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人は何を働く原動力とするのか

職場の先輩とブックカフェで話し込んでいて、「何を原動力として仕事をするか」という話題になった。

良い生活のため、家族を養うため、地位を築くため、名声を得るため、社会貢献のため、自己顕示欲を満たすため。

そういう話になった時、私は大学生の時に知ったシャネルの言葉が、とても自分自身にスッと入ってくる。

「優しさに包まれてする仕事なんて、本当の仕事じゃない。怒りがあって、はじめて仕事ができる」

「怒り」。よくよく自分の心を掘っていったとき、カチンと当たるコアな部分だと思う。

最近、世の中の不条理さに対して明確に、意識的に憤慨する事が多くなったように感じる。ずっと前からそういったあらゆるものに対する「怒り」は自分の中にぼんやりとは存在していた。

挙げればキリがない。容姿、経済格差、自分より難が少ない環境下の人への妬みと悔しさ、それらの人を「うすっぺらい人生だ」と卑下して自分を守りたい気持ち、社会構造への怒り、男性優位への反発、自分自身への怒りや嫌悪、家族への怒り。自分自身が母子家庭で一人っ子、経済状況も決して裕福でなし。そういうやや複雑な生い立ちも大いに関係するところとは思う。

小学生の頃に読んだ灰谷健次郎の「兎の眼」に「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん。人間が美しくあるために抵抗の精神をわすれてはなりません。」という一説があり、その「レジスタンス」という言葉は今でも深く心に残っていて、それが自分の身体の中に激しい炎のようにメラメラと存在しているのを感じる。

以前、宮崎駿さんが作品の絵コンテを描いている現場をテレビで見て、この人も「怒り」がエンジンとなっている仕事だな、と思った。ジブリアニメによく描かれている戦争や病気、貧困、労働環境などをみていると、宮崎さんの世の中の不条理さに対する大きな怒りを感じ取る。

仕事ができる私の諸先輩方の多くにはその「怒り」を感じる。それを「悔しさ」と言ってしまうのは簡単な気がする。その中には、それぞれのいろんな種類の負の感情がカオスに渦巻いていて、そういうマイナスのエネルギーがプラスに転換されて、良い仕事が出来ている。そんな気がする。

たまに、それがうまく仕事に転換できないとき、ハロプロの曲を聴くと不思議とその怒りの炎が浄化というか昇華されていくのを感じるので、やはりつんくイズムには、そうしたある種の「毒的な薬」のような作用があるのかもしれない。毒をもって毒を制す、というやつだ。

こうして、「良き仕事の原動力=怒り」説に気づいたわけだが、そうじゃないよ、という方がいたら、ぜひ聴かせてほしい。

ただ、やっぱり「優しさに包まれてする良い仕事」なんて、一体全体、この世にはないのかもしれない、と思う。