オムツが外せなくても、幼稚園に行けると思っていたら
手土産を持参する時は、紙袋に入れる。一般常識なのに、なぜそれをやらないのかと。似たような話を、これまで腐るほど言われてきた。我ながら、なかなかの世間知らずだと思う。
世の中には、知らないと損をすることが腐るほど多い。ならば、義務教育で教えてくれたらいいのに。国語・算数・理科・社会。どれも大切な学びであることは間違いない。けれども、この世で滞りなく生きていくには、5教科と同じくらいに礼儀や常識も大事な気がする。
そう誰かに伝えると「そういうことは普通、家で教えてもらえるものだよ。親に教えてもらえなかったの?」と、諭されてしまう。その度に、私が育った環境は普通じゃないのかと落ち込んだ。
本当の意味で「世間に疎い」と理解したのは、自分が子育てをし始めてからだ。
あれは、幼稚園の見学・体験入学に参加していた頃のこと。園長先生より、帰り際に「うちでは無理です。療育施設を当たってください」と断られた。
園長先生に目をやると、困った様子で眉根を寄せ始める。園長先生の隣には、オロオロとした様子の若い先生が立ちすくんでいた。何も悪いことはしていないつもりだ。私は今まで、何か不味いことをしてきたのだろうか。
娘を幼稚園に行かせたい。ただそれだけだった。けれども、そんな私の想いが先生たちをずっと困らせていたのだ。
そもそも幼稚園や保育園は、どこの誰もがエスカレーター式に行けるものだと思っていた。それが違うというのも、この時初めて知る。
娘は困った様子の私たちを見て、ケラケラと笑う。娘よ、ここは笑うところではない。けれど、私から何も注意できなかった。この年、娘は既に2才。私の言葉は理解できないし、言葉も話せない。勿論、叱れなかった。
「どうしてオムツ、自分で取れないの。喋れないの。歩けないの……」
すっかり重たくなったベビーカーを押しながら、私は途方に暮れる。
◇
幼稚園の見学や、体験入学には何度も訪れていた。体験入学には若い先生がいて、娘と顔を合わせる度に「おはよう、みゆちゃん(仮名)」と優しく声をかける。娘はきゅっと口を顰めて、こくりとお辞儀をする。
先生はそんな娘のことを、温かく受け入れてくれている。でもそれは、私の思い過ごしだったのかもしれない。そう理解したのは、それからしばらくしてのことだ。
保育園の体験入学が終わり、いつものように帰ろうとすると、園長先生に声をかけられた。
「申し訳ありませんが……。オムツを外せなくて、話ができない子は入園、ちょっと厳しいかもしれません」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
そう答えると、園長先生は渋い顔をして「発達が遅れている子向けの療育施設がありますので……」とだけ答えた。園長の目が泳いでいる。視点の定まらない園長を見るなり、私は娘の幼稚園行きを諦めた。
◇
娘は、当たり前のように何不自由なく育つものだと思っていた。いい大学に行かせたいとか、英才教育しようと考えていた訳ではないけれども。人並みに習い事も行かせたいし、いつかは塾に通うかもしれない。
だから今のうちに、大学費用や塾のお金も稼いでおかなきゃ。これからの時代、大学へ進学するなら英語も学んでおく必要があるだろう。そう考えた私は、迷うことなく「英語の知育教材」を購入した。
ところが発育の途中で娘が英語どころか、日本語も話せないことに気づく。ここにきて、私の子育て計画が大きく狂ってしまう。
不幸中の幸いとも言うべきか、私が購入した知育教材はステップごとに購入するタイプだったため、途中で退会できた。これがもし途中で退会できないタイプの教材だったらと思うと、今でもゾッとする。
英語の知育教材はダメだったとしても、幼稚園はせめて通えるだろう。その願いすらも、もはや泡沫の夢だった。
娘は幼稚園、通えないんだ。それにしても園長先生から勧められた療育って、どんなところなのか。インターネットで調べると、どうやら発達遅延のある子どもたちがサポートを受けられる場所らしい。
娘は発達が遅れているのか。実は薄々理解していたし、実際に保健所でも何度かそう指摘されていた。その度に、話を聞かないフリをしていた気がする。
目の前にある現実を、素直に受け入れられなかった。その事実に蓋をしたかった。娘の発達は遅れていないし、障害だってないはず。でもそれは、私がそう信じたかっただけ。
親が娘の発育をロクに直視もせず、一体どうするつもりなのか。現実を受け入れないまま、延々と誤魔化し続けていたら、いつか何処かで綻びが出るだろう。
結局、私は2ヶ所の療育施設に申し込むことにした。療育では、寝たきりの子どもなど、さまざまな障害を抱える子たちと出会った。
◇
「頑張ってね」
療育に足を踏み入れると、車椅子の青年がニコニコとした笑顔で出迎えてくれた。
療育は病院と併設だったため、小さな子どもだけではなく青年から高齢の方まで、幅広い世代の方々で犇めきあっている。青年に手を振ってもらった娘は、嬉しさのあまり頬を紅潮させた。
療育に通う子どもたち。リハビリに挑む車椅子の青年。入院中で、ベットに横たわり四六時中ここで生活されている方などなど。この施設には、いろんな事情を抱えている人で溢れている。そして皆、前を向いて懸命に生きようとしていた。その姿に、私も勇気をもらう。
生きるとは、受け入れること。その中で、自分に何ができるのかを知り、一歩踏み出していくのだと。此処で学んだことは、いずれも義務教育で学べなかったものばかりだった。
学校は卒業したら終わりではない。死ぬまでずっと、さまざまな経験や出会いを通じて私たちは学び続けるのだと、此処に来て改めて気づかされる。
娘は療育に通い始めてから、みるみる笑顔になっていく。周りの子たちも、自分と似たような特性があったので、「私と同じだ」と思い、安心したのだろうか。それとも、懸命にリハビリへ取り組む子どもたちの姿を見て、あの子も勇気をもらったのかも。
いずれにしても、娘はまだ何も話せない。娘の本心はわからないままだが、療育に行く日はとびきりの笑顔を見せてくれる。そして私も、遅ればせながらようやく気づく。娘には、療育という環境が合っていたのだと。
思い起こせば、娘は幼稚園の見学では、いつも遠慮がちだった。わんぱくな子ども達を尻目に、すみっこで控えめに遊ぶ娘の姿を見るたびに、胸がちくりと痛む。
周りの子たちはみんな歩けるし、話せる。お菓子だって、スムーズに食べられる。娘は歩くことも、話すこともできない。お菓子を食べる時間も、人一倍かかる。
みんなが食べ終わり他の遊びに取り組んでいる間、娘は1人で申し訳なさそうな表情でお菓子をもぐもぐと食べていた。その度に、私からも「すみません。この子、食べるのに時間がかかるんです」と、先生に向かって言い訳をし続けた。
◇
療育では、先生が両手を広げて娘を出迎えてくれる。
「ここが、みゆちゃんの居場所になってくれたらいいの」
娘は先生を見るなり、笑顔で駆け寄っていく。人見知りじゃなくて、心を開ける人を選んでいたのか。娘の新たな一面を知った瞬間だった。療育で伸び伸びと過ごす娘を見て、思う。ここに来て、本当に良かったと。
今、居場所がないと悩んでいる方へ。ほっとできる場所は、すぐに見つからないかもしれないけれど。諦めずに探していれば、きっとどこかにあるはず。そして、そこにはあなたを暖かく迎え入れてくれる人が、きっといる。
◇
しばらく療育に通い続けたのち、公立の保育園には加配サポートを利用できる施設があると知る。もう幼稚園、保育園についてはすっかり諦めていたけれど。もしかしたら、通えるかもしれないと一縷の望みに賭けてみることにした。
加配サポート付きの保育園に通うには、まず入園申請のために役所へ書類を出さなければならない。お恥ずかしながら、申請には自分の確定申告書類のみが必要だと思っていた。
まさか、夫の就労証明書を勤め先に申請し、用意しなければならないとは。締切ギリギリに書類を全て用意して、駆け足で役所に向かった。
保育園に申し込む時には、第1~3希望まで希望の園を記入する。そこで私は、いくつかの保育園へ見学に行くことにした。
保育園に行くと、小さな子を抱えるお母さんが「今年こそ、本当に保育園行けるのでしょうか?」と涙目で先生に訴えかけていた。しどろもどろの先生を見て、私も気まずくなったことを、今でも覚えている。
保育園の入園手続き期間が訪れていた頃、いつもは穏やかな療育の様子もピリピリしていた。その頃の療育は、ママ達それぞれが「どの園を希望したのか」という話で持ち切りだった。
お互いに腹の探り合いといった様子で、私も自分から「〇〇保育園を希望した」とは言えずじまい。
加配サポートを担当する先生は、保育園にも数人しかいない。それでも、加配サポートを希望するママは多い。保育園の加配サポートは、まさに受験戦争のようなもの。自分が思っている以上に、その枠はあまりにも争奪戦だったのだ。
保育園、無事受かるだろうか。ハラハラする日々を送っていた頃、一通の手紙が届く。手紙を開封すると、第一希望の保育園が無事合格していることが記載されていた。嬉しさのあまり、合格通知を握り締めながら、へなへなとその場に座り込む。
数日経過して療育に行くと、ママたちは悲喜こもごもの様子だった。言葉を交わさなくても、ママたちの表情を見れば誰が受かって、ダメだったのか。一目瞭然だった。
◇
保育園に通い始めた頃も、実は心配していた。そうは言っても、その心配はシャボン玉のようにふわふわしたものだったのかもしれない。
私が、娘の保育園行きを心配していた理由。それは、幼稚園の見学に行っていた頃の「遠慮がちな娘」を知っていたからだろうか。
通い続けて数日したのち、それらの心配もパチンと音を立てて消えていく。
娘が通う保育園は、年少〜年長の子どもが一緒のクラスとなる縦割り式を採用していた。クラスの性質もあってか、年長の子どもたちが娘の面倒を見てくれている。
「できる子が、できない子をサポートしてみんなで助け合いましょう」
誰かが、そう言った訳ではないけれども。あたり一面に、優しい雰囲気が漂ったクラスだと思った。
周りの子ども達は、いつも娘を見るなり「みゆちゃーーーん!」と、笑顔で駆け寄ってきてくれる。みんなから手を引かれて、娘はよちよちした足取りでクラスに向かう。娘はいつもニコニコとしていて、リラックスした表情をしている。そんな娘の様子を見るなり、私は少し安堵した。
◇
保育園通いは、正直諦めていた。けれど娘は今、保育園に自分の居場所がある。まさか、娘にこんな未来が来るなんて。幼稚園を断られた時は、思いもしなかった。
保育園の入園手続きをしていた頃、娘はまだ歩けなかった。4才になった今では、そんな娘も自分の足で元気に駆け回っている。
保育園の運動会では、まだまだ他の子のようには上手く動けず、先生の手を引いてもらってはいるし、玉入れだって先生に「おんぶ」してもらっての参加だった。
みんなと楽しそうに運動会へ参加している娘を見るなり、諦めずに入園申請して本当に良かったと実感している。4才になった今でも、相変わらず言葉は話せないし、オムツも取れていないけれど。
「みゆちゃんは、クラスの人気者ですよ」
先生からこの言葉をもらった瞬間、ほっと胸を撫で下ろす。これからも、楽しく保育園へ問題なく通い続けて、無事卒園できたらどんなに嬉しいだろうか。
他の子どもたちとは、別々の道を歩むかもしれないけれど。今みんなと笑顔で過ごした日々は、娘にとってかけがえのない宝物になるかもしれない。
このまま、どうか無事に問題なく卒園できますように。小さな背中に向かい、私はそっと祈る。
【完】
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