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【ショートショート】詰まったビン

「何それ?」

 ぼくが仕事を終えて帰宅すると、ソファに仰向けで寝そべった父が何かを頭上にかかげながら怪しげな笑みを浮かべている。

「おかえり。これか?ものすごいもの、見つけたんだよ」

 それは、ラベルを剥がして捨てる直前のなんの変哲もないパスタソースのビンのように見えた。

「だから何なのさ?」

「とにかくすごいんだ。友人が売ってくれたんだけど、こんなものが世の中にあったとはな。お父さん、全然知らんかったよ」

 質問に全く答えない父に少し苛立ちながらも、ソファに寝そべる父に脚を折り曲げさせ、空いたスペースに腰をかける。何度か曖昧な言葉のキャッチボールを繰り返した後、父はとうとうぼくの質問に答えてくれた。

「これは『信頼のビン』というものだよ。このビンの中には信頼が入ってる。蓋を開けて中に入った信頼を一気に飲み込むと、周りの人から信頼される人間になれるんだ。効果は抜群だったぞ」

「父さん、使ったの?」

「ああ、使ったさ」

 父は『信頼のビン』を使ってからというもの、職場での人間関係がうまくいくようになったらしい。本当にそんなことがあるのだろうか。

 空っぽのビンの内側を訝しげに覗き込みながら、ぼくは尋ねた。

「うーん、にわかには信じられないんだけど、ちなみに、その信頼ってのはどんな形をしてたの?」

「形はなかったぞ。飲む前も後も、ビンの見た目は何も変わってない」

 父の発言にすっと鳥肌が立った。もともと何も入っていなかったに違いない。そんな小学生の遊びのようなものに騙されている父が情けなく思えた。

「ちなみに、いくらだったの…?」

「三十万円だ。少々値は張ったが、これで信頼を得られるなら安いもんだろ。信頼っていうのは全ての利益の源泉だからな。何倍にもなって自分に返ってくる」

 父の子どもであることを辞めたい気持ちに襲われた。同時に、それほどまでに悪質な詐欺をした人に対する憤りがこみ上げてきた。悪徳商売にも程があるのではないか。

 しかし、ぼくの中にこみ上げてきた憤りとは裏腹に、目の前には詐欺に遭って苦しむわけでなく、むしろずっと欲しかった信頼をたったの三十万円で手にして大喜びしている父がいる。ということは、本当に信頼がこのビンの中には入っていたのか。いや、でもそんな馬鹿なことがあるまい。

「ちなみに『信頼のビン』だけじゃなく、『希望のビン』や『勇気のビン』も売っているらしいぞ」

「『勇気のビン』…?」

 幼い頃にぼくに投げつけられた一言が脳をよぎる。

 幼稚園のお遊戯会でのことだ。当時ぼくが母から何度も読み聞かせてもらい大好きだった絵本をモチーフに、演劇をすることになった。ぼくは主人公に強く憧れていたので、その役をやりたかったのだが、全然うまくできる自信がなくて結局、地味で目立たない木の役に立候補したのだ。演劇は大成功した。しかし、喜びも束の間。演劇が終わった後、ぼくが密かに思いを寄せていた女の子からすっぱりこう言われたのだ。

 −勇気くんって名前と違って全然勇気ないんだね。

 そうだ、ぼくは臆病な人間だ。

 今働いている会社も、ぼくの無難な選択の賜物なのだ。周りのほとんどが無難に大企業へ就職する道を選ぶのを見て、ぼくもその真似をした。本当は役者になりたかったのだが、一部の才能ある人にしか許されない道だと考え、諦めたのだ。今の仕事には特別不満もないが、満足しているわけではない。全てが無難なのだ。

 三十万円は決して安くはないが、それで本当に勇気が手に入るならむしろ安い。もしかしたら詐欺かもしれない。でも、自分の悩みを解決してもらって喜んでいる父の姿が、それが詐欺でないことを証明しているのかもしれない。もしそうだとしたら、このチャンスを逃すのはあまりにも惜しい。

 そう考えたぼくは『勇気のビン』を思いきって購入することにした。

「宅配です」

 数日後、ビンが届いた。「割れ物注意」とラベルの貼られた段ボール箱を開けると、ぷちぷちに包まれた小さなビンがそこにはある。

 ぷちぷちを楽しむ余裕は当然ない。ぼくは生まれたての赤ん坊を抱くような感覚でそのビンを手にとり、包みを丁寧に解く。すると、透き通るビンが顔を出した。脇の穴が開き、腕をつたってすっと汗が流れ落ちる。室内の明かりに照らされたビンは、ぼくの目の輝きが投影されたからだろうか、ダイヤモンドのように強い輝きを放っていた。

 ビンの内側には何も見えない。しかし、本当に価値あるものというのは目には見えないものだ。愛、誠実、信頼、勇気、希望、夢…。きっとこのビンの中には本当に勇気が入っているのだろう。

 ビンの蓋に手をかける。固く閉まっているようで回らない。タオルで固定して全身の力を振り絞り、ようやく開いた。ビンの縁に口をつけたぼくは、そこにある勇気を勢いよく吸い込んだ。いつまで吸い続けたらよいのだろう。ぼくは数分間、吸引力の変わらない掃除機のように吸い込み続ける。

 −勇気くんって名前と違って全然勇気ないんだね。

 ガシャン。ビンはぼくの手から滑り落ちた。

 その声は悪魔の囁きのように脳内で鳴り響く。

 何の努力もせずにお金で勇気を買おうとしている自分は、ただの臆病。三十万円という大金を払う選択は、決して思いきった選択ではない。最高に臆病な選択だ。そんな臆病なぼくが勇気を手にできるはずなんて、ない。

 床に転がったビンに改めて目をやる。今までの輝きはどこにいったのだろう。それは色褪せたただ空きビンに見えた。ただの、ガラクタだ。

 お金で解決しようとした自分が恥ずかしくなった。もうこんな人生、嫌だ。変わろう、自分の力で。

 このビンを「意味のある買い物」にするためには、ぼくが自分の意志で変わらなければいけない。そうでなければ、ただの詐欺に引っかかった、馬鹿者、愚か者だ。

「名前負けしない」

 ぼくは静かに呟いた。

 盛大な拍手が耳を打つ。眩しくて顔はよく見えないが、大勢の人が立ち上がってこちらに拍手を送っている。舞台上に立ったぼくは、深々とお辞儀をする。

 ぼくは役者になった。それも、日本中の誰もが知っている役者にまでなった。

 あのビンを買って後悔したその日から、堤防の限界水位を超えてどっと流れ出る川のように、ぼくの中で押さえつけられ、閉じ込められていた勇気がどっと溢れ出た。止めようにも止められなくなったのだ。

 あのビンの中には、きっと何も入っていなかった。でも、あのビンを買ったおかげでぼくは勇気ある人間になれた。

 ―嘘も真に変えられる、決心さえあれば。

 舞台の両脇から中央に垂れ幕が移動し、暗くなる。幕が完全に閉じるのを確認した後、ぼくは舞台袖に移動し、『勇気のビン』に詰めた水をがぶりと飲んだ。

 そのビンには、ぼくの顔がはっきりと反射して見えた。

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