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【ショートストーリー】バーの片隅で

序章

ここに、ひとりのギター弾きがいる。洗いざらしのシャツに、穿きこんだジーンズを合わせたシンプルなスタイルで、襟元にのぞくネックレスが、彼の唯一のお洒落のようだった。

片手で数えきれるほどのカウンター席と、小さなテーブル席がいくつか。時おり、氷のぶつかりあう静かで涼し気な音が聞こえる。そんなバーの片隅に、彼はいた。しっとりとした穏やかな照明の下で、ひとり静かにギターを弾いているのだった。

彼とギター

彼が弾いているギターは、彼自身よりも、よっぽど長生きをしているものだった。知らない誰かに奏でられ、少しずつ味わいを増していき、そして10年ほど前、彼のもとにやって来た。

それは、彼にとって、安からぬ買い物であったが、そんなことを忘れさせてしまうような胸躍る出会いだった。

あれは、空気の乾いた冬の初めの、黄昏時のことだっただろうか。すっかり軽くなった財布を胸に、楽器店の外に出ると、もう夜の灯りが街中をはなやかに彩っていた。なんとも美しい光の洪水だった。10年ほどが経った今でも、歩道に落ちた枯れ葉を踏むたびに、あの時のときめきが、かすかに胸の奥に蘇ってくる。

バーのギター弾き

彼は今、馴染みのバーの片隅で、丸椅子に腰かけてギターを弾いていた。彼の長い黒髪が、頬に影を落としている。整った唇は軽く結ばれたままで、歌うのはもっぱらギターだけだった。

バーのひっそりとした雰囲気のための、とても控えめな演奏だった。それでも、羽のように軽く美しい音色は、店内の空気に馴染み、溶け込んでいくようだった。

(誰も、僕のギターなど聞いちゃいないよな……)と、彼は思った。

彼がこんなふうに思うのは、初めてのことではなかった。実に、若い頃から、ずっとそんなふうに思っていた。

ギターとの出会い

彼がギターに興味をもったのは、小学生の頃だった。父親のギターを触らせてもらったのが、ことの始まりである。

すっかりギターに夢中になってしまった彼は、暇さえあれば昼夜を問わずギターを弾きまくっていた。彼はギターが大好きだったし、音楽は生活の一部になっていた。

高校に進学すると、友人に誘われて軽音部に入りバンドを組んだ。メンバーたちは、みんなそれぞれ子供の頃から音楽に親しんできた連中だった。バンドの噂はたちまちに広がり、彼らがライブをやれば、沢山の人が集まってくれた。観客たちは熱狂し、彼らのステージを大いに楽しんでいるようだった。

高校時代

ある日、部室で、彼はバンドのメンバーに言った。こんなふうにアレンジしたら、この曲はもっと良くなると思うとか、そんな内容のことだった。彼の提案に、バンドメンバーも乗って来ると思っていた。でも、目の前にいる彼らの反応は、とても小さく、はっきりとしないものだった。

部室の中に、ぎこちない空気が漂った。彼は、それまでにも、ちょっとした温度差のようなものを、バンドメンバーとの間に感じたことがあったけれど、この時は、それをはっきりと感じ取ることができた。何か気まずいものを感じ、近所の自販機でジュースを買ってくることを口実にして、彼は部室を出た。

「マジで鬱陶しい」と、部室の中から、メンバーの尖った声が聞こえて来た。「あいつ、何様だよ」

その声は、ボーカルだった。ボーカルは、いつも彼に向かって「お前のギターは最高だ」と笑顔を見せていたのに。

ボーカルは、苛立ったような口調でこう続けた。

「自分の立ち位置、分かれよな。あいつはさ、ただの顔担当なの。女の子を集めるための客寄せパンダなわけ。調子に乗って、アレンジがどうのとか余計なこと言ってんじゃねぇよ。面倒くせぇ」

悲しみの過去

あんなことがあっても、彼はギターを止められなかった。理由はいたってシンプルで、彼は結局のところ、ギターが好きなのだ。

「顔だけではない」と思われるようになりたくて、努力を重ね、技術を磨き続けた。

高校を卒業し、大学に進み、大人になっていった。その間、ライブのステージに上がることも、何度もあった。
ちゃんと聞いてくれる人もいるはずと思いたかった。
でも、女の子たちは、彼の演奏に触れることもなく、ただ、好き、付き合って欲しいと、代わる代わる言うのだった。
本心を隠して笑顔で近づいてきて、彼を利用しようとする人間や、彼を嫌い嫉妬する人間などにも出会った。

(ギターを聞いてくれている訳じゃない)という悲しみは、冷たい水のように、彼の胸の奥に溜まっていき、静かで薄暗い湖を形づくった。

現在・バーの片隅で

今、彼はバーの片隅でギターを弾き続けている。店内には数人の客が、思い思いに過ごしている。

カウンターの端っこの席で、静かに泣いている夫人。

テーブル席で手を重ね合って、お互いのことを見つめ合っている恋人。まるで、恋人以外の存在に興味がないような、そんな夢中な目をしている。

(僕は、ここで何をしているんだろう)

半分、諦めたような気持ちで、少し口元に笑みを浮かべて。ただ、弾くのを止めてしまったら、ほんとうに自分の存在が何なのか分からなくなってしまいそうで。

だから、彼はギターを弾いた。

彼の指が動いている間、彼のまわりには草原があり、せせらぎは陽射しをゆるやかに反射して美しい。あるいは、満天の星空が広がり、月は満ち、欠け、滑るように星のひとつが流れていく。

哀しみがあふれ、喜びが胸に広がり、怒りは徐々に薄れ、憧れが胸を焦がしていく。

その時、彼の後ろの方で、鋭くガラスが割れる音がした。

彼は、一瞬、不快に思ったけれど、ギターを弾くことを止めなかった。

閉店後・カウンターにて

やがて客は引け、バーは店じまいの時間になった。

ギター弾きは、バーのマスターに言った。少し、寂しげな口調だった。

「今夜、僕の演奏を聞いている人は、誰もいませんでしたね」

すると、マスターがカウンターの端っこの、今は誰も座っていない席を見つめて、こう答えた。

「あの席に座っていたご婦人は、1か月ほど前にご主人を亡くしたのです。とても仲の良いご夫婦でしたので、残されたご婦人はとてもとても悲しくて、その悲しみが深すぎて、涙を流すことも出来なかったそうです。ですが、今夜、彼女は自分の心に向き合うことができ、涙を流すことが出来ました」

マスターは、今度はテーブル席に目をやって、懐かしいような、優しいような目をして言った。

「あちらの席に座っていた彼らですが、たまに、この店にいらっしゃるのですがね。お互いに、好意を抱いている様子であることは、こちらから見ても分かるほどだったのですが、勇気を出すことが出来ず、自分の気持ちを伝えることが出来ずにいるようでした。それが、今夜、自分の気持ちを素直に打ち明けることができ、恋人同士になることができたのです」

最後に、マスターはギター弾きを見つめて優しく、しかし、はっきりとこう言った。

「あのご婦人が自分の心に向き合うことが出来たのも、あのふたりが自分の想いを伝えあうことが出来たのも、あなたのギターが、空気のように、そよ風のように、まるっきり自然に、彼らの耳に届き、ゆっくりと心を動かしたからですよ」と。

「そうでしょうか」と、ギター弾きは言った。

「それに、あなたのギターを聞いていた人間が、まるでいなかった訳ではありませんよ」
と、マスターが、何故か子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「先ほど、グラスの割れる音を聞いたと思うのですが」

それなら、ギター弾きにも覚えがあった。あれは、ふいに投げつけられた不協和音のようで、彼は少し不愉快になった。そうか、グラスが割れる音だったのだ。

「あれなんですがね、つい、あなたの演奏に聞き惚れてしまって、わたしがグラスを落っことして割ってしまった音なんですよ。安くない、グラスだったんですが……」

マスターが、困ったような顔をした。さすがのギター弾きも、これには笑わずにいられなかった。

帰路にて

彼はギターを背負って、にじむ街灯の下を歩き出した。

ギター弾きは、とにかく家に帰って、あたたかい布団で、ゆっくりと眠ろうと思った。

あのご婦人も、あの恋人たちも、新しいステージに立つことが出来たらしい。その手助けが、出来たかもしれないのだから、今夜はとても良い夜だったと言える。


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