が開く音と共に中から人影が現れた。
「お頭!」
 足元に転がる男たちを踏まぬよう、ジグザグに歩いてくるノイは、街で会ったときとは異なり動きやすさを重視した格好をしていた。
 露わになった肌に見惚れていたブリンゴを蹴飛ばすと、床に胡坐をかいて座り込む。
「今どんな気分だい?」
 太陽に晒された布団に包まれたように優しい声。レガは思わず涙がこぼれた。助けを求めこぼした涙は、ノイの元まで垂れてゆく。
「どこにも行きたくない。何もしたくないよ」
「そうかい……。飲みな」
 ノイは手に持った陶器の入れ物をレガに差し出した。中は水で満ちている。
 レガはその水は一息に飲み干した。体から出ていく水分を補うように。
「ここまで運んでくる途中、あんたがうわごとで言ってたよ……。辛かったな」
「身投げだろ? まったく、馬鹿げてるよな。俺あ、いくつんなっても生きてやるぜ、元々日陰者だからな」
 蹴り飛ばされ床に這いつくばった体制のまま、ブリンゴが口を挟む。
「ブリンゴ。お前、飯抜きにするよ」
「なんで! お頭も馬鹿げてるって。俺らはそのために……」
 狂おしく暴れるノイの視線を感じ、ブリンゴは言葉を途切れさせた。口を噤んだ後、ブリンゴは己の食事が無くなったことを確信する。
「身投げ?」
 ノイはため息をついた。物を尋ねるレガの視線が、誤魔化すことの不可能さを語っていた。
「あんたの両親が、あんたの為に黙っていたことだ。それでも聞くかい?」
 レガは首を縦に振った。涙を頬に伝わせながら。
 壊れた屋根から、塵が降り注いでいた。目の前に落ちた塵に、ノイはそっと触れた。
「生まれてから四十年で塔から身を投げる、だから身投げ。古くからの慣わしさ」
 頬杖をつくノイの瞳には、死んでいった者への悼みと怒りが共棲していた。
「街の人間をおかしいと思ったことは無いかい?」
「あるよ。気持ち悪い」
「そんなあんたはこの街では異常者さ。腹が減ればものを食べるだろう?」
「うん」
 当然だと言わんばかりに首を縦に振る。
「それが悪いことだと思うかい?」
 その質問の意味がレガにはわからず、頭の中で言葉を反芻するように視線を宙に泳がせた。
 食べること、それはレガにとって考えるまでもない行為であり、その善悪について疑問をもったことなど無い。
「それと同じ。腹が出れば飯を食い、疲れれば眠る。そして時が来れば身を投げる。それが人生さ、この街の人間にとってはね」
「そんなの……、馬鹿じゃないか」
「ああ。だからあいつも言ってただろ? 馬鹿げてるって、なあ」
 手近なところに転がっていたブリンゴの腹を軽く叩く。眠るブリンゴはいびきで返事をした。
「そしたらお母さんは? パーシルおじさんは?」
「死ぬよ。慣わしに殺される。気にするな、みんなそうさ」
 ノイの柔らかな微笑には、言い知れぬ疲れが潜んでいた。彼女自身、これまで何度も人々に語り掛けてきた。なぜ自ら生を終えるのかと訴えてきた。そんな彼女の目の前で死んでいく人間を、何人も見送ってきた。
「わかるか?」
 レガは黙ったまま俯いていたが、その頭はこれまでにないほど動いていた。
 自分が自ら死を選ぶとは到底思えなかったが、疲れても眠らないことの意味も分からなかった。
「ついてきな」
 立ち上がったノイは手を差し伸べる。レガはその手を、なんの迷いもなく握った。
「あんたをもっと混乱させてやるよ」
 そう言って歩き出したノイに腕を引かれ、レガも歩き出す。足元に転がる男たちを慎重に躱しながら。
「いてっ」
「ごめんなさい!」
「邪魔だよ! いつまで寝てんだ!」
 レガが通りやすいように、先行するノイが男らを蹴飛ばしてゆく。その様子を後ろから眺めながら、レガはもう一度涙を流した。
 建物の外は、四方に深い森が広がっていた。森に住むと言われているオノノキの姿を思い浮かべたレガは、ノイに気づかれないよう小さく身震いする。
「あんた、名前は?」
 腰ひもから抜き取った小ぶりのナイフを振るいながら、振り返ることなくノイは森を突き進む。彼女から離れないようにと、必死に手を握るレガは、呼吸の切れ間に言葉を返した。
「レガ、レガ・ビーク」
「なに? もしかしてあんた、トロス・ビークの息子か?」
「そう、だよ。お姉さん。お父、さんを知ってるの?」
 ノイは歩く速度をどんどんと上げ、レガにとってはほとんど駆けている。返事もないまましばらく進んだかと思うと、急にその場で立ち止まった。
「知らないさ。そうか、逝ってしまったか」
 息を切らしたレガの前に現れたのは、先が見えない程背の高い石壁。その圧倒的な存在感は、彼に見上げることすらを諦めさせる。
「壁だ。こんなに近くで見たのははじめて」
 突然の壁の出現に驚いたレガは、続けざまに驚くこととなった。息一つ乱していないノイが、さっきから壁の中を行ったり来たりとしている。時に腕や足先だけが壁から飛び出している光景は、見ていて気持ちの良いものでは無かった。
「なにそれ。お姉さん何してるの」
「ノイ」
 頭だけを壁から突き出しながら話すノイは、レガからするとまるで生首が話しているかのよう。
「ノイだよ、そう呼びな。お姉さんも悪くはないんだけどね」
 粘度の高い沼から這い出るように、ノイが壁の中から抜け出してくる。気が付くと、レガは壁に生えるノイの手を再び握っていた。
「ノイさん。お願いがあります」
「いいよ」
 レガが何かを話すまでも無く承諾するノイ。レガの顔を白黒とさせると満足したのか、体を完全に壁から出す。
「あの、僕まだ何も……」
「話してみな。大概のことは聞いてやるよ」
 レガは口を開いた。壁の向こう側へ自分も行きたいと、その方法を教えてくれと、父を、トロスの姿をもう一度見たいのだと。
 ノイは黙って話を聞いていた。レガが一通り話し終えると、笑った。
「そんなの簡単さ」
 壁に向き直ったノイは手の平を壁に向ける。
抜け方を教えるのかと思わせたが、その腕が伸びきったときには既に、手首までが壁の向こう側。レガの目にはそう映る。
「私は今、壁を抜けているかい?」
 首だけで振り向いたノイに対し、レガは首を縦に動かす。これから彼女が話す内容を聞き漏らさないようにと、耳小骨の振動に細心の注意を払っていた。
「私の目にはそうは映っていない。壁自体、見えてないんだ。身投げの話を覚えてるかい?」
 覚えているも何も、レガの脳内のほとんどはそのことで埋め尽くされていた。
「覚えてるよ」
「それと一緒さ。この街では身投げをすることが当たり前のように、街は壁で囲われている」
 あくまでノイの口調は穏やかだった。信じさせようという語気の強さは一片も見えず、信じなくても良いとすら思っている口ぶり。 
 情報の洪水に晒されているレガは、そんなノイを素直に受け入れていた。言葉の裏に微塵の興味も持っていない。しかしながら、理解への道のりは遠い。
「生命を終えた魂は壁の外を彷徨う。壁は街のすべてを囲っていて、現世と死後の世界を隔てている。子供でも知ってることだよな?」
「うん」
「誰に聞いた?」
「そんなの、覚えてないよ。考えたことも無い」
「全部嘘さ」
 頭上を覆う空は青く、足元を這いつくばる土は食べても栄養とならず、体中を赤い血が流れている、そんな話。壁が街を囲い、その外には死者の魂が彷徨う。それらは等しく当然のことだった。
 体に流れる血液の色、本当はあれを青と呼ぶのだと。そう言われて信じることが出来る人は、いったいどれだけいるのだろうか。
 あれは赤だと、何故頑なに信じているのだろうか。ノイの言葉はレガにはそう届いた。
「壁は無いんだ。わかるかい? 壁は、無いんだ」
 何度も言い聞かせるように、壁を行ったり来たりとしながらノイが語り掛ける。ノイが完全に壁の向こうへ姿を消した時には、レガにはその声までもが遠く感じていた。
「ノイさん。やっぱり壁はあるよ?」
 人の思いは時にとんでもない力を持つ。レガを含めた街の住人にとっては、意識つづけた長い年月が壁の存在を確かなものにしていた。
「レガ、手を出しな」
 分厚く屈強な石壁から聞こえてくる、湧き水のように澄んだノイの声。躊躇いながらも、レガは自らの手の平を石壁に押し当てた。
「壁があるよ!」
 手の平に伝わるのは、確かなざらつき。声のする方へ押し付けてみるも、細かな突起が手の平をへこませるのみ。
「目を瞑りな」
 言われるままに瞳を休ませたレガの手首を掴んだノイは、合図も無しに自らの方へと引き寄せる。
「うわっ」
 レガは足元の踏ん張りを利かせる間もなく引っ張られ、壁の向こう側にいたノイの胸に収まった。その体を抱くノイの腕は、幾層にも重なった陽光のようだった。
「もう開けていいよ。ほら、自分の目で見てみな」
 風の匂いに充てられ、鼻の蕾が開くほどの速度で瞼を開く。その光景に奪われた心を、レガは取り戻そうともしない。
 心身が別離したままに振り返ったそこに広がるのは深い森。壁はもう、どこにも見当たらなかった。


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