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「転がる香港に苔は生えない」星野博美の香港と日本と

香港には三回行ったことがある。一回目はツアーで、二回目は個人旅行、三回目は新婚旅行で。新婚旅行のときはバンコクから香港に着いたら、その物価高に辟易してチョンキンマンションに二泊した。


この本に出てくるチョンキンマンションのドア一枚隔てたアパートに住むインド人シスターの話。まさかあのチョンキンの裏にカソリックのシスターが住んでいるなんて、とそのミスマッチに一度でもチョンキンに泊まった経験がある旅行者ならニヤリとするだろう。

「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」ではミッキーローク扮するニューヨーク市警のホワイト警部が盗聴した客家語を訳すためにマカオから二人のシスターを連れてくる。
トニーレオン出演の「非情城市」の舞台は台湾だが、登場人物がそれぞれの言語を話す画期的な映画だ。

関連のないそんなことを思い出すほど香港は雑多だ。

大陸から泳いで密航してきた男が香港にはいる。

「香港とは命を賭けて出てきてしまった人が集合する場所なのだ。穏やかな生活を好む人間は、もとよりこの街には来ない。香港で生きていくということは激しく、騙し騙され、血を流しながら自分の居場所を確保していく闘い。
香港という街は、人間が生きるのに楽な街ではない。生い立ちも背景もまったく異なる人間たちが、箱庭のような小宇宙で押しあいへしあいしながら暮らしている。人とぶつかれば罵声が飛び、言い争いが始まる。」

日本は世界一居心地の良い国と言われるけど、その居心地の良さに居心地の悪さを感じる人だっている。著者はその一人であり、香港にだって嫌なところはたくさんあるけどそれでもこの街を偏愛する女性の物語だ。と書くといかにもありがちなのだけど、いや、わかる、わかるよ、と何度もうなづいてしまうのだ。

「東京は至る所にコンビニエンスストアがあり、便利には違いなかった。しかしそれは、すべての人が冷蔵庫や電子レンジを持っていることを想定した便利だった。彼らが提供する便利の定義を、実は私たちが強いられているのだ。」

という指摘には金魚は自分たちが金魚鉢の中にいることを知らない、という言葉を思い出してしまう。

次の言葉はテレビCMのキャッチコピーのように簡潔にして著者の香港に対する抑えきれない愛をこれ以上はないというほど表している。

「世界に香港があってよかった。私にはあの街が必要だった。」

著者は偶然、日常と非日常が逆転したような深水捗という町に迷いこみ、魅せられてアパートを借りる。そこにある茶餐庁(食堂と喫茶店を足したような店)の店員との片思い。いつしかそこが異国におけるわが家のようになっていく。バックパッカーならその感覚が実感としてわかるのではないか。

(香港返還の)「97年7月1日は私にとって夜空で控えめに輝く北極星のようたな存在だった。自分個人にとっては20代のすべてをその星に照準を合わせて歩いてきたような気がする。」

今はその香港から脱出しようとしている人々がいる。

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