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他人の世界におさまる人生

昨晩、Twitterサーフィンしてたら「いやまじそれな!」って首がもげるくらい共感して、何なら凹んでたメンタルが超回復するまであった素晴らしいお言葉に出会ったので、それについて書いていきます。


人と関わるときって、「なんか、自分のやってることや主張が理解されていないな」「よさが全然伝わってないな」とコミュニケーションの難しさや、他者との価値観のずれを感じることってないですか? 私はあります。頻繁に。

今やってるミジュツカなんかがまさにそれで、まぁ理念が「ゆくゆくは社会構造をゆとりあるものに変えていきたい」みたいなぼんやりビッグスケールものだったりするってのとか、普段あまり人と会って話をしようとしないとか、私があんまりおしゃべりではない(よね?)というのもあって、何をしようとしてるのかとかそういうのが「うーーん伝わんないな―」って状態が常です。(にもかかわらず一緒にやってくれる人たちがいることは、とても有難く尊いことだと思ってる)

特に、何か新しい、形のないものを始める時、やっているときってそうなりがちな気がするんですよね。それが大して収益の見込めないものだったりすると猶更。なんだか価値のよくわからないものだと猶更。


先週末まで3331でやってたアートフェアに行ってきたんですが、そこに並べられていた作品のいくつかは、今の私にとってはよくわからないものたちで。じっくり眺めるでもなく、「分からんし・・・」と通り過ぎてしまいました。逆に、色味や質感が私好み(寒色系大好き、ペールトーン大好き、透明大好き)だったり、描かれたモチーフから私なりに物語を想像できるような作品は、何回か見に行きました。「1枚5万円くらいなら買えなくもないし、買ってうちに飾りたいな」と思いながらじっくり眺めてましたね。財布の残金3千円だったから買わなかったんだけど。


で、冒頭の話、私が出会った言葉に戻るんですが。その言葉というのがこれです。


評価されようと思うなよ。

人は自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。



これ、「ほんっとそれな!」すぎません? 「理解のある彼くん」こと「赤べこ」ばりに心の中で頷きましたよ、私は(あれ、これだとむしろ納得してないみたいな感じになってしまう?)。


twitterで朝日新聞の「折々のことば」記事の引用が流れてきて、それでこの言葉を知りました。

作品を作ったり、企画を立てたり、既存の何かを改善する方法を考えたり。現状を変えていく何かをしようとするときって、どうしても理解を得られないことがあるじゃないですか。・・・説明下手な私だけかな?

そういうときって、おそらくこちらの提案することが相手側からしたら、自分の経験にはなかったこと、未知の世界であって、その人の想像力では到底考えが及ばないような(馬鹿にしているのではなく、優先順位の異なる世界にいるのだから、お互い分からないことはあって当然というスタンスです)ことだったりするんでしょうね。だからこそ、理解されたいと思うなら、相手の今までの経験を踏まえながらコミュニケーションをとることが必要なんだなと。

ただ、この言葉(評価されようと思うなよ。~)は、どちらかというと「人に伝え、わかりあうこと」を重点としているのではなく、「自分の価値をわかってくれないやつに合わせて自分のやりたいことや意志まで捻じ曲げるな」というニュアンスらしいので、私のこの読み取り方は誤読っぽいですね。

時には自分を貫くために他者を突っぱねるような態度や方針をとるという選択もあるだろうな。分かり合うための努力や工夫と、自分の意志や目標、欲求を貫くこと。その双方をうまく使い分けていきたいです。


それから、この言葉がtwitterを流れてきたタイミングで、落合陽一氏が「「大衆やモブにセンスがいいと思われる」なんてダサいことしてたまるか!!」とツイートし、更に西尾泰和氏がそれを引用リツイートして「「大衆を喜ばせるのは悪」ということだな」と述べてましたね。タイムリーな話題なのか? 最近選挙があったからなのか? 何分引きこもりで世情に疎いのでよくわかんないんだけど(私の想像力の範囲に収まってない)。

で、西尾氏はさらにご自身のブログ(?)でシラーの詩を引用・和訳して「あなたの行いや作品で全員を喜ばせることができない?なら少しの人を喜ばせよ。大衆を喜ばせるのは悪である。」と書いてました。たしかに大衆受けってなんだかポピュリズムというか一種の洗脳っぽさがあって、場合によっちゃあプロパガンダになって、とかがありそう。そういう社会道徳的な面での「悪」もあるだろうし、他者に迎合しようとすること自体が汚い行為という風にもとれるんだろうな。目的のない迎合は悪手かもしれないね。

「評価される」ことが「相手の想像力の範囲内に位置している」ことなのだとしたら、評価されようとすることは、自ら相手に合わせに行っているわけだから、誰かにとって都合のいい個人に成り下がるという風にも受け取れるのかもしれない。本当は地元で仕事をしたいのに、誰かに合わせてずるずると東京に居続けるような、誰かの世界におさまって生きているような。それで何の不満もなく幸せに生きて行けるなら、それもいいと思うけどね。


話が変わって、先述した3331でのアートフェアの話にちょっと戻るんですけれども。いくつかの作品は、私にとってよくわからないものたちでスルーしてしまったと言いましたね。「評価されようと思うなよ。人は自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。」という言葉はドンピシャですね。よくわかんなかったから、私にはその作品たちを肯定的にとらえられなかった。なんなら、否定的にとらえるにしたって、酷評するにしたって、なんでそんな風に言うことが出来るのか、的を得た説明なんてできない気がします。なぜなら、低評価にしろ高評価にしろ、評価をするということは自分の中にその対象を取り込んで、自分の持っている基準で推し量るということだからです。だけれども、その基準なるもの、すなわち自分の想像力が及ぶ世界の中に対象が位置を占めることができないのなら、それについて評価をすることはできないです。

かの著名な社会学者ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』でも、自分の想像力の範囲に収まることのない対象に対して拒否反応を起こす人々の様子を見て取ることができます。「よくわからない」と距離を置こうとしたり、「気持ち悪い」と拒否したり、「こんなものは時間と資源と労力の無駄だ」と否定したり。作者の意図とは全くずれた位置から、おそらく作者からすれば見当ちがいな批評(?)を行っていました。それが悪いかと言えば全然そんなことはないんだけど。コミュニケーションが成立せず、ずっと平行線というか、ねじれの位置をお互い爆走してますねってだけ。

※ブルデューの前作『美術愛好』は読破しましたが、『ディスタンクシオン』は上下巻合わせて1000ページくらいあるらしいし、ブルデューの文章は読みづらいのでまだ70ページくらいしか読んでません。なので内容に相違があるかも。すみません。

で、こういう芸術作品に対する否定的反応、距離を置こうとするのって、まぁもちろん作者の作品発表の仕方が悪い(様々な点で形態の工夫や説明が足りてない)とかもあるんですけど、鑑賞者側が「分かろうとしない」っていうのも問題の根底にある気がします。

だからこの先、私自身がある対象について「よくわからんなぁ」と距離を置こうとしたとき。「わからん」と思ってしまった時。その対象が自分の想像力を越えた存在であることを意識し、想像力を補うよう努力できる人間でありたいと思いました。っていうただそれだけの話でした。

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