古典をよむということ

ある程度生きていると、少なからず自分が心から好きなものに出会うと思う。私にとってそういう出会いは古典小説に多い。

なかでも、『ライ麦畑でつかまえて(The catcher in the rye)』(J.D.サリンジャー著)は特別だ。
はじめて読んだ時は、読み終えるのにとても時間がかかったことを覚えている。

理由は、面白くなかったからだ。

そもそも海外文学や古典作品は現代の私達にはハードルが高い。
古典作品にはありがちなことだが、時代背景も違ければ言葉遣い、文化も違うという高い壁がある。加えて、海外文学は日本のものと比較してもストーリーにあまり抑揚がなく、シーンの心理や風景描写が長いことが多い。
読書慣れしていない人にとってはそれだけで断念する理由になりうる。

それでも、名作といわれる古典作品達には魅力があるように思う。

そもそも人はなぜ物語を読むのだろう。
私たちは通常、嘘の中を生きている。厳密には、互いに偽りあいを繰り返して生きている。
悲しいことを悲しくないかのように振舞ったり、嬉しくもないのに嬉しいと笑顔で伝えたりする。
心で感じることはひとつなのに、それをなかったようにしなければならないときがある。
その営み自体に善悪はないし、むしろそれによって社会関係はそれなりに回っていく。

ひとは、実際に存在する「本物」の世界にいながら、「嘘」の感情を振りまいている。

物語は逆だ。
「嘘(フィクション)」の世界でありながら、作り手にとっての「本物(ほんとう)」が込められている。
だから私は、詩や文学に触れると日頃お目にかかれない『ほんとう』に出逢えて、救われた気持ちになる。

前者のような、実際に自分が存在している世界で、何かをなすことに意味を見出す人もいると思う。そのような人にとっては現実が大切だから、その中で巧みに生きていくことに抵抗はないだろう。

しかし、私は嘘にウンザリした。何かをなすことよりも、自分にとっての真実に触れていたいと思う。
だから、私は物語を読む。

きっと物語を愛する人は少なからず同じ気持ちでいるのではないかと勝手に考えている。

話を戻そう。
『ライ麦畑でつかまえて』の話の筋はいたってシンプルだ。ひねくれもの少年ホールデンが、寮を離れ家に帰るまでの紆余曲折を描いた物語である。

道中ホールデンは色々な人に出会うが、とくにそれらに関連性はなく、とりたてて大きな出来事は起こらずに話は進んでいく。
読んでいる時は、正直とても退屈だった。

しかし読後、染み入るように心の変化が生じた。
思い返してみてシーンの意味がわかったり、自分なりに物語全体で伝えたかったことを一生懸命考えてみることで、物語に沈んでいる作者にとっての「ほんとう」が見えてきた。

この小説はいつも私に、生きることそれ自体の苦しさを語りかけてくる。
大人になりきれないホールデンは、嘘・偽善と純粋さ・本当の感情の間で分裂することを運命づけられている。

私も、「目を閉じ耳を塞ぎ口をつぐんで」生きていたいと思う瞬間が何度もある。いつでもライ麦畑の捕まえ役になりたい。
口に出すことも、思うことすらできなくなってしまった自分の代わりに、物語が自分のほんとうの気持ちを言葉にしてくれる。

激しい感情に振り回されたり、傷ついたり、むりやり誤魔化したりするのではなくて、心が発したものをそのまま大切にしまっておくように、古典文学は優しく私に教えてくれるのだ。

古典を読むのはしんどいけれど、こういう貴重な出会いが何度もあった。

逆に、書店で平積みされているような日本の現代小説は、とても読みやすくてストーリー展開も面白いが、心に染み渡るようなことばがなかったり、物語の奥に何もなかったりすることが多いように感じる。
それで大抵の需要が満たされているなら、日本はある意味幸せなのかもしれない。

でももし、私のように生きづらさを感じているなら、ぜひ古典に触れてみて欲しい。
自分のなかの『ほんとう』に気づく手助けになってくれると思う。

悲しくて苦しくて生きることがどうしようもなくなっている時、
この小説を隣において、回転木馬を眺めながら雨にうたれるホールデンを思い浮かべる。
彼はハンチングを深く被る。
頬をつたっているのは雨ではないはずだ。
その心が、私と同じであればこそ。

その時わたしは、一切の誇張なく、
物語に生かされていると、そう思う。

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