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最愛の薫り

◇****◇

逃げていた。

誰かが追ってくる。

誰なのか?何故なのか?

それは分からない。

ただ捕まってはいけない。

それだけは分かる。

ここは…森の中か?

鬱蒼と生い茂る木々たちを払いのけ

ひたすら逃げていた。

が、何かに引っ掛かり、転んだ。

木の根に足をとられたようだ。

不味い。追手は迫る…。

その時、“ こっち!”

私を抱き起こし、手を引いて走る。

誰? 肩越しに顔を覗く …。

西日に重なりよく見えない。

貴方は誰なの?

ただ、言い知れぬ懐かしさを感じた。

◇****◇


ゴールデンウィークを過ぎると

北の街では短い夏を迎える準備が始まる。

ライラック、芝桜、ラベンダー。

織り成す花たちが季節の移ろいと共に

何かを期待させる暑い夏へ誘う。

カフェでのパートを終えた野上 麗(うらら)は

地下鉄のフォームへは降りず

大通公園へ足を向けた。

鮮やかなライラックの姿に

思わず引き寄せられてしまったのだ。

専業主婦で結婚10年目を迎え

気付けば三十も半ばに近づく。

子供にも恵まれず、時折訪れる焦燥感。

そんな生活を変えたくて仕事を始めた。

確かに気分転換にはなった。

しかし心の奥底にある言い知れぬ澱を

浄化するまでには至らなかった。

独特の円錐形に薄紫が調和し

やや強めの香りを漂わせる。

それが一面に咲き誇るとまさに壮観だ。

麗は、ため息を付きながら暫し眺めた。

「サヨ?」

誰かに呼び掛けられ、麗が振り返ると

男はすぐ後ろまで来ていた。

一見して、

普通の会社員ではないと分かった。

やや厚手のカジュアルシャツにジーパン、

ジャケットを羽織ってはいるが

頭にはバンダナを巻いている。

そして何よりも印象的なのは

首から下げている大きなカメラだ。

「あ!すみません。何言ってるんだろう?」

麗が怪訝そうに見えたのだろう。

男は慌てて謝罪した。

「ごめんなさい。」

本当に申し訳なさそうだった。

そのまま立ち去ろうとする男に

『どこかでお会いしました?』

麗は思わず声を掛けていた。

「分かりませんが、何となくそんな気がして。本当にごめんなさい。」

男が余りにも落胆していたからなのか?

『ライラック。一緒に見ません?』

麗は自分でも意外な言葉を口走っていた。


◇****◇

水面に乱反射して散りばめられた陽光が

眩しくて直視出来ない。

湖の畔にいるのだろうか?

左横にはあの人がいる。

今日もやはり顔は分からなかった。

しかし間違いなくあの人だ。

何か話しているようだ。

どこか、物悲しい。

もう会えないのでは?

会話の内容は分からないが…何故かわかる。

私も…泣いていた。

涙が止めどなく流れている。

何か大きく叫んだ。

表情は見えないが

悲しげなあの人がそこにいた。

◇****◇


“ お疲れ様でした! ”

午後2時。

ランチタイムの終了を待って

麗の勤務も終わる。

今日は忙しかった。

このご時世もあり、店は閑散期が続いたが

久しぶりに時間を忘れて働いた。

朝、出掛けに夫と口論になり

憂鬱な気分で出勤したが

それを払拭するには良かったかもしれない。

ここ数年、すれ違いが生じているのは

お互いに分かっている。

夫はどんどん仕事が忙しくなり

私との会話もめっきり減った。

それを解消しようと私が努力しても

逆に彼へのプレッシャーとなり

余計にギクシャクしてしまう。

まさに悪循環だった。

自分も働くことで、夫とのバランスを

取ろうとしているのかもしれない。

店外に出ると気温はかなり上がっていた。

6月も下旬に入り、いよいよ夏が近づく。

25℃。いわゆる夏日を記録すると

北の地では夏本番と言っても過言ではない。

今日は既にそれを越えているだろう。


噴水。

ふと、あの水しぶきを浴びたくなって

久しぶりに大通公園へ足を運ぶ。

疎らではあるが、暑さしのぎに

昼下がりを楽しむ人の姿もあった。

前に来たのは連休明けだったな。

そう、あの人。

不思議な人だった。

あの後… 。


『サヨさんって、お知り合い?』

「え?」

『さっき、私に呼び掛けたでしょ?』

「ああ。いや自分でも分からないんです。」

『分からないって?』

「無意識に口走ってました。」

『え? 何か怖い。』

「ですよね。申し訳ないです…。」

『… 今日はライラックの撮影?』

男はカメラを一瞥してから

「いえ … 記憶を辿りに。」

そう言って男は曖昧に微笑んだ。

別れ際、

『麗。野上 麗と言います。』

何故だろう? そう名乗っていた。

男はやや躊躇してから

「真嶋 … 圭介… … です。」

何故か自嘲気味に笑った。


「今日は、何か見つかった?」

帰宅すると、直ぐに妻の菫(すみれ)が迎えた。

『いや。すまない。』

「謝ることないのよ。貴方が悪い訳じゃ…。」

「少しずつでいいの。ゆっくり。ね?」

『ありがとう。』

圭介はそう答えるしかなかった。

約2ヶ月前の4月、

春山の取材で撮影に行った際に

圭介は急斜面で滑落した。

意識を失ったが、

幸い直ぐ登山者に発見され

病院に運び込まれた。

翌朝には意識を取り戻し

大事には至らなかった。

しかし目覚めた時、

枕元にいる妻が誰なのか分からなかった。

正確には今も分かっていない。

自分の名前さえも。

医者の診断は、一時的な記憶の喪失。

脳波には特に異常は見られないので

快復するとは思うが、それがいつなのか?

明言は出来ないというものだった。

日常生活では支障はなかった。

ほとんどの事柄は分かっている。

ただ、身辺の事。

何というか人格だけ別の人になったような。

妻もそれは感じているらしい。

妻も、と言ったが正直その認識もない。

記憶の中に彼女はいないのだ。

これは決して言うことは出来ないが

誰か別の女性が記憶の中にある。

顔は分からないが妻ではない。

時折、脳裏に浮かんでくる。

何度か夢も見た。

自分はその人を … 愛しているのだと思う。


◆****◆

どこだ!

もう捕まってしまったのか?

いや諦めてはいけない。

彼女は自分が守らないと。

行く手を阻む草木を掻き分け

大切な人を探す。

やがて先方から走ってくる女性が。

彼女だ!が、転倒してしまった。

その後ろからは追手が。

“ こっち!” 彼女を抱き起こし

ただひたすら走った。

この人の手を、決して離してはいけない。

◆****◆


7月も中旬に入り、この大通公園では

ビアガーデンの準備が始まる。

だが今年は諸般の事情により

規模は大幅に縮小された。

その分、公園そのものを

楽しむことが出来るとも言え

季節の花々や噴水などが注目されている。

今日も何気なくここへ足を運ぶ。

また彼に会えそうな気がして。

もう少し話してみたい。

分からないことが多過ぎて。

何より彼が何かを

探しているような気がして。

そんなことを考えている。

あのとき咲いていたライラックは

紫陽花に変わっている。

これもまた鮮やかだ。

そして息をのんだ。

色鮮やかな紫陽花たちの前に

彼が、真嶋圭介が立ち尽くしていた。

あの日と同じ佇まいで。


『真嶋さん?』

やや驚いた顔を見せたが

すぐに微笑んでくれた。

「麗…さん?」

『今日はサヨ、じゃないのね?』

少し憎まれ口を叩き

会えなかった日々の腹いせをする。

「勘弁して下さい。」

圭介は頭を掻いた。

『今日も記憶を辿りに?』

微笑んでいた表情が寂しげに変わった。

『ねぇ。もう少し話してくれない?』

麗は、近くにあったベンチを促し

圭介も観念したかのようにそこへ座った。

暫く何かを考えるような表情を見せてから

「春先に事故に遭ったんです。」

「山で撮影中に…崖から落ちて…。」

麗は、まじまじとそう語る横顔を見つめた。

「体は大丈夫だったのですが、記憶が…。」

『何も分からないの?』

「いえ。ほとんど分かるのですが…自分と妻に関する記憶だけが…。」

『奥様がいらっしゃるのね?』

「…そのようです。」

「妻…は、ゆっくりでいいと。」

「徐々に思い出してくれればと…。」

「それで何か切欠になればと…毎日送り出してくれて。」

『見覚えのある場所を探して歩き回っている?』

「妻との想い出の場所を聞いて、あちこち行くのですがさっぱり…。」

「本当に申し訳なく思っています。」

『他に何かないの?覚えていること?』

圭介は目の前の紫陽花を見つめながら

「ここ。ここなんです。」

『え?』

「ここの場所がどうしても気になって…。」

麗は少し考えてから

『それじゃ、ここの場所と“ サヨ ”と言う名前が手掛かりね。』

圭介は不思議そうな表情でこちらを伺う。

『私も手伝うわ。貴方の記憶辿り。』


◆****◆

日射しが、かなり強い。

今日は暑くなる予感がする。

顔に水しぶきが掛かる。

噴水の前にいるらしい。

縁に腰掛けて何やら考え込んでいる。

横には女性が。誰?

泣きながら何か訴えてくる。

私の腕を掴み、大きく揺する。

別れが近いのか?

寂しさと懐かしさが胸を去来する。

為すすべなく途方にくれる自分がいる。

◆****◆


何故あんなことを言ったのか?

麗にも、よく分からなかった。

ただ、この人を放っておけない。

助けなくてはならない。

そんな感情があの言葉を

導いたのかもしれない。

最初に会った時から何か不思議な

理屈ではない何かが起こっていたのでは?

そんな気がしてならない。

麗はその気持ちを大事にしたかった。

それから暫く、カフェのパートを休み

圭介の “ 記憶辿り” に同行することになる。

今日も噴水の前で待ち合わせている。

時間になると、

またいつもの格好で圭介は現れた。

「麗さん。もう本当に…。」

もう今日で3回目だ。

過去の2回は全く手掛かりなし。

噴水近くで歩く人達に聞き込みしたが

当たり前のように成果はない。

『約束したでしょ?』

『それにこのままじゃ、私もすっきりしない。』

『ねぇ!ダメ元で図書館行ってみない?』

「図書館…ですか?」

『そう!ひょっとして貴方の記憶って、ずっと昔のことじゃないの? 前世とか。』

「前世? いや、だったら尚更…。」

『やるだけやってみようよ。どのみちお手上げなんでしょ?』

何故そんなに拘るのか?

麗にも分からなかった。

でももう、この思いに従うと決めていた。

二人はそのまま、中央図書館へ向かった。

図書館は平日の午前中ということもあり

閑散としていた。

『郷土資料のコーナーは…。』

麗は迷わずそこを探す。

圭介は少し呆れ気味に後を続く。

部屋の隅っこにそれはあった。

棚ひとつ。およそ200冊程度だが

北海道の歴史、札幌の歩みなど

アイヌ民族や開拓の歴史について

書かれた本達が並んでいる。

『圭介さんも調べてみて!』

麗に促され、圭介も一緒に書物へ目を通す。

しかしどの書物にも、

“ サヨ ”という名前はもちろん

男女の出会いを示す事柄は

書かれていなかった。

「まあ、仕方ないですよ。」

圭介は落胆する麗を励ます。

『何か立場が逆ね。』

麗は自嘲気味に笑った。

諦めて立ち去ろうとした時

二十歳くらいの女性と擦れ違った。

先程、受付にいた女性だ。

返却された本を所定の棚に戻している。

その中の一冊を郷土資料コーナーへ。

麗は気になってそこへ向かい

その本を手に取った。

およそ1cmほどの厚み。

表紙と裏表紙は薄紫色。

背表紙には、《トクとサヨのお話》

と、書かれていた。


◇◆

昔々、まだこの地が開拓されるずっと前。

ある民族がここに暮らしていた。

木々が鬱蒼と生い茂る森の中で、

エゾシカや野うさぎなどを捕らえる。

この大地の真ん中を流れる大きな川で

鮭やイワナなどを釣り上げる。

捕らえた動物たちの皮で

身を纏う衣服を確保する。

そうやって生活をしていた。

彼らはこの広大な土地に

幾つかの集落を作った。

1つの集落に50人程度、

おおよそ100km程の間隔をあけて。

集落は家族、もしくは血縁で構成された。

それぞれの集落は定期的に交流を持った。

元々は近親で濃くなり過ぎた血を

薄める目的があったらしい。

ここに、ある集落へ向かう子供たちがいた。

男女合わせて数名。年の頃は10歳くらい。

およそ100kmの道程を3日掛けて移動する。

熊や狼などの外敵から身を守り

無事に辿り着くことが出来れば

一人前と認められるのだ。

その中にいる1人の少年。

名を “ トク ”と言う。

勇敢でみんなのリーダー的存在だ。

『よし。みんなもう少しだ。頑張ろう!』

目的の集落が近づき、足取りも軽くなった。

彼らは、“ イサリ ” という集落から来た。

そしてこれから向かう集落は、“ ムサイ ”

と呼ばれている。

そこで彼らは大歓迎を受けることになる。

《遠い所をよく頑張ったな。さすがトクだ。父上は元気か?》

集落(ムサイ)の長(おさ)が長旅を労う。

トクの父はイサリの長。彼はその息子だ。

『ありがとうございます。父は元気です。長によろしくと申しておりました。』

《そうか。久しぶりに会いたいの。まあ今日はゆっくりして行ってくれ!》

そう言う長の後ろに1人の女の子が。

年の頃は、トクと同じくらいに見える。

《なんだ。ここに居ったのか。ほれ、挨拶なさい。》

少し照れながらその子は言った。

「…サヨです。よろしく。」

…その日、着いたのは夕方だったので

直ぐに宴の準備がされた。

先程紹介された女の子は長の娘であった。

だが積極的に働いている。

周りの大人や

子供たちに混じって楽しそうだ。

常に笑っている印象がある。

《さあみんな!今日は遠慮なくやってくれ!》

長の号令で長い宴が始まった。

大人達がトク達の周りに集まった。

そして歓迎と労いの言葉を掛けていく。

トクは大好きな焼き鮭を腹一杯食べた。

宴も落ち着いた頃、

満腹で寝転んでいる所へサヨがやってきた。

「他の集落は初めて?」

相変わらずニコニコ笑っている。

『ああ。そうだよ。』

「いいな。私はまだ何処にも…。」

『君は特別だろ? 急ぐことはない。』

「特別じゃないよ。私はみんなと一緒がいい。」

『分かる気もするけど…。』

「ねえ!トクって呼んでもいい?」

今までの話が無かったかのように

サヨは突然、そう尋ねてきた。

その突拍子のなさが自然で

トクは無意識に頷いていた。

トクとサヨはこうして出会ったのである。


それから暫く、

イサリとムサイの交流は続いた。

この大地には幾つかの集落があるが

それぞれ関係は区々だった。

友好関係もあれば敵対している関係もある。

しかしイサリとムサイは長(おさ)同士

固い絆で結ばれている。

イサリは、現在の札幌付近。

ムサイは、苫小牧周辺である。

この間を歩いて行き来するのは

本当に大変だったと思う。

しかし、トクたちは続けた。

サヨの住む集落ムサイは

この大地の言わば聖地だったからだ。

だから友好関係にあるイサリは

定期的にこの場所を訪れ、外敵などから

この地を守らねばならなかった。

この関係は永遠に続くものと思っていた。

しかし思わぬことから、この蜜月は

少しずつ欠けていくことになる。

特別な聖地ムサイ。

その長の娘であるサヨは

やはり特別な存在であった。

いづれはこの集落の後継者となる。

彼女自身は天真爛漫な性格もあり

自分の立場を誇示することはなかったが

周りではキナ臭い動きも。

集落内にもサヨを快しと思わぬ者もいる。

長の弟などは最たる例だ。

虎視眈々と長とサヨの失脚を画策していた。

初めてトクとサヨが出会ってから

8年の歳月が過ぎていた。


胸騒ぎがして先を急いだ。

トクは今日も聖地ムサイに向かっていた。

いつもの定期訪問だが

良くないことが起こる気がして…。

仲間は先に行かせているが

気になって仕方ないのだ。

目的地まで後10km程のところまで来た時

前方から人が走ってくる。

誰だろう? 身構えた。段々と近づいてくる。

女だ。見覚えがある。サヨ?

サヨだった。

いつものにこやかな表情はなく

泣きそうな顔で懸命に

こちらへ向かって来る。

「トク!」

あ!転んだ。

そしてその後方からは

地を蹴る追手たちの足音が聞こえる。

トクは素早くサヨを抱き起こし

手を引いて森の中へと走った。

ひたすら走った。

どこを、どれだけ進んだか。

全く見当が付かなかった。

とにかくサヨを守りたかった。

限界が近づいた頃、水辺が見えた。

湖だろうか?

二人はそこで一息付くことにした。

『サヨ!何があった?』

「…。」

膝を抱えたまま何も言わない。

『追われていたのか?』

『どうして、サヨが…。』

顔を伏せて、起こそうとしない。

トクは暫く、

そっとしておくことに決めた。

間もなく日が暮れる。

どこか寝床を探さなくては…。


湖の近くに人が

数人入れるほどの洞穴があった。

石で火を起こし作った松明で中を確認する。

先客はいなかった

そこにサヨを連れて一緒に入る。

トクが移動時に持ち合わせていた

水や食料をサヨに与える。

外敵から守るのと暖を取る目的で

念のため洞穴の入り口に火を起こした。

渇きと空腹が満たされ

サヨは少し落ち着いたようだ。

『大丈夫か? 一体何があったんだ?』

サヨは何かを振り切るように

居住まいを正した。

「私が持ち帰った木の器が…。」

そこまで話してサヨは口をつぐんだ。

まだ迷っているようだ。

いやこの現状が理解出来ないのか?

『サヨ!大丈夫だ。話してくれ。』

サヨは暫くこちらを見つめ

もう一度、意を決するように話し始めた。

「暫く前、森へキノコ狩りに行ったことがあって、その時に面白い形をした木製の器があったの。」

「私はそれがどうしても気になって、村に持ち帰った。」

「みんなも最初は面白がって、手に取って見ていたけど、そのうち少し気味が悪いと言い出して…。」

サヨが言うにはその後、話が大きくなって

これを持ち帰ったものは獣の化身だ!と

みんなが騒ぎたて始めた。

そこへサヨが名乗り出ると

それならばと一時、話は収まりかけた。

しかし長の弟は黙ってなかった。

誰であろうと村に災いをもたらすものを

野放しにしてよいのか?

そう言って長に詰め寄った。

そして有ろう事か、

その場で長を切りつけた。

そこから長の弟による謀反が始まった。

既に村の半数近くを味方に付けていたのだ。

長の弟は逆らうもの達を次々と切りつけ

終にはサヨに襲い掛かってきた。

そこへ先に赴いたトクの仲間が遭遇。

応戦の末、彼らも倒されてしまった。

サヨは命からがら逃げてきた。

これが事の顛末であった。

「ごめんなさい。トクの大事な仲間も…。」

俄には信じ難い話だった。

しかし長の弟は以前からトク達にも

あまり友好的ではなかった。

ただ、ここまでするとは…。

『話は分かった。サヨ、イサリに行こう。私が守る。』

サヨは泣きながら頷いた。


追手を惑わすため

イサリへの道順を変えた。

正規のルートではなく

山側を通って向かう。

難所が多く、二人は疲弊したが

何とかイサリまで、

あと数キロの所までやってきた。

『サヨ。もう少しだ。』

サヨは無言で頷いた。

かなり疲労が溜まっているのだろう。

先を急ごう、そう思った時

“ 居たぞ!”

いつの間にか直ぐ後方まで

追手はやって来ていた。

「トク!」

サヨが泣きそうな顔でこちらを見る。

ここまでか。仕方ない。

ただ何とかサヨだけは…。

トクは覚悟を決め

サヨの両肩に手を置いた。

『サヨ!よく聞くんだ。ここから暫く行った所に紫色の花を咲かせる木がある。そこで待っていてくれ!』

「トクは?」

『俺はここでやつらを食い止める。』

「じゃあ、私も!」

『サヨ。頼む。言うことを聞いてくれ!必ず、必ず俺も直ぐ行く!』

サヨにはそれが

捨て身のことだと分かった。

しかし…。

『サヨ!俺を信じろ!早く!』

意を決し、走った。

振り返らずに。

『ウォー!』

背後でトクの雄叫びが聞こえた。

涙が溢れた。どうしてこんなことに。

私のせい…。ごめんなさい…。

トク。お願い。生きて!

そう願いながらサヨは走った。

もう息が続かない。

そう思った時、

前方に薄紫色の綺麗な花を纏った

一本の木が見えた。

これね。本当にポツンと。

誰かが植えたのだろうか?

特徴的な匂い。

とても落ち着く。

トクはいつもここで。

そう思うと再び涙が溢れた。

でも今は信じて待つしかない。

どれほど時が経ったろう?

サヨはその木の根元に

もたれ掛かるようにして眠っていた。

長旅の疲れが出たのだろう。

“ 大丈夫か! ”

誰だろう?

次第に覚醒する中

ぼんやりと相手の顔が見える。

まだ若い。サヨと同じくらいか?

“ 気付かれたか。どうなされた? ”

状況が甦る。

「私は…ムサイから来ました!」

サヨは吐き出すように話し始めた。

これまでの経緯をただ夢中で…。

“ トクが…。分かった、これから長に伝え直ぐに援軍として向かう!”

「お願いします!どうか、トクを!」

サヨの叫びに青年は背中で答えた。


その後、サヨからの

知らせを聞いたイサリ軍は

ムサイの反乱軍を

圧倒的な力で滅ぼした。

しかし、一人立ち向かったトクは

反乱軍によって命を奪われた。

最後は仁王立ちのまま

サヨの待つ紫色の木に向かって

事切れていた。

微笑んでいたそうだ。

サヨは哀しみの中、トクの遺骨を

あの木の根元に埋めた。

そして来世での再開を願い、そこで

その生涯を終わらせたのである…。


読み終わった後も

二人は暫く放心していた。

物語の中のトクとサヨに

すっかり感情移入してしまったのだ。

まるで本当にあった話のように…。

『圭介さん…。』

横を見ると圭介は涙を流していた。

本人も何故かは分からない。

ただ止めどなく流れてくる。

まるで自分が経験したことのように。

哀しさ、悔しさ、愛しさ…。

様々な感情が湧いては消えた。

麗はただ見守るしかなかった。


図書館から出た二人は

再び大通公園へと向かった。

その道中、二人は一言も話さなかった。

あの物語を何度も噛み締めていた。

圭介はもちろんのこと

麗も心に言い知れぬ思いを抱えていた。

ここが気になると圭介が言った場所。

そこに辿り着き、

二人は側にある噴水の縁に腰掛けた。

「ここには、そういう意味があったのか…。」

圭介がしみじみ語る。

「貴女をサヨと呼んだことも…。」

そう言って麗を見つめる。

そして…強く抱き締めた。

「長いこと…待たせてしまったね…。」

麗は抱き締められ、次第に

心の中の何かが溶けていくのを感じた。

今、この瞬間二人は

果てしない時を越えて

何度目かの再開を果たす。

しかしそれはいつも変わらぬ思い。

愛しい人の温もり。

あの時、嗅いだ紫色の花の香り。

そして離れても尚感じる、最愛の薫り。

麗の瞳からも熱い涙が溢れた。


残暑というには余りにも暑い日。

8月が終わりに近づいても

すんなり秋へ、とはいかないようだ。

麗は今日もカフェでのパートだ。

この日も珍しく忙しい日だった。

図書館での出来事から

1ヶ月の時が過ぎていた。

あれ以来、連絡を取っていない。

二人ともに複雑な

感情があるような気がする。

仕事が終わりスマホを確認する。

着信。彼からだった。

やはり少し嬉しい。

店を出て大通公園へと向かい

ベンチに腰掛けて通話ボタンを押した。

『もしもし!お久しぶり。』

「…。」

『もしもし…?』

繋がっているのに何も言わない。

どうしたのだろう?

もう一度呼び掛けようとした時。

「真嶋です。」

女性の声だった。

「真嶋…菫と申します。」

顔が強張るのが分かった。

知られてしまった、という気持ちと

彼はどうしたのだろう?

という気持ちが、綯い交ぜになった。

『はい。』と言うのが精一杯だった。

「圭介の…主人の記憶が戻りました。」

『…。』

何も言えなかった。

その時の感情を

何と表現したら良いだろう。

良かった、という安心感。

やはりか、という納得。

これで終わったのだ、という寂寥感。

「貴女には随分とお世話になったようですね。」

「本当に感謝しております。」

「ただ…もう…今日限りで。」

分かっている。

それはそうだろう。

ただ一つだけ。

『圭介さん…ご主人はどうされてますか?』

「1週間前から仕事に戻りました。」

「元気にしております。ただ…貴女の記憶は…。」

「この電話も彼は無くしたと思っています。このまま解約します。」

「だから…お願いします。これっきりで。」

『…分かりました。』

麗は何とかそれだけ言って電話を切った。


…今年は数十年ぶりの猛暑だという。

麗は数年ぶりに大通公園を訪れた。

あの出来事以来、ということになる。

今回はベビーカーを押しながら、

ではあるが…。

あれから夫と話し合い

少しずつ関係を修復した。

それはやはり圭介とのことが

大きく影響していたようにも思う。

もちろん暫くは引き摺った。

彼を運命の人のように

思っていたのだから。

しかし彼には家庭がある。

私にも…。

否応なしに気持ちを整理するしか

なかったとも言える。だが、

タイミング良くこの子も授かった。

これも運命なのだ、と

やっと思えるようになった。

それにしても暑い。

麗は噴水に向かう。

近くによると水しぶきが掛かる。

娘も、キャッキャと喜んでいる。

『気持ちいいね!』

そんなやり取りの中

噴水の向こう側に一人の男性が…。

後ろ姿だが間違いなかった。

ジーパンにバンダナ。

麗は引き寄せられるように

男性の方に向かった。

あの場所…。

ライラックの咲いていた…。

あの人と私の場所…。

「可愛いね。何歳?」

男性は優しい笑顔で微笑みかける。

『一歳半になります。』

麗が変わりに答える。

懐かしい…でも変わってない。

あの時のまま…。

「そうですか!いい子だね。」

にこやかに笑いかける。

『撮影ですか?』

首から下げたカメラを見ながら尋ねた。

「ちょっと気になりましてね。」

『え?』

「いや、この場所が…気になってしまって。」

「何度も来てるのに…。不思議ですよね?」

“ 違うの。そこには意味があるのよ。”

麗は心の中で叫んだ。

『お花、綺麗ですもんね。』

「ああ、紫陽花!確かに。」

そう言って男性は笑った。

『それじゃ。』

麗は踵を返し、

振り返らずにその場所を離れた。

また、来世でね…。






































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