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愛猫の死におぼえた感情の正体

先日、我が家の猫が他界した。

15年ほど共に暮らし、一人暮らしを始めてから年に1度会うか会わないかという距離感だった我が家のニャンコ。

長く一緒に暮らしていたのだから、彼女(ネコ)の死は当たり前に悲しいだろうとは予想していた。

一方で、家猫にしても長生きでそれなりに覚悟はしていたし、今は日常生活の中に彼女がいるわけではないので、幾分制御の効く悲しみなのではないかとも思っていた。

制御の効く、というのは、例えば彼女との思い出を回顧すると涙が出てくる、と言った意識的に悲しみに浸るような状態をイメージしていたのだ。

実際には、母親から彼女の訃報を写真と共に知らされた時、悲しいでも寂しいでもなく、ただただ寝ているような彼女の顔に涙が止まらなかった。この時の感情は何かと聞かれたら、無だったように思う。涙だけが止まらなかった。

そんな状況を、徒然なるままに振り返って自分なりに考察してみようと思う。


もくじ
 🐈‍⬛. 感情の定義
 🐈‍⬛. あの時の感情
 🐈‍⬛. 悲しみというもの
 🐈‍⬛. おわりに


🐈‍⬛. 感情の定義


感情について、このようなことを考えたことはないだろうか。

“私たちは一体どのようにして、この感情が「悲しい」だと知ったのだろうか。”

“私の「楽しい」と彼女の「楽しい」はどの程度一致しているのだろうか。”

嬉しいことはシェアして、悲しみは分け合おう、ということはよく耳にするし、理解もできる。その概念を否定したいわけではない。

ただ、どうしたって私の感じているままの感情を直接的にシェアすることはできないのだから、私たちの嬉しいは完全一致するものではなくベン図のような形で重なり合う部分で共有されているのだと思う。

学生時代、言語学を専攻していたのだが、言語教育における直接法では、様々なものをカテゴライズして物にネーミングをしていくように言葉を理解していく。(直接法は、習得しようとしている言語を母語を使わずに教える手法である。)

「机」を教えるには何種類かの机を「机」だと示し、机と似た特徴の異なるもの、例えば椅子を指しながら「机ではないもの」と教える。はじめ生徒は4本足に支えられた板のようなものが机らしいと認識し、そのうち座るものは机にカテゴライズされないらしいと認識する。

感情に話を戻すと、あるイベント(刺激)に対し、何かしらの成分が脳内で分泌され、その刺激を受けたタイミングで笑顔になると、母親が「嬉しいね〜」「楽しいね〜」と言う。

何かしらのストレスがかかり、涙が出てくると母親が「悲しいね〜」と言う。そうやって私たちは体の中で起きた事象に対して名前をつけていくのではないかと思う(あくまで持論だが)。

自分の表情や涙として表れたものだけではなく、何かを見て何かを感じた時、何かを経験して何かを感じた時、親がそれに寄り添いその感情に名前を与えていくのが第一歩なのかもしれない。


🐈‍⬛. あの時の感情


ニャンコの臨終を聞いた時に私が流した無の涙はなんだったのか考えてみる。

我が家は親戚付き合いも希薄な家で、両親は存命であるため、身近な命の死というのは初めての経験であったように思う。

涙は感情が高まると流れるもので、それは悲しいときだけではなく嬉しいときであったり悔しいときであったり。感情の高まりというのは興奮状態であり興奮状態の時には交感神経が活発になる。それを抑えリラックスさせるのが副交感神経であり、副交感神経が高まると涙が流れるらしい(怒った後になんだか泣きたくなるのにも納得)。

加えて、感情は大脳の扁桃体というところで、快/不快、好き/嫌い、を判断するらしい。おそらく私が流した涙は、不快な感情が高まり表れたのだと思うが、結局涙はそれ以上の情報を与えてくれない。私がこの感情を無だと感じたのは、結局名付けが終わっていないものだったからなのだと思う。この感情は全くのオリジナルであり、未だに名前はないのだ。

ちなみにその後、だんだんと「悲しい」という言葉が浮かぶようになる。それはおそらく、私が実際の身近な死を経験するのは初めてであっても、死が悲しいということは知っていたからなんだと思う。その瞬間を経験するのと、その事実を悲しむのは全く別のことなのだと知った。

彼女が灰になってしまった時にまた号泣した。尊さや感謝、愛情、全ての彼女への気持ちが涙になって溢れた気がする。


🐈‍⬛. 悲しみというもの


そもそも思い返せば、私は「悲しい」と感じて涙を流すことはない気がする。「悔しい」「切ない」「嬉しい」「美しい」「愛しい」そんなものに感情の高まりをおぼえる。

普段から心が動いたできごとは文字に起こし、その時の感情をどう表現するのが適切か、ということは考えているつもりであるが、悲しくて涙したと書くことはない。

逆に、涙した状況を「悲しい」と認識することはある。文章を書いていても、書いた内容に対して「悲しい」と振り返ることもある。私にとって「悲しい」は高まる感情ではなく状況を表現する言葉なのかもしれない。


🐈‍⬛. おわりに


色々と根拠のないことを書き述べたが、もしかしたら愛するニャンコの死というものを、「悲しい」という一言で終わらせたくないだけなのかもしれない。英語でsadnessを使わずにgriefを使うように。

命が亡くなるということを本当の意味で初めて教えてくれた彼女に、生前も最後も感謝の気持ちが溢れてやまない。ただただ安らかな眠りを願うばかりである。


まとまりのないままに、おしまい。

※写真はどこぞの島ネコです🐈

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