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「自分を否定された」感覚を修正するために

あ、私、長男のサポートの仕方を正されるたびに、自分を否定されてるような気がしてたんだ。

昨日の長男との会話を何度も読み返すことで、自分の苦しみの理由がわかったよ。

自分らしさと長男のサポートは切り離して考える。

これが必要だったんだ。

視点を切り替えるための思考整理の記事。


何度も読み返すと客観視できる

私が隠さずそのままをnoteに記す理由は、自分の気持ちを客観視したいから。

批判があるだろうな、それっておかしくないとか思われそう、そんな気持ちがないわけじゃないのね。

だけど書くの。

それは、書いたことでそういう自分の価値観とか考え方と向き合えるから。


昨日も同じ気持ちで長男との会話を書いた。

リアルタイムで長男と話をしていたときは、こうやって話ができるのが嬉しいなぁという気持ちだったのね。

「オレが平均的な子どもじゃないから」

と言わせちゃったときは、あ、まずったかなって思ったし、なんか目が潤んでる気がして、うん、そこってツラいところだったよね、ごめん、とも思ったの。

でも良くも悪くも、その言葉で私は救われた。

そこ、感じてたよねっていう再確認と、違うんだから仕方ないよねって認められたというか。

やっぱりどこかで

「私の育て方が悪かったから」

みたいなところがあったんだと思うし、学校の環境が良かったら通えていたかもって気持ちも正直あった。

そこは、長男にも伝わるよね。


いろいろ感じる言葉はあったけれど、そうやって話ができる、気持ちを伝えられるっていうのは悪くない、と思って、話してたの。

私が変なこと言っちゃっても、それは今の私のレベルだろうし、それを受けとめるだけのキャパを長男は持っている、というのは主治医からのお墨付きでもあって。

きわどい話もいっぱいした。

でもしなきゃわからないの。

長男の考えは、私の想像を遥かに上回るから。


で、心に残ったことを noteの記事にしたのね。

もう少し客観視したかったから。

それと、悪いことをしてるわけじゃないのに、ザワザワしてる気持ちの正体も知りたかったから。

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ザワザワの正体

昨日の受診の結果を、帰ってきた夫にサクッと話をした。

文章の件で言われたことも。

夫「ドクターが言うことを全て真に受ける必要はない。

 文章の件は、今までの経過と本人の様子を見て、夫婦で考えて決めたことなんだから、言われたから白紙に戻すとか、必要はないよ。

 ドクターの話はあくまで専門家のイチ意見として取り入れるくらいでいいんだよ。」


私「うん、そうだよね。

 でもそうやって言われると、途端に自分のやってきたことが自信なくなっちゃって。

 長男にも改めて聞いたのよ、文章の件。

 そしたら、

『卒業アルバムに自分がいないのに買うのは癪だしね。そこに載せる作文は書くつもりでいるよ。』

って本人の意思が聞けたから、私の押し付けじゃなかったよねって少しホッとしてはいたんだけど。」


私には昔から、自分と違う意見を自分より立場が上の人に言われると、急に自信がなくなってしまうことがあって。

目上の人の意見はちゃんと聞きなさい、という親の教えを「心の中まで」と捉えてしまっていたことに、夫と話すうちに気づいたのよね。

心の中ではいつでも自分らしさを肯定していい、という考えを知ったのは実はつい最近のこと。

昨日も、主治医から言われたことで、自分の考えを否定されたように思って、私は今のままじゃダメなんだって考えてしまったんだよね。

だからザワザワした。

やっと落ち着いてきたのに、くつがえされちゃったって、じゃあどうしたらいいんだろうって、元に戻っちゃったのよね。

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客観視した結果

私はまず、noteに記事を書くとき、とにかく心の中をぶちまけてるの。

そのあと、前後がつながってるか、分かりにくくないかを確認するために読む。

ここで、アレ?理屈が合ってないとか、急に話が飛んだぞ?みたいなのには気づくのよね。

で、そのまま放っておくとコメントがついたり、スキがもらえたりするんだけど、コメントをもらったらまた記事を読むの。

はぁ、そういうふうに感じるのか、とか、え?そこなんだ!とか発見があって、私の中で深まっていくのね。

スキもね、たくさんついたときにまた読み返すの。

すると、確かにシンプルでわかりやすく書けているかもとか、意外と同じように思う人多いのかな、とか自分の中で腑に落ちてくる部分があったりして。

何よりね、時間をおいてまた記事を読むと、めちゃくちゃ客観視できるのよね。

イチ読者として読む感じになって、私スゲー!って思うときもあれば、めちゃくちゃわかりにくいな、と思うときもある。


昨日の記事はスキがつくたびにまた読んでみたりしたんだ。

自分のこと、これで親?情けなくない?

って感じるときもあった。

親としてどう考えて、長男に接してるのかわかんないな、と思うときもあって。

ああ、そういうことなんだってやっと理解できたの。


私ね、自分なりの信念を持って子育てしてたのよ。

だけど上手くいかなかったわけ。

発達特性の強い子どもは、ストライクゾーンがめちゃくちゃ狭いのね。

どんな接し方でもおおよそオッケーにはならない。

一生懸命にやったって、それがストライクゾーンに入ってなかったらゼロ、もしくはマイナスってことがザラにあるわけ。

じゃあ、ストライクゾーンに常に入るように接しなきゃダメなんだって、子どものストライクゾーンを意識する生活をしていると、どんどん自分らしさというか、「自分にとって心地よい」がなくなっていくの。

感覚としては、エネルギーがどんどんなくなっていく感じ。

なんとか時間を作って、自分らしさを取り戻すんだけど、家族が揃うとあっという間に持っていかれてしまう。

ここまでは合わせるけど、それ以上は厳しいっていう線引きが必要なのね。

でもその線引きをすると、自分にとっては一番やりたくない「子どもの悲しむ姿を見ること」がどうしても起こってしまう。

それは仕方のないことなんだけど、罪悪感が拭いきれないのよね。


母親だもんね。

母親なんだもん。

子どもの悲しむ姿はやっぱり見たくないのよ。


でもそれを優先すると自分が苦しい。

私が消えてしまう感じ。


私がいい!と思うことを無意識に続けていると、それが合わないうちの子たちがワサワサし始める。

ハッとして修正する。

私が楽しいと思うことが、子どもたちには通じないというか、やめてほしいことだったり、やりたくないことだったりする。

それは例えばリビングで音楽をかけることだったり、子ども番組を見て一緒に体操やダンスをすることだったり、家族で映画会を開催することだったりする。

私が家族を持ったらやりたかったことは、子どもたちにとって不快だった。

それがすごく悲しくて。

子どもたちが悪いわけじゃない、私が楽しみの押し付けをしなければいい話。

私は私で楽しめばいいじゃない。

だけど、私は家族で楽しむのが夢だったから。


はーーー、デトックス、デトックス。

涙出てきた。

でもそうなのよ、仕方ないのよ、こればっかりは。


どこの家族だって多かれ少なかれ、あることでしょ。

それがよりハッキリしていたり、ストライクゾーンが狭いだけって話で。

よくある話よ。

仕事と同じで、どこかでは割り切らないと!


結局さ、私はこうしたい、こういうのが好き、こう考えたいっていうのは自由なわけでしょ。

だけど、それが子どもたちには合わない、と。

そこは切り替えて、その子それぞれの特性に合わせた考えやサポートにしましょうってこと。

そこに私らしさがあふれた私は、いなくていいわけよね。

そこに私を持っていきたくなるから、否定されたような気持ちになるだけで。

何でここまで自分と子どもを切り離せないんだろう?

自分のことのように感じるし、考えてしまうし、悲しんでいたら自分までつらくなっちゃう。

でもさ、そこは同化させなくていいのよね。

悲しいよねー、うんうん。って共感はしても、自分の心は連れていかない。

そういう意志が私には強く必要なんだって思った。

誰に何を言われようと、自分の心は自分でちゃんとつかんでいなくちゃ!

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ここに宣言します!

そうとわかったら、あとは意識していくだけ。

自分の心が持っていかれそうだと感じたら、自分で戻す。

私、ダメだったかな、こうしたら良くなかったのかな、そんなときは要注意!

そうだったかもしれないけど、私はこう考えたのだし、まぁいいか、仕方ない、とニュートラルに戻す。


昨日のことも、またこのお母さん押し付けてるわって思われたんだろうな、もっと長男を信じてあげてって信じてないってことだもんな、と頑張ってきた自分を否定しちゃってたよね。

ううん、私が向き合ってきたから、そういう言葉になって出てきただけのこと。

たまたま言ったタイミングや言い方で違う捉え方されたのかもしれないし、主治医の想いが乗ったのかもしれないし、長男がいる前だからこそだったかもしれない。

それはそれでいいのよ、そうかって気づきにつながったし、その後の長男との会話が盛り上がったのだから。


私は私で私のスタンスは大切にしていい。

私だって成長途中な部分がいっぱいあるんだもの。

こうやってひとつひとつ、現実と向き合っていけばいいのよ。

私は私で、私らしい生活や暮らしを見出していきたいって気持ちが、今強くあるでしょう?

だから、長男には長男に必要な関わりをしていく、と割り切って、私は私で私のスタンスを大切にしよう。

長男の考えややり方は私とは違うし、私は長男が決めたことを応援したりサポートしたりすることに徹したらいいだけ。

そこに強い想いや感情を入れても、お互いにつらくなるだけなんだから。


私は私にできることを。

相手が必要としている関わりを。

そして、どうしても私ができないことは、支援を頼もう。

その中で、私は自己実現の時間も大切にしていこう。


長男の文章に関しては、将来がどうのという視点ではなく、「卒アルにちゃんと作文を載せたい」という長男の意志を応援する、サポートする、にとどめよう。

それなら本人の意志に反してないものね。

将来がどうの、は本人が決めること。

今は卒アルに向けて、具体的に支援していくことを考えたらいいよね。

文章が苦手な人に文章を書いてもらう、しかも次に続くように終わったあとの感覚を大事にする、そういう配慮だけでも、親として大切なことだものね。

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