自分を自分らしく受け止めていく
どのようにしたら、自分の姿を自分らしく受け止めていくことができるのだろうか。イエスの母、マリアの姿からみていきたい。
ナザレという町は、注目されることのない場所であった。何の変哲もない場所。そこで育ったマリアに、神は目を留められた。
ひどくとまどったマリア。そして恐れた。
神はあなたともにいる、という言葉を聞いたとしても、人はとまどい、恐れることがある。
神はあなたに祝福を与えたい。しかし、それがパッと入ってくるわけではない。
どこにでもいるような町で育ち、結婚する予定であった。
しかし御使いは、神から特別に恵みを受ける、と言った。
神がダビデに約束した言葉とおなじ言葉。1000年前の約束を覚えている、それが今あなたを通して実現しようとしている。救い主があなたから生まれるのだ。
特別な言葉だ、と思い驚いたはずである。
マリアの親戚の話。とても身近なことであった。
神ははるか昔の約束の話もするし、身近である親類の話もする。
神の言葉が私に実現するように、とマリアは言った。
ナザレという聖書の地名が出てくるまでは、誰も言い残すことのなかった場所。そこに御使いが訪問して、恵みを受けることを伝えた。
大事な存在である、と神から言われてもピンとこないこともあるはずである。
マリアは疑問を投げかけ、御使いの答えに耳を傾けた。
そして神の約束を信じ、受け入れた。
マリアは特別だったのだろうか。
彼女は普通の人であった。無名で貧しい生活をしている人。
私達も、普通の人であるかもしれない。
しかし神は、あなたは尊い存在である、神の恵みを受けるのに値する存在である、と語る。
神と話し続ける中で、神の見方がわかってきた。
自分の力だけで自分を受け止めるというのは、中々出来ることではない。
神の目で自分を受け止めることがとても大事である。
自分の評価ではなく、神がどう評価しているかに目を向けたい。
それがこの礼拝の大事な時間。
神が私を見てくれる、そして受け止めてくれる。
それを私達は、思い起こしたい。
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