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「人生論に大して意味はない」という話

人生論に意味はない。

まず最初に、この文章を書くことに抵抗があることを記しておきたい。なぜならば「人生論に意味はない」と主張すること自体が人生論だからだ。つまり、この文章は最初からナンセンスなのだ。

さて、そういう結論に至ったわけなので「人生論に意味はない」ということについて長々と書く気力は、もはやこの文章で「まず最初に」と書き始めた時点から消失していたと言っても過言ではない。
それなのでタイトルの「人生論に意味はない」という趣旨の内容は読者諸君が各々日々感じていることから勝手に想像して貰うことにして、俺は「人生論について語ること」について語ることにしよう

人生論は遍在する

人生論はありとあらゆる場面、状況、場所で語られている。古代ギリシアではアリストテレスという頭の良いおっさんが「ニコマコス倫理学」において「正しい生き方(最高善)」なる大層なものを追求し、モーセというおっさんは神を自称するおっさんから「こうすればよく生きれる!的なことが書いてある石板を貰ったわけだが、牛の置物にガチギレしたので叩き壊した。

さて、なにもそこまで時代を遡らなくても人生論はどこにでも存在すると言えるだろう。現代では小説や新聞、Twitter、Instagram、YouTube、果てはNote、そしてこの記事。人がいるところにはそれだけの人生論が存在する。なぜならば何かを語ろうとする人間は現にいま、人生を生きているわけなので、語らずにはいられないのである。

それならば既に死んでしまった者が書いたor発言したものならば大丈夫なのでは?と思うかもしれないが、当然のことながら死人が何かを語れるのは生きている間のことであり、死んでしまっては何も語れない(そういうわけなので俺は是非とも死人にインタビューをしたいと日々切実に思っているが、残念ながら今のところ死人と話せたことはない)。

「X」を「Y」すれば「Z」になる


「〜をすれば人生が楽になる」「〜という考え方をすれば人生が良くなる」「〜を諦めれば楽しくなる」など、人生論はさまざまな形で存在する。
しかしながらこれは非常に単純化かつ形式化できる。すなわち「X」を「Y」すれば「Z」になる
Xに「煩悩や執着」、Yに「消し去れば」、Zに「悟れる」と代入すればインドに居た元王子のおっさんの思想になる。

このように殆どの人生論は3つの変数から表せる単純なものである。勿論、単純なものが取るに足らないものなのかと問われればそうではないと言えるが、とはいえ取るに足らないものだと強く主張されれば「そうだね」としか(俺としては)言えない。

全ては人生論に帰結する

そのように考えてみると、世の中の思想は全て人生論なのではないかという少々強引な結論に達することができる。

というわけで、冒頭に宣言しておいた通り、この文章も例外なく人生論であると言えるだろう。タイトル通りであればこの文章自体が無意味であり、さらに無意味であると主張している内容自体も無意味なので、もはや無意味スパイラルである。デフレスパイラルがなんだ、こっちは無意味スパイラルだと言いたいぐらいである。

さて、この無意味スパイラルの本質を言い換えれば、要は18世紀に(ちょっと)流行った虚無主義である。
虚無主義は「人生に意味なんてない」という中学2年生ぐらいで好きになって高校1年生ぐらいで卒業しそうな身も蓋もない主義であるが、その根底には厭世主義がある。厭世主義はさらに悲観的で、要は「人生はクソ」という現代日本人が好きそうな思想である。この主義を唱えた代表的なおっさんがショーペンハウアーであるが、そのおっさんが書き散らした本の影響で、これまたマインレンダーというおっさんが自死してしまったのでおそらくあまり流行らせない方がいい人生観であろう。
ちなみにマインレンダーは自死の前に「救済の哲学」という本を書き上げたわけだが、この本は日本語訳されていない。よって俺も読んだことがないので大したことは言えないし、ドイツ語はそもそもジャーマンポテトぐらいしか知らない。さらに付け足せば、ジャーマンポテトはドイツ語ではない。とはいえ森鴎外(こいつもおっさんだ)がドイツ語原文でこの本を読み、大いに影響を受けたというのはどこかで聞いた話なので、やはりこれは歴史という人生論の山の中に埋もれさせたほうがいい類のモノであろう。

この「受容的な」虚無主義からの脱却には多くの哲学者という名の暇人のおっさん達が試みている歴史があるわけであるが、とはいえこの文章を読んでいる読者諸君にとっては、哲学などという暇人の学問に触れるよりも今流行りのプログラミング言語や英語でも学んだほうが役に立つというものなので、多くは書かないことにする(この考え方に関して、俺は真に驚くべき解決法を見つけたのだが、このNoteはそれを書くには余白が狭すぎる)。

要は何が言いたいのかというと、人生論は人から人へと、まるで病原菌のように伝染するということである。それは言葉に含まれる毒であり、時には薬でもある。それ自体に俺の感想は特にないが、こうして現に文章を書いているわけであるし、毒を運ばないように気を付けていきたいというものである。

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