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No.194 僕の映画ノート(4)「世界映画作品大辞典」バイブルとの出会い

No.194 僕の映画ノート(4)「世界映画作品大辞典」バイブルとの出会い

No.192の続きです)

中学3年生の春、故郷福島県いわき市小名浜の映画館「銀星座」で観た「俺たちに明日はない」の衝撃は大きかった。暗いスクリーンの中に煌めいていたこのような宝石は、過去にも作られたはずだ、今この時間にも作られているはずだ。全ての映画作品が輝きを放つわけでもないのは分かっているし、自分を捉える主題やストーリーは把握しつつあった。それでも見る気になれない作品の中にも、素晴らしき出会いがあるのではないかという思いも捨てがたく、銀星座で上映される洋画には全て足を運び、邦画も積極的に観るようになっていった。

男優女優の写真をメインに編集した雑誌「スクリーン」から、映画作品の紹介記事で溢れる雑誌「キネマ旬報」が、中学3年生の僕の愛読書の一つとなった。表紙と映画の宣伝ページにだけカラーの写真が使われていて、巻頭数ページの白黒写真と細かい文字で埋め尽くされた記事が「硬派」の言葉を連想させて、映画の世界への階段を一つ登った感触を持った。

市立小名浜第二中学3年生、高校受験に向けて頑張っていこうという雰囲気の中、僕は塾に通うなど特段受験に向けての学習も全くせずに「キネマ旬報」を読み、映画館に通い、マジックの専門書に魅了され、4年間のみ発行された漫画雑誌「COM」(こちらの話は稿をあらためて書きます)の熱さに感動する日々を送った。そして、小名浜から公共機関で一時間ほどの距離、いわき市の中心の街「平(たいら)」にある福島県立磐城高等学校に合格して、バスと電車で通学するようになった。

高校入学後の生活の中心は、クラブ活動での卓球となっていった。そんな時、まるで僕の映画への熱情を切らさんと言わんばかりに「キネマ旬報」宣伝ページに「臨時増刊・世界映画作品大辞典発刊!」の文字が目に飛び込んできた。発刊日が待ち遠しく、実家すぐそばの「柏屋書店」でこの本を手にした時の表紙コーティングの滑らかな感触は今も手に残り、次に続いた高揚感でおそらく僕の顔は輝いたことだったろう。1970年昭和45年、僕が高校一年生の春、この本は僕の「バイブル」となった。

15ページに及ぶ写真グラビア「戦後世界映画の流れ」に始まる「キネマ旬報・世界映画作品大辞典」は、まさに「大辞典」で200ページ弱に渡る五十音順有名邦画洋画紹介の他に「戦後映画世界史年表」「戦後公開日本映画・外国映画総リスト」「アカデミー賞41回の記録・主要部門ノミネート一覧」などで構成されていた。

魅力に溢れた記事・記録の中で、僕の心を鷲掴みにしたのが「キネマ旬報年間ベストテン一覧」だった。1924年大正13年、映画はまだ声を獲得していない、すなわち夢声映画の時代に「キネマ旬報ベストテン」が始まっているのも驚きだった。

母ユウ子が最も好きな映画の一本にあげた「女だけの都」が、1937年昭和12年度の外国映画の第一位に輝いていて嬉しかった。「フランス映画なんだ。監督はジャック・フェデーって名前なんだ。『浪華悲歌(なにわエレジー)』この映画のこともユウ子母が触れていたな。父武が好きな黒沢明監督の『酔いどれ天使』も日本映画の一位になっている」時の経つのを忘れて、飽きずに、いつまでも読んでいることができた。

何百本にも及ぶベストテンの映画の中で、自分の観た映画の題名をマーカーで塗ってみる。この時点での最新のベストテンが1969年昭和44年だった。前年、前々年を中心に20本程度の本数の作品だけがピンクの色を付けられただけだった。ここに眠る宝石のいくつに出会えるのだろう?そもそも自分の中で輝く石なのだろうか?テレビ「日曜名画劇場」で昔の名画を観る機会は少しはある。街の映画館で上映されそうな映画はほんの少しと思われた。

キネマ旬報ベストテン作品群は、海の向こう遠くにあるものか、海の底深く沈んでいるものなのか、いつの日にか手の届くところにあるものなのか、自分が足を運べば会えるものなのか?高校生の僕には「いつの日か会える恋人、友人たち、親しくなれる奴ら」と想えるも、会える日は来ないような、掴みどころのない存在だった。できるだけ多くの出会いを作ろう。ピンク色のマーカーでその名前を埋め尽くす日を夢みた。

・・・続く

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