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【ショートショート】樹海
「お兄さん、お兄さん。そんな暗い顔してどうしたんですか。まぁ大体の事情は分かりますよ。よっぽどのことがない限り、こんな寂しい山奥にお一人で来やしませんからね」
ぼくは硬直し、声の発信源に視線を傾けた。
夢?現実?死ぬ間際にはこういうのも見えるのかもしれない。なんせぼくは経験不足、生きるのに疲れて死のうとしてる、たかが13歳の少年だ。
「お名前はなんというのですか」
「川井」
ぶっきらぼうにぼくは答えた。
「なんと、川井さん。私の旧姓と同じですね」
そいつの名前なんてどうでもいい。鬱蒼とした樹木たちも風に揺さぶられ、ぼくの心の声に共鳴するようだ。
「もう一つ教えてください。お兄さんはどうして死のうと思ったんですか」
「周りのやつらがぼくをいじめる」
そいつは鉛のように重い空気をスーッと吸い込み、天を仰いだ。そいつの記憶はあっという間に若かりし頃にタイムスリップしていた。
*
梅雨だ。湿気で蒸れたスーツから1秒でも早く脱皮したい。私は帰路を急いだ。
公衆電話が日本で普及し始めた頃。私はテレフォンカードを販売する会社に新卒で入社。くる日もくる日も真面目に働き、当時としては異例の30歳の若さで課長に昇格した。36歳のときには最年少で部長に昇格。
プライベートでも、上司の紹介でよくできた女性と結婚し、2人の可愛い娘も生まれた。家族を支えようと、ますます仕事に精を出し、終電帰りの日々が3年近く続いた。
そんなある日のこと。
取引先との重要な商談を終え、そのまま会食に行く予定だった。しかし、先方の娘さんの体調がどうも優れないということで無くなった。こんな日はいつぶりだろう。空にはまだ太陽が残っている。腕につけた時計の針は16時32分を指している。たまには家族のためにご飯でも作ろうか。じっとりと濡れた額をハンカチで拭き取って、私は帰路を急いだ。
女房を驚かせようとこっそり居間に入る。すると、そこには素っ裸で見知らぬ男と戯れる女房の姿。
両手に抱えた買い物袋はどっしり音を立てて地面に落ちた。
その後の展開は実はあまりよく覚えていない。きっと予想外の光景すぎて、夢のようなものとして脳が処理しているんだと思う。いや、今でも実は夢だったんじゃないか、と思う時がある。
それが夢か現実かはさておき、一つ確実なことは女房が娘2人を連れて私のもとを去ったということだ。
まるで至極の見せ所を前にして舞台の幕が閉じるように、私の人生は途端に真っ暗闇。もう何も手につかない。全てはあの女のせい。あいつが家族のために寝る間も惜しんで働く私を裏切りやがった…。
なんの希望も見出せなくなった私は、気づいたらこの樹海にいた。そして、苔の生えたがっしりした樹木にロープを結び、首を吊って死のうとした。しかし、死ねなかった。
*
そいつは吸った息を長く吐き出してから、ぼくに言った。
「ほんとにお兄さんはいじめられたから死ぬんですか」
「だからそう言ってるじゃないか」
苛立つぼくにそいつは微笑んだ。
「お兄さんは嘘をついてますね」
「嘘なんかじゃない」
「いや、嘘です。大嘘つきです」
沈黙するぼくにそいつは話を続ける。
「じゃあ、一つ教えてください。お兄さんの周りに他にもいじめられている人はいますかね」
「いる」
「じゃあ、その子は自殺しましたか」
「してない。それがどうしたって言うんだ」
そいつは表情を一切変えずに話し続ける。
「お兄さんは、『いじめられたから死ぬ』と言いましたね。でも、お兄さんの周りには、『いじめられたけど死なない』という人もたしかにいます」
「でも、いじめられたら死にたくもなるだろ?」
必死に反論するぼくにそいつは冷静に答えた。
「それはそうです。でも、実際に死ぬかどうかは別でしょう。結局、お兄さんは『いじめられたから死ぬ』わけでなく、『死にたいから死ぬ』のです。ご自身が死ぬことを選んだのです。なのに、お兄さんは自分が死ぬ理由をいじめっ子のせいにしている」
瞬間、沈黙がぼくたちを覆う。雑草に隠れた虫の声、上空を飛ぶカラスの声、耳を澄ませば消防車のサイレンも微かに聞こえてくる。
すると、そいつが沈黙を引き裂いた。
「犬を見てごらんなさい。たいていの犬は一生鎖に繋がれ、同じ飯を食って生きる。いじめどころか虐待です。なのに、文句一つ言わずに喜んで生きています。お兄さんは鎖にも繋がれてないし、美味いものもたくさん食べられるのに、自分を殺すのですか?贅沢にもほどがあります」
そいつは少し気まずそうな表情をした後、さらに話を続けた。
「まぁ、かくいう私も、女房の浮気を女房のせいにして死のうとしたんですが。ほんとは私が悪かったんです。私は仕事に精を出すあまり、家族を愛することを軽んじていました。私が女房をふか〜く愛すれば、女房が他の男と寝ることなんてなかったんです。それだけじゃない。私は人生でうまくいかないことを、ぜ〜んぶ他人のせいにしていたんです。私の人生は嘘に満ち溢れていましたよ」
どうやら旧姓で川井と名乗るその男は嘘をついて自殺したことで川獺(かわうそ)になったらしい。ラッコの仲間で、魚、貝、カニなどを食べる、体調70cmくらいの可愛い顔したアイツだ。
つまり、ぼくも……それだけはいやだ。立ち去るぼくをそいつは池の中から見送った。
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