"仮想人類学"として読む冨樫義博の世界―『レベルE』と『HUNTER×HUNTER』の共通項
私が『HUNTER×HUNTER』の沼にはまって約1.5ヶ月。漫画を読み、アニメの第1作、第2作を見たあと、WEBに転がっているあらゆる考察、伏線解説、展開予想の記事や動画も概ね見尽くし、海外のリアクション動画に手を出したあたりで「あれ…これまで人生でこんなにハマったもの……あったっけ?」と、自分自身に驚いた。どう考えてもはじめての経験である。
冨樫先生の作品をもっと読めばここまでハマった理由がわかるかも?ということで買ったH×Hのひとつ前の作品『レベルE』を昨日読み終えて、いま感じていることを記録しておく。
人類学的な漫画
簡潔なまとめを先に書くと、冨樫先生の作品は人類学・民俗学的な手法によって描かれているからおもしろい!というお話。もちろんどハマりした理由はそれだけではないので他の魅力についてはまた別ポストで書こうと思うけれども、大学で社会学を専攻し、その過程で文化人類学にも首を突っ込んでおもしろがってきた私にはドンピシャだった。どこが人類学的なのか、そしてなぜそれがおもしろいのかを書いてみようと思う。
H×HはレベルEのアップデート版
『レベルE』(1995-1997年)を読んでみて、まず感じたのは『HUNTER×HUNTER』(1998年~)と共通点が多い、というかレベルEの世界をより詳細に膨らませて描いた物語がハンター×ハンターなんだな、ということ。両作品を読んだ人なら関連性を感じないほうが不思議だろう。
"外側"からやってくる生物の存在
冨樫作品に欠かせないのは、人間界の外側からやってくる生物の存在。レベルEでは「宇宙」、H×Hでは「暗黒大陸」といった"外側"の世界が必ず存在し、そこにいる生物と人間との交流が物語のメインテーマのひとつになっている(「霊界」が出てくる『幽☆遊☆白書』も似た構造と言っていいかもしれない)。
そのなかでも、レベルEでは、オスがメスを食べることで体内受精させて産卵する「コンウェル星人」や、交配したオスの種族を数世代で必ず滅ぼしてしまう「マクバク族」、H×Hでは、女王が異種生物を食べることで交配し生態系最強の王を産む「キメラアント」など、人を食べる、人を滅ぼすといった人類に危害を与えるどう考えてもヤバい生態・文化を持つ生物の存在がキーになっている。実際に、物語のなかでは相当数の人間が食われて死ぬ。
敵が敵になるどうしようもなさ
しかし、子供向け作品の定石である「正義の味方(=人間)が悪者(=ヤバい外来生物)を退治する」という単純明快ストーリーは採用しない。そこが冨樫作品を輝かせる大きな要因のひとつである。
コンウェル星人もマクバク族も作中で絶滅させられたわけではないし、キメラアントは王が死に至るものの、そこまでにかなり丁寧で壮大な感動物語がある。人類の敵として立ちはだかる存在も、悪者にはならない。
敵が我々の敵になってしまうことには、生態・文化面での避けられない理由がある。彼らが彼ら自身として生きるという自然なことが、偶然にも人類にとっての脅威になってしまうという「どうしようもなさ」を子供にもギリギリ理解できるように描いている。
しまいにはコンウェル星人も「ぼく達は生まれるべきではなかったかも知れない」「何で ぼくみたいな生き物がいるんだろう」と悩んでいるのだから、圧倒的悪役として憎むことなど到底できない。
価値観の相対化
この感覚は、文化人類学でいう「文化相対主義」の思想にかなり近い。
善悪の価値観の相対化、簡単にいうと「"人間を殺すのは悪"という価値観はあくまで僕たち人間が勝手にもっているだけのことなんですよ」というのが、冨樫先生の示すところだ。我々が肉や魚を美味しくいただいていることとキメラアントが人間を食べることは、自然界のなかではむろん対等な文化である。
人間も自然の一部であり、人間界よりもっともっと大きな自然界では、人間のもつ文化・倫理なんて通用しない。もっといえば、人間が自然界をコントロールしようとする(できると考える)ことは傲慢だというメッセージさえ感じる。現実世界で起こる大震災や台風、洪水、そして直近の感染病の流行も、人間のコントロールの範疇を超えた厄災である。
フラットな受け止め方をする主人公たち
話は変わって、両作品とも展開によって登場人物が変わるので一貫した主人公はいないが、レベルEでもH×Hでも主人公とされる人物(筒井雪隆やゴン)は見たものや聞いたことを、"善悪の判断を留保して"そのまま受け止めるキャラクターとして描かれている点も冨樫作品の大きな特徴のように感じる。
ゴンが「全員暗殺者の一家なんて悪でしかない」なんて考える人間だったらキルアと仲良くなる機会すらなかっただろうし、雪隆が「引越し先の家にいるやつが宇宙人とか抜かしてて気が触れている。警察に通報だ」となれば物語が展開しないので、当然っちゃ当然かもしれないけれども、これは人類学者・民俗学者としてかなり重要な素養であると思う。いま目の前で起こっていることを、一旦自分のなかにある常識から抜け出して理解しようとするフラットさは、人類学者がフィールドワーク(現地調査)をするうえで最も大切な態度かもしれない。冨樫先生の描く世界では、主人公がフィールドワーカーとなり"単純な好奇心"をもつ者として、私たちに新しい文化や価値観を共有してくれるのだ。
RPGはさながらフィールドワーク
両作品では「カルバリ星」や「グリードアイランド」といった特定の土地を舞台として、本人がそのなかでRPGをプレイするという共通点がある。そこで注目したいのが、ゲームルールの細かさだ。冨樫先生はとにかくあらゆる設定が綿密で、自分で作った設定に苦しむことも結構ありそうだが、この細かい設定の描き方こそ、ものすごくフィールドワークっぽい。
プレイヤーはゲームの細かなルールに則ってプレイすることを強いられる。その世界で決められたルールのなかで暮らさなくてはいけないし、そこから逸脱するとゲームオーバーである。それはフィールドワークを行う人類学者も同じで、ある異文化のなかに飛び込み、しきたりにしたがって生活しながらフィールドノーツを書いていく。その文化のあらゆるルールや生活様式を細やかに、体系的に捉え、理解する。もし自分のもつ価値観と著しく異なる現象があっても(例えば、生贄として動物が目の前で殺されても)、基本的に介入することはせず記録する。人類学者に求められるのは、その現象に彼らがどんな意味を持たせているかの理解だ。
しかし、もちろん人類学者は透明人間ではないし個々人にも多様な事情があるので、ルールに抵抗したり、自らがルールの作成や改変に加担することもある。そのあたりもフィールドワークのおもしろいところだが、少し長くなるのでここで話すのはやめておく。
人間以外のものを通じて人間を描く"仮想人類学"
人は、自分以外のなにかと比較することでしか自分がどんな存在であるかを規定できない。宇宙人の存在があってはじめて「地球人」、日本国外に住む人の存在があってはじめて「日本人」として自分を認識する。文化人類学・民俗学という学問のおもしろさは、自分の"外側"にある異文化を知ることによってはじめて、自分が"内側"にいる文化のあり方を自覚できるところにある。
冨樫先生は、外来生物やゲームという舞台装置を使って「仮想の異文化」を構築し、その異文化と人間とのやりとりを描くことで、人間そのもののあり方を示しているのではないかと思う。
善悪の判断を急がないフラットな存在を主人公としておくことで、読者にも「はたしてこの敵は悪か?」と問いかける力が生まれる。主人公とともに世界を冒険し、さまざまな異文化と交流すること(フィールドワーク)を通じて、読者は自分のあり方を知ることができる。
私は、冨樫先生が紡ぎだす物語の数ある魅力のうち、そんな人類学みたいなところに強く惹かれているような気がしている。
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