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No.204 僕の本棚より(5)伝説の漫画雑誌「COMこむ」その1/ 手塚治虫「火の鳥」・永島慎二「青春残酷物語」・石森章太郎「ファンタジーワールド・ジュン」・・・

No.204 僕の本棚より(5)伝説の漫画雑誌「COMこむ」その1/  手塚治虫「火の鳥」・永島慎二「青春残酷物語」・石森章太郎「ファンタジーワールド・ジュン」・・・

二十数年前のことになる。映像関係の仕事に就いたばかりの若き友人タカシくんが、同い年の友人コウタくんを連れて、板橋区の片隅にひっそりと建つ四階建てのビルの僕の自宅にやってきた。タカシくんは何度かこちらに遊びに来ていて、この時はコウタくんと共に僕のマジックを見たいとの有難い申し出だった。

四階自宅で、僕の得意料理「常夜鍋」に、取り箸も無く気さくに、舌鼓を打った。その後、不思議の世界のお裾分けで、タカシくんとコウタくんと共に、マジックを演じているこちらも大いに楽しんだことは、いつもの風景だった。コウタくんともすっかり打ち解けての僕の質問「タカシくんと同じように、映像関係の仕事に就きたいの?」への返答「いえ、漫画家目指しています」を聞き、コウタくんを三階にある僕の書斎に招かねばとの、下手をすれば押し付けがましい思いに駆られた。「コウタくん、タカシくん、ちょっと付き合ってくれる?」

三階の部屋に入り灯りをつける。コウタくん、タカシくんを招き入れ、壁際一杯の作り付けの本棚の左側上に整然と並ぶ雑誌の背表紙に視線を移すと、二人の目も釣られて見上げる形になる。「これって・・・『COMこむ』ですよね?」思った通り漫画家志望のコウタくんの目が輝く。「うん、付録の『ぐら・こん』手塚治虫の『罪と罰』『弁慶』も含め、全巻揃っているよ」僕の返答に、コウタくん「初めて見ました!『COMこむ』が全巻揃ってるなんて!」タカシくんが話に加わる「信也さん、この漫画の本、そんなに有名なんですか?」

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「COMこむ」昭和42年(1967年)から昭和48年(1971年)まで5年間刊行の月刊誌、昭和50年(1973年)1号だけ復刊された。付録を含め合計で68冊、僕が小学6年生、間もなく中学生になる時から、高校生活を終えようとしている青い春の一期間に接し、僕の価値観の一部を形成してくれた漫画雑誌である。表紙に謳われた「まんがエリートのためのまんが専門誌・COMこむ」が目指した熱き思いは、この雑誌の中心的役割を担った手塚治虫の「創刊のことば」に現れている。全文を引用させていただく。

「創刊のことば」
COMーそれはCOMICS(まんが)の略。
COMーそれはCOMPANION(仲間・友だち)の略。
そしてCOMMUNICATION(伝えること・報道)の略。
つまりまんがを愛する仲間たちに、まんが家の本当の心を伝える新しいコミック・マガジンーそんなことを考えて、わたしたちはこの雑誌のタイトルを「COM」ときめた。
今はまんが全盛時代だといわれている。だが、はたして質的にどれだけすぐれた作品が発表されているのだろうか。まんが家の多くは、苛酷な商業主義の要求の前に屈服し、追従し、妥協しながら仕事に忙殺されているのが実情ではないだろうか。
わたしは、この雑誌において、ほんとうのストーリーまんがとはどういうものかを、わたしなりに示したいと思う。同時に、かつての「漫画少年」のように、新人登竜門としてこの雑誌を役立てたいと考えている。「COM」はまんがを愛する仲間たちの雑誌である。
月刊雑誌「COM」を、そうした意味で、読者のみなさんがかわいがってくださるようお願いしたい。
 昭和41年12月1日 手塚治虫

こうして「COM」創刊号で「火の鳥」第一部・黎明編」の中に手塚治虫の情熱を感じ、青春漫画の鬼才永島慎二の作品に痺れ、他の漫画雑誌では感じられなかった石森章太郎の才気煥発に驚き、読者投稿のコーナー「ぐら・こん」の熱情を浴びた。

マカロニウェスタンやスパイアクションなどの娯楽映画から、キネマ旬報などで評価が高い芸術映画にも興味が湧きつつあった(No.191 No.192 No.194 No.195 No.197)小学校高学年から高校生の時期と重なるように「COM」が発刊されたのは、僕にとって幸運であった。「COM」に掲載された作品群は、映画や小説に刺激され漫画のなし得る表現方法を広げようとする意欲的な漫画家たちの情熱に溢れていた。

既に漫画界の大家であった手塚治虫は、「火の鳥」の展開を、過去と未来を繋ぎ自分の死の間際に物語を終えると明かし、己のライフワークにすると宣言した。残念ながら「COM」の終刊までに物語が終わらずに、その後「マンガ少年」や「野生時代」で描き続けられるも未完となってしまった。「COM」に掲載された中では壮大な構想の「未来編」、我王と茜丸二人の主要人物の対比が見事だった「鳳凰編」、ミステリーな展開の「宇宙編」が好みだった。

石森章太郎(後に石ノ森章太郎に表記変更)の「ファンタジーワールド・ジュン」「サイボーグ009・神々との闘い編」は、こちらが幼かった故か、自己陶酔の罠に堕ちたような抒情性についていけない時もあったが、大胆なコマ割りと構図で示される漫画の可能性の広がりにはクラクラさせられた。

「COM」創刊時、永島慎二は貸本漫画を通じて一部のファンには知られた存在だった。創刊号「かたみの言葉」第2号の「人形劇」、二つの「黄色い涙シリーズ青春残酷物語」に垣間見えた永島慎二の人を見る目の優しさは僕の琴線に触れた。そして、第3号の「青春裁判」の最後のコマを見た後に、思わず顔をあげ「青春の苦さ」に唸ってしまった記憶が鮮明だ。少年誌では得られなかった種類の感動がそこにあった。

僕には初見の、マニアには既に人気のあった他の漫画家たちの、短編小説の趣のある作品群にも心打ち震えた。あすなひろし「300000km/sec」、みやわき心太郎「晩夏」、矢代まさこ「ノアをさがして」、長谷邦夫「盗作世界名作全集・変身」、藤子不二雄A「白い童話シリーズ・万年青(おもと)」、大山学「オリエント急行」など、今でも作品名をそらんじることができる。

小学校低学年の時から購読していた「ぼくら」「少年」「少年サンデー」「少年マガジン」…それまで僕が接してきた「少年漫画」とは違う世界を「COM」は与えてくれた。その後「ガロ」や「ビッグコミック」なども不定期に購入したのだが、現在僕の手元には無く、全て古新聞と同様の運命を辿っている。

僕と同世代の方で「あの頃の漫画雑誌をとっておけば良かった」と、後悔に近い思いを抱いている方も少なくないだろうが、冷静に判断すれば保管場所の問題もあっただろう。そして、漫画に限ったことではないが、年平均10%を超える経済成長率を世界に誇った高度経済成長時代には「大量生産大量消費」がもてはやされ、娯楽映画・テレビ番組・ゲームや玩具など「一過性の娯楽」の多くも、この暗黙の了解の渦に巻き込まれて廃棄の憂き目に遭っている。

そんな世間の風潮を意識して反発した訳ではないが、「COM」は消え去り費やされるものではなく、手元において愛したい存在だった。童話作家長谷川京平やイラストレーター和田誠による表紙絵や、やなせたかしなどの挿し絵も捨て難かったし、手塚治虫や永島慎二の作品群の収録もあったが、それらだけが保管しておいた理由ではなかった。

「ぐら・こん」Grand Companionと称して、創刊号より開始された読者投稿欄より出でた若き漫画家たちの熱情に感動して、僕より一回りほど年配の漫画家たちが、これから何を語っていくのか、どのように羽ばたいていくのか見届けたかったのかもしれない。自分の青春の一部は「消費」され尽くさなかったのか、僕は今でも「青い人」だ。

・・・続く

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